わたしの相撲愛 その1
2023年大相撲5月場所は横綱照ノ富士が優勝した。前年に両膝の古傷が悪化し10月に両膝手術、4場所連続休場後の復活優勝は見事だ。そもそも照ノ富士は2015年に大関になったが膝の怪我や糖尿病でなんと序二段まで落ち、6年かけて大復活し横綱になった。私は心から尊敬している。
初めて大関に昇進したときから照ノ富士には好感を持っていた。同じモンゴル出身の朝青龍は粗野で乱暴で非常識、白鵬は不遜だが照ノ富士にはマイナス要素がなかった。朝青龍、白鵬は確かに強かったが奇襲や張り手、エルボーでの攻撃を多用し「横綱相撲」とはほど遠かった。
照ノ富士は相手の当たりをしっかり受け止め、力感あふれる正攻法の取り口で豪快にねじ伏せる。今後も膝を大事にして横綱相撲を見せてほしい。
私は幼少期から相撲が好きだが、そうなった過程と理由を書いてみたい。
物心ついてから小学校入学までの数年間、私は超ひまだった。学業もない仕事もない、朝起きてごはん食べてうんこして外で遊んでテレビ見てまたごはん食べて寝る、という今から思えば夢のような日々だった。そんな私をとりこにしたのは相撲だ。
隔月15日間の本場所が始まると、夕方にはテレビの前に陣取り、中継を最初から最後までゾクゾクしながら見ていた。取り組み終了後の弓取り式まで見た。なぜ相撲だったのか?自分でもよくわからないが、裸の太った男たちがぶつかり合うという異形と儀式めいた物珍しさがこどもの心に響きハマったようだ。
記憶がある方は少ないと思うが当時(1960年代半ば)は相撲の生放送が始まったばかりの時代で、NHKだけではなく民放の放送もあった。カルピスのCMが流れていた記憶がある。その頃の横綱は名横綱大鵬、いつも半泣き顔の柏戸、後に出羽海理事長になった佐田の山、すぐ引退した栃ノ海がいて外国人力士はいなかった。
大鵬の土俵入りは大好きだった。身体の動きひとつひとつが滑らかで曲線的で優雅で気品にあふれていた(こども心に感じていたことをいま翻訳している)。
大鵬に比べると以後の横綱の土俵入りは直線的でがさつだ。それが北の湖、千代の富士、貴乃花を経て白鵬、照ノ富士ら現代の横綱に引き継がれ当たり前になっている。力強いが儀式としての美しさはなく寂しい。先年大鵬が亡くなったときテレビでさまざまに取り上げられたが、土俵入りの素晴らしさへの言及はなく残念だった。
私は毎日大鵬の土俵入りを見て、見よう見まねで練習しついに覚えた。人前で披露する機会はなかったが、手足がまともに動けば今でもできる。近所の海岸に流れ着いた枯れ枝を拾ってきて弓取り式の練習もしたが、こちらはものにならなかった。
鶴ヶ嶺(つるがみね)という前頭部が寂しい中年力士がいた。得意技はもろ差しで寄りきりという地味さで、いつも8勝7敗か7勝8敗で前頭中位を浮遊、ちなみに息子3人も相撲取りで逆鉾と寺尾は後年親方になった。
あるときテレビで鶴ヶ嶺の誕生日が自分と同じと知り、その日私は鶴ヶ嶺を応援することに決めた。鶴ヶ嶺の取組は心臓がバクバクして見れず別室に隠れ、母のミシン用の椅子を相手に、投げ技とかけ技の研究をした。
すもうきち○いと母にいわれた。2つ上の姉は相撲の相手をしてくれなかったばかりか「あんたは椅子と相撲取ってたんだからね。ほぉんとバカみたいだったわ」といまだにいうが当時の私は真剣だった。母にノートを買ってもらい自家製の星取表を作った。おかげで力士の難しい漢字も覚え祖母にはほめられた。
小学校に入学すると休み時間はいつも友人と相撲を取っていた。体が小さい私は相手の懐にもぐり込み頭をつける作戦を多用したが、成果は町内のお祭りのこども相撲大会の参加賞が最高だった。
学年が進むと相撲をじっくりテレビで見る時間が減った。友人たちの影響で好みのスポーツも野球やサッカーにシフトし、相撲への興味が次第に薄れ相撲フリークぶりも収まっていった。
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