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行列に並ぶのが嫌、死ぬほど嫌

人生ゲームのピンのほうがまだマシな人生を歩んでそうな今日この頃、表題の件については常にいら立ちを感じざるを得ない。ただ、新店のオープニングセレモニー及び人気店、現実を感じざるを得ない夢の国のアトラクションの異常な待ち時間などに関してはいたずらに行列を成していてもまだ頷ける。

なぜなら、これらは下記の行動指針に基づくからである。

  1. 好きな物及び目的があってそこに並ぶ場合

  2. 好奇心が並ぶ面倒臭さを上回る場合

ただ、ここで批判したいのはシンプルに駅階段での行列及び満員電車などの人が行き交う公共の場での行列(というよりも渋滞と言った方が正しいかもしれない)である。

Case.1 交通機関における行列

第一に交通機関は家と目的地(会社など)を繋ぐハブであり、プライベートとパブリックの中間に位置する。
それ故に圧倒的に流入する人数が大きいのも仕方のないことである。コロナ禍に満員電車ゼロの公約を期間限定で果たした小池都知事だが、常時満員電車ゼロを望んでいるのが我々国民である。

駅がほとんどではあるが、満員電車は言わずもがな、大抵エスカレーターや階段で滞留する。
興味深いのは、エスカレーターの横に階段があってもエスカレーターに列を成しているケースが多い場合である。一人なら気にせずとも、人といるときはどうしてもエスカレーターに並ぶのが通俗的な感じにはなっている。列を成すのが学校における軍事教育の賜物であるとは言わないが、列を成すことに精神的落ち着き具合やエチケットが垣間見える。

―――マンモス駅自体がウィンチェスター・ミステリー・ハウス的意味不明の構造

家主であるウィンチェスターが、ウィンチェスター銃によって殺された人々の霊によって自宅が呪われているという不安から増築・改築を繰り返している。-Winchester Mystery House

地下鉄から地上に出ようと思ったらよくわからない駅直結型商業施設に入ってしまうことを罠と呼んでいるが、そもそもA1やらC1出口を目指して案内板を見ていくと途中でそれを見失って彷徨う構内の藻屑となってしまうことも暫し起こり得る。もはや脱出ゲームなのである。
あとは改札を表す「北口(西)」や「東口改札」「中央東口改札」など、なんやその「なんでもしますから(なんでもするとは言ってない)」みたいな迷文、と言う感じの複雑な改札事情。なんなら、出るのか入るのかはっきりしろと言いたくなるゴロワーズのような両切りの改札ではお互い牽制して無駄に時間を取られる。

しまいには、並んでいたホームに早く付いた電車に飛び乗るとなかなか発車せず、後から来た電車の方が快速だった場合も起こり得るし、同じホームにて行き先が異なる電車が混在して発着する場合も同じく罠と呼んでいるし、10両編成と思い込んでいたら8両編成だった時の目の前を過ぎて停車する電車に後から駆け寄る姿なんぞなんて惨めなんだという気持ちになる。

―――京王線新宿駅ホームの行列

この事例で面白いのが、京王線新宿駅における階段の行列である。
2番ホームの地上階に向う階段に列を成しているが、反対側は空いているのである。不思議ではあるが、初代スーパーマリオブラザーズの横スクロールに当てはめると理に適っている。

初代スーパーマリオブラザーズ。横スクロールアクションで世界的ヒットとなった名作。初代は左から右にスクロールして進むと左に戻れなかった。

平日・休日問わず、朝の忙しない時間帯に行列を成すということはしたくない。ただ列を成さずとも合流及び割り込みがある種許容されるのもこういった駅ホームでの階段である。
心安らかに、落ち着いて動くという精神性は遅刻を許さない。ただ面白いことに京王線自体はしょっちゅう線路内点検や緊急ブレーキで遅延しているのである。
位置的な問題はあるだろうが、反対ホームである3番線は逆にエスカレーターに並ぶ人は少なく、階段を駆け上がる人が多いのも面白い。この場合、案外エレベーターを使った方が早いというのは発想の転換として踏まえておいた方が良い。

Case.2 店舗(ラーメン屋)における行列

家系ラーメンの総本店である吉村家は横浜に向かうたびに眺めては毎度のこと列が出来ている。同じくして、チェーン店でありながら列を成す鬼金棒(神田、池袋の2店舗のみ)も同様である。早い話がもっと店舗を増やせば行列が解消されると思うが、そこでしか食べられない希少性が行列を作り出すエッセンスとなっていて、味にも特別感が付与される。
実際に吉村家に行ったという方の話を聞いたことがあるが、やはり「美味い。でも並んでまで食うもんじゃない。」との意見だった。

―――自分が食べている時に後ろで待っている人が大勢いる事実

まず落ち着いて自分のペースで食える環境でないと、飯の味がわからない。後に他の人が控えている緊張感、あるいは店内にいる人を外から眺めている様を通行人から好奇な目で見られるというある種の居心地の悪さが我に返ると生じてくる。

一番良いのは、店内に数人ほど人がいて、暇でも忙しくもない位の店内状況の店である。
人がいな過ぎると入りづらいし、い過ぎると例によって「並んでまで食いたいほどでない」と、入る気が無くなってしまう。
店内にスタッフしかおらず、空いてると思って入った店はそれはそれで居心地が悪いのである。提供される水、しきりにテーブルやら店内を拭いているスタッフ。手持ち無沙汰で厨房からこちらの様子をうかがうスタッフなど、こちらを気遣ってのことだとは思うが、状況的にはBlank Room Soupである。

出典:https://www.youtube.com/watch?v=6VMRAGxjOoA

余談だが、行列店が美味いともてはやされるのは待ち時間により空腹になることでそう感じるのではないかという疑念があったが、軽く食事をとった後から食べてもちゃんと美味しかったのである。
また重ねて余談になるが、諸般の事情によりメイドカフェに行く話になり、開店前に「もう並んでるよ」と開店時間まで並んでいたらどうやら様子がおかしく、よくわからない地下アイドルのイベント行列だったらしいことに気付いてすかさず店(目的のメイドカフェ)に駆け込んだことがある(はじめから店は空いていたのである)。

Case.3 歩くスピードは人によって違う

元も子もない話だが、これが行列ができる原因であると思われる。
我々は同じ空間に存在し、同じものを見ていながら、映る景色や感じる状況については多種多様である。

混雑が多発する都会での生活において、我々は急いでいるのではなく、ただただ自分の速さで歩みを進めたかっただけなのかもしれない。急いでいるように思える早歩きの人も、ながらスマホでゆっくり歩く人も、自分の時間の中で自分の速さで進んでいるだけで、誰もが自分の世界で生きているだけなのである。そもそも急ぐという行為は状況がそうさせるものであり、急いで行動したいなんて当人すら思っていない。
行列に並ぶ時間のゆとりと、交通機関の混雑に流れるままに身をゆだねる精神性、我々が求めているのはこういったゆとりある暮らしである。
急いでいるのではなく、人波に揉まれている間に一刻と過ぎる時間に対する焦燥感、あるいは人波の中で溺れる自分自身そのものに向けられる不安が「急がなければ」と思わせているのかもしれない。

と言っても最近やるせなさを感じたのは、コンビニ(主にファミマ)のレジでの出来事である。アルコールやら煙草、割引品以外は基本セルフレジでOKなのでそこで済ますことが多い。それによってファミマでは有人レジ、セルフレジと行列を分けている(それによる混雑緩和効果が期待できる)。ある時、缶チューハイを買うのに有人レジに並んでいて、前の人の会計が済んで帰り「次俺だ」とレジに向かう刹那、セルフレジの列先頭に並んでいた人が割り込んできたのである。
おそらくレジ列に区別がないものと思ってわからずに並んだのかもしれない。「あーこれ、たまに回転寿司屋で注文品を普通に回ってきた寿司と勘違いした人が勝手に取っていっちゃったパターンと同じね」と、空皿の注文品が自席に流れ着いたときと同じことを思った。さらにレジでの様子を眺めていると、アルコールや割引品の類は一切買っておらず、支払いもSuicaであった。

「あんたそれセルフレジでもできるよなあ!?なんでここ来たん!?俺が見えねえのか!?ああん!?」

と言いたい気持ちはあったが、とは言え皆各々のペースで生きている。コンビニはどこにでもある。店内が混雑していたら別のコンビニでも良いのだ。

あと思うのが、行列の先頭に自分がなったとき、後ろの人の間隔が狭くて「なんか肘当たるな、おい」なんて思って振り返ると「え?なんですか?」みたいな顔したオッサンが居て、スマホやらで注意散漫になってたらまだわかるものの、目が合って気まずかった。気持ち前に出て間隔を広げようとすると、後ろでその間隔を狭めるが如くオッサンもシンクロして来た。

「おま、見えへんのか!?もう俺レジ前通路まで出てきてしもてるんけど!?この状況どう捉えてる!?」

行列でやけに距離詰めてくる人、自分キツくないんか?
ほら、触れてるで?手
密着したろか?逆に
というか後下がってもええか?
たのむから…

ともかく、公共の場ではある程度他の人に干渉しない範囲内で自分のリズム、ペースを確立するのが居心地よいと思うのである。

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