見出し画像

Spring must not be killed.

春を殺して夢は光っている、で、よいのか、という話。

アイドルの恋愛禁止について、またしても一部界隈がザワつく出来事があったようです。私は騒がれているグループにもメンバについてもよく知らないので、今回の件じたいについては何も言えません。

とはいえ、’10年代の一時期を(ヘビーではないにせよ)アイドルファンとして過ごした一人として、こういう話があったときの当事者や関係者の立場を考えると胸が痛むし、まだやってんの、という気持ちにもなってしまいます。

大前提として、ショービジネスのために演者の内心やプライベートの交遊が縛られるということ、しかもそれが演者の人間としての当たり前の欲求すら抑圧するものだというのは、今日において受け入れられない話だと思います。また、一口に「恋愛禁止ルール」といってもグループにより様々で、明文化されていなかったり演者本人が望んでそういう形をとるケースもありますが、そうであっても演者が十代から二十代前半の若年者で、実際にその管理運営責任が立場も年齢も上の大人たちによってなされている以上、「勝手にやって勝手に破った」式の自己責任に帰すことにも強い違和感を覚えます。

総じて、アイドルビジネスというのは、男女問わず疑似恋愛的な幻想に依っている事実があります。ファンにも、それにどれだけノっているか程度に差異があり、最も重度にノっているのが「ガチ恋」と呼ばれる人たちだと思います。恋愛スキャンダルが報じられたとき、しばしば「ガチ恋」勢の悲痛な叫びと、それに対する嘲りが続きます。では「恋愛禁止ルール」の問題は一部の「ガチ恋」の人たちが考えを改めれば済む話なのでしょうか。

私はそうは思いません。「恋愛禁止ルール」にはノっていない現代の大多数のファンであっても、アイドルを推すとき、そこにはファンが見たい、ファンによって理想化されたアイドル像、への欲求があります。というか、それがアイドルの原義であって、ダンス名人でもノド自慢でもなく特定個人を外見・内面も含めて推すというのは、その演者のパーソナリティの発見、解釈、追求行為だと捉えます。

仮説ですが、そこには ①演者が外形的に現したパーソナリティの一端を、②ファンが捉え、解釈し、推せる理由として編纂して、③その再現とアップデートを求めて特定の演者を追う、というプロセスがあるように思います。例えば、①アイドルサイボーグと評されるような正統派ぶりを身上とする女性アイドルがいたとして、②ファンはそこに惹かれ、彼女がますます正統的であることを求め、③結果的にバースデイイベントでは昭和アイドルの名曲が歌われたり、恋愛スキャンダルには他メンバより一層の厳しい目が注がれる、というようなことです。

勿論それ以前にジェンダー的な、理想の女性像男性像を求める気持ちもあると思いますが、しかし、実体験からは上述の再帰的なモデルがしっくりきます。

厄介なのは ③の段階だと思われ、ここにおいて、演者およびアイドル運営側は、③を持続させるためにファンが望むパーソナリティを演じ、揺さぶり、大きな逸脱を避けることが求められます。それは、例えば厳しいレッスンへの従事であったり、同期との友情を感じさせる場面であったり、また逆に競争から一歩引いたマイペースさの発揮だったりします。

外部から跳ね返ってきた物語に、演者のステージ内外を問わない振る舞い、更には演者を降りたプライベートでのあり方すら規定されかねない構造がある。ファンの求める姿に答えるために、それは一層エスカレートしていく。アイドルビジネスが感情労働あるいは全人格労働として語られる所以ではないでしょうか。これが推進された先に「恋愛禁止ルール」のようなものが生じると思います。それがバッシングなどを引き起こすとき、ファンのまなざしは暴力となる。

そういう見方は、アイドルファン以外も、高校球児や若いスポーツ選手を応援する気持ちにも通じると思います。我々は普通の青春、普通の生活を擲って何かに打ち込む人に魅力を感じるし、それは根深いものがあります。ただし、アイドルの場合は、ファンが見たいものを見せることが、直接的にビジネスに直結しているという点は見落とせません。甲子園のスターの試合外での行動は、せいぜい夏のスポーツニュースの賑やかしでしかないわけですが、アイドルの舞台外での行動は、それ自体が会員限定の配信コンテンツになるなど、即座にマネタイズされます。かくして、ファンが見たい、求めるアイドル像は、資本主義ドリヴンで一層強化される。

アイドルファンが必ず持っているまなざしの在り方が、今日の事態を支える構造であるのかもしれない。

さて、長々と書いてしまいましたが、そんな危険な構造をはらんだアイドルビジネス自体を畳んでしまえ、というのは簡単です。しかし、現実にアイドルの存在に辛い日々を救われたファンがいて、憧れてアイドルになる若者がいます。様々な問題を抱えながらも、アイドル文化から生まれた価値は測りしれません。ではどうするか。

私に答えはありませんが、ファンとして、推すことが潜在的にもっている危険さを自覚し、エスカレートを戒めることは、最低ラインとして必要だと感じます。というか、それは多くのファンは無意識に抑制できているはずですが(でないとアイドル文化が今まで存続しない)、ファンのまなざしの危うさについては、より自覚されるべき段階にきているのかな、とも思います。運営や週刊誌ほかメディアが走らせる資本主義の論理に踊らされず、自分が本当に何を見たいのか、自分自身の頭で決める。

みっともない真似をしない、は乱暴に過ぎるのだけど、みっともない真似をしない、という最低限の矜持が共有されないとどうにもならないのではないか、という雑感です。

さいきん読んだ『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』という本が、アイドルを推すことについて非常に丁寧に扱われた論集で、とても面白かったです。本記事は思うところをつらつらと書いた次第ですが、有形無形の影響を受けていると思います。

以上




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?