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自分の境界線を守ること、それが自分の責任

「境界線」の概念をご存じでしょうか。この境界線は、本来人全員が認識するべき基本的な人権とも関係するものです。私(ペンネーム「真実の剣」)は、この概念を知った時、「人全員が幼少期から学び、そして日常的にトレーニングするべきもの」と感じました。

私はこのnoteで「見えない暴力」の構造を書いてきました。近年話題になっている職場でのハラスメント、あるいは家庭内のハラスメント、時には殺人などの痛ましい問題にも発展しがちな男女間における精神的DVなどを振り返ると、この境界線の問題が横たわっていると確信しました。

また、私自身の経験を踏まえて言いますと、境界線を意識することは、職場やコミュニティにおけるハラスメント、男女間での精神的DVを未然に防止するための、重要な手段になると確信しています。

つまり、この境界線は、自分が被害者にもならないし、相手を加害者にもさせない、きわめて重要な概念です。

今回は、この境界線について、私の体験談を交えながら書きます。

■境界線を明確化するためのアファメーション

境界線の概念は、心理カウンセリング分野、あるいは介護業界などでは、よく知られたものだそうです。

これらの分野においては、クライアントや介護対象者がカウンセラーや介助者に対して感情的に頼る構造になりがちで、それゆえに職域を超えた依存の問題に発展することがままあるのだそうです。一方、先にも触れたように、本来、境界線の概念は人間関係が関わる全ての領域において必要でしょう。

この境界線の概念を理解するために、私が取り組んだことを紹介しましょう。まず、下記のような基準を「真実」として受け入れ、つねに意識することに取り組んでみました。アファメーション(宣言文)として、時折声に出して読んでみたこともありました。

経験から言いますと、これが意識に定着してくると、日常生活で人と対峙するときに何らかの変化が出てくるはずです。自分自身の意識の持ち方も変化してきます。

「相手の感情の持ち方は、相手の自由意志で決まる。一見、私が原因で怒っているように思えたとしても、相手がその怒りを私にどう表現するかは、相手自身の選択で決まっている。その場合、私は基本的人権をもち価値ある個人として、正当に扱われる権利がある」

「私の感情の持ち方は、私の自由意志で決まる。もし私が、相手が原因と思えることで怒りの感情を抱いた場合、それは私の自由意志と相手の自由意志に基づいた結果である。基本的人権をもち価値ある個人である私が私の怒りに応じてどう行動するか、また、基本的人権をもち価値ある個人である相手に、私の怒りをどう表現し伝えるかは、すべて私に任されている」

「私と相手はそもそも対等に価値ある人間である。だから私がどう感じるか、どう考えるか、どう行動するかを私自身が決めるという私の基本的人権は、他者に尊重されていい」

「私と相手はそもそも対等に価値ある人間である。だから相手がどう感じるか、どう考えるか、どう行動するかを相手自身が決めるという相手の基本的人権は、私が尊重するものである」

「私がもつ時間や財産の使い方を決めるのは、私である。私は一人の人間として、それを周囲に正当に主張し、正当に交渉する権利がある」

「相手がもつ時間や財産の使い方を決めるのは、相手である。相手は一人の人間として、それを私を含めた周囲に正当に主張し、正当に交渉する権利がある」

「私は一人の人間として、できること、そしてできないことがある」

「相手は一人の人間として、できること、そしてできないことがある」

「私が相手の要望に応じて実施した行動で相手が満足しなくても、それは究極的には保証しかねることだ。なぜなら私は一人の人間だからだ。私が相手にできることは、私なりに可能な限り、精一杯努力することだけだ」

「相手が私の要望に応じて実施した行動で私が満足しなくても、それは究極的には保証しかねることだ。なぜなら相手は一人の人間だからだ。私が相手に要望できることは、相手なりに可能な限り、精一杯努力してもらうことだけだ」

「相手の提案、それが私の要望ではなく行われた相手の提案に対して、イエスかノーかを決めて提示するのは自分の権利である。たとえノーと言って相手が不機嫌になったとしても、それは私の責任ではない」

「私の提案、それが相手の要望ではなく私が行った相手への提案に対して、イエスかノーかを決めて提示するのは相手の権利である。たとえ相手がノーと言っても、それは相手の権利の行使であり、私はそれに対して何かを言う権利はない」

「私は私の本心を誠実に相手に伝えるだけだ。その内容を相手がどう受けとめるかは相手に主導権がある」

「私は一人の人格ある人間として、相手に対して、相手の本心を誠実に私に伝えてもらうよう要望を述べることができる。相手から伝えられたその内容を、私がどう受けとめるかは私に主導権がある」

■基本的な人権に基づいた概念

境界線とは、自分と他人を区別する人間関係の境界線です。これは、

「別の人格である人はそれぞれ、まったく別の価値観を持っている」
「人はそれぞれ自由であり、また人それぞれの価値は同じである」
「人は生身の存在である。可能性はあるけれども不完全な存在でもあり、現時点の限界はある」

という当たり前の事実に基づいたものです。上記のアファメーションは、すべてその原則に則ってブレークダウンされた、具体的な内容です。

現代人は意外にも、こうした境界線についてあまり意識していないようです。家庭、学校、職場、友人・恋人関係などで、「お前はそもそもこう考えるべき、お前はこう感じるべき」といったような、境界線を侵食した関係性が当たり前になってしまっているからです(私も例外なくそうでした)。

上記に挙げたような、「人はそれぞれ異なっていて、それぞれの価値観を持つことは自然であり人間としての基本的な権利である」という当たり前の事実を認識したうえで、自分の周囲にある人間関係や、過去の人間関係を見直してみると、驚くほどいろいろなことが見えてくるはずです。

(※なお、私は人権をバージニア権利宣言中に書かれている「幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利」に準拠した形で捉えています)

■怒りを正当に表現することの重要性

私個人の体験を申しますと、一番最初に挙げたアファメーションのことをうまく理解できませんでした。なぜなら「相手が私が原因で怒っている場合、その理由が正当であればその相手にどのような形で怒られても仕方がないだろう」という考え方を持っていたためです。

するとカウンセラーは、「それは非常に危険な考え方だ」と一蹴しました。その上で、次のように説明を受けました。「相手があなたが原因で怒っていたとしても、あなたは相手に基本的人権を持つ人間として正当に扱われながら、その理由について誠実に説明を受ける権利がある。これを強く心に刻んで欲しい。『私に原因があるから相手に何をされても仕方がない』という考え方は、逆にあなたが怒った場合に『私は相手が原因で怒っているのだから、人権を無視してどこまでも相手を不当に扱ってよい』という考え方にエスカレートしがちだ。これはあなたによる相手への暴言や暴力に発展するおそれがある」と。これは指摘されてなるほどと初めて気がつきました。

カウンセラー曰く、ハラッシー体質の人はしばしば、妙な怒りのループにはまりがちなのだそうです。ハラッシー体質の人は多くの場合、「相手が怒っているのは自分の責任だ」という無条件の自責反応が心身に強固に埋め込まれています。また、幼少期の頃から人格をなじられるような極端な怒られ方に慣れすぎてしまっているが故に、その反動として、自分が怒った時に相手に暴言・暴力が入り混ざったキレ方をしがちなのだそうです。

さらに言えば、ここがいわゆるハラッサーにつけいられる隙となるそうです。精神的DVハラスメントを行うハラッシーは、“調教”を受けている被害者体質の人を探すのが、非常にうまいそうです。

彼らはハラッシー体質の人を見つけてそばに置き、何か機嫌が悪いときに相手を「お前が悪い」と決めつけ、自らの感情のはけ口にしています。最初から「わたしが悪い」と思い込んでいる人間を操作するのは簡単だからです。さらには、ハラッシーを追い込んでキレさせた上で、「お前は不当にキレた、だから私は被害者だ」と弱みを握り、また再び道具に利用する、というわけです。

ハラッサーが行っているのは、『魂の殺人』という著書で有名なミラーが言うところの「闇教育」そのものです。闇教育とは、早期の教育により、本人に何が起きているのかを分からなくすることを指します。感覚的に「何かがおかしい」と分かっているにもかかわらず、精神的・肉体的なハラスメントにより、その感覚の正しさに気がつかないようにするのが闇教育です。

こうなるとハラスメントを受けた側は、もはや何が自分にとって正しいのか・正しくないのかが分からなくなり、外部の権威者による命令に従うしかなくなってしまうというわけです。

■人権意識に基づいて人間関係を捉えること

一方で、上記のような基本的な人権に基づく認識――つまり境界線の意識がはっきりしてくると、不思議なもので人間関係が少しずつ変わってきます。相手がどのように自分に対して接してきているのかが、何となく見えてきます。また、これまで自分が他者に対して、どのような前提で接していたかが、良くも悪くも見えてきます。そして次第に、人に対してどう接すればいいか、まったく別の地平線が見えてくるかと思います。

例えば親に対しての感情や接し方などはその代表例と言えそうです。子どもは一般的に親に対して「親としての行動」を期待し、そうできていない親に不満や怒りを感じがちです。そしてそれは子どもが大人になったとしてもその延長線上で親を捉えがちです。

しかし翻って考えると、親も単なる一人の人間です。その視点を見失ってしまうと、ともすればずっと子どもの視点で親を見ることになり、「私の親は親らしくない」とむやみにネガティブな感情を抱き続けることにもなりかねません。それは親という人間の自由意志や人権を尊重することにはなりませんし、何よりも自分の人生の損失と言えるでしょう。

■境界線を守るのは自分の責任

もう何年も前のことになりますが、私はある著名なカウンセラーからいきなり、こう言われました。

「あなたは依存症だ。だからハラスメントのターゲットになるのだ」

と。当時の私はいきなりこう言われて正直、むっとしたのですが、そこから何年もかけて、ようやくその意味が分かりました。

詳細は省きますが、一つの原因は、これまで述べてきた境界線の概念を全く知らないまま、のんべんだらりとなれ合いの人間関係を続けてきたことが挙げられます。特に私の場合は「人に頼られると断り切れない」、つまり「頼られている自分にこそ価値がある」という勘違いをしていました。いわば「役割依存」の体質です。

結局、私は相手の言われるがまま・なされるがまま、自分の人生の主導権を握ることなく生きていました。今から思えば、そりゃあ賢い人に騙されもするだろうな、と思います。

そうでなくても、人は完璧ではありませんから、全員、慣れてくれば相手に甘えるものでしょう。それを仕切り直すのは自分自身の責任であるはずです。それなのに、私は「相手(ハラッサーのこと)が悪い」と非難し、外側の要因に自分の主導権を預けていたのですから、まるで人生の負け犬そのものだったと言えるでしょう。

一方、境界線を意識するようにしていると、しだいに相手がどんな基準でコミュニケーションを取ってきているのかが分かるようになってきます。そこで「それはちょっと違うんじゃないですか」と改めてNOを突きつけることは、自分のためでもあり、また相手のためにもなるはずです。

最後に、有名な詩人・谷川俊太郎氏のすてきな翻訳をご紹介します。「世界人権宣言 第1条 みんな仲間だ」をご覧ください。私自身、これを常に考えていかねばならないと思っています。


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