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私がディスカッションを作り続ける理由

「休日は何をされているのですか」

「ディスカッションです」

「あ、あざした」

私の趣味はディスカッションだ。お見合いで趣味を聞かれ、(正直に)このことを答えれば、永遠に結婚することなどできないだろう。こと日本において、ディスカッション=議論することは理論武装した人間同士による戦闘行為だと理解されている。誰がそのような戦闘民族とパートナー関係を作りたいと思うであろうか。それほど趣味をディスカッションであると明言することは危険な行為なのだ。

しかし、本来のディスカッションは好戦的な人間のためのものではない。ディスカッションとは本来的に相手を打ち負かすことではなく、能動的な人生を歩むための一つのツールなのである。そこで今回、私は勇気を振り絞りディスカッションが趣味であると公言する。その上でディスカッションがどのような活動なのかを懇切丁寧に説明し、私自身がなぜその活動を続けているのかを記述しようと思う。

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よく勘違いをされるが、ディスカッションはディベートとは異なる。ディベートとは異なる主張をする二つのグループにおいてどちらの主張がより論理的な説得性を持っているかを争うものだ。これは誤解を恐れずに言えば戦闘的な営みである。競技であると言ってもよい。しかしディスカッションは競技性をもたない。参加者はどのような意見を言ってもよいし、その意見の説得性は優劣の吟味を受けることはない。

では勝負をつけない以上、ディスカッションは何を目的に行われる行為なのだろうか。これを考える上で重要なのが「問い」である。

ディスカッションとは、あるテーマについて参加者が対話を行う知的な営みである。そのディスカッションを行う上で必ず用意しなければならないものがある。それが「問い」だ。ただ集まり、「はい、ではしゃべってください」ではディスカッションにはならない。ディスカッションとは「問い」があって初めてディスカッションたりうる。よって、まずこの「問い」について知ることがディスカッションを理解する出発点となる。

名著『問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション』には「問い」が持つ性質として以下の7点が挙げられている。「問い」の性質を理解するにはこれで十分であろう。

  1. 問いの設定によって導かれる答えは変わりうる

  2. 問いは思考と感情を刺激する

  3. 問いは、集団のコミュニケーションを誘発する

  4. 対話を通して問いに向き合う過程で、個人の認識は内省される

  5. 対話を通して問いに向き合う過程で、集団の関係性は再構築される

  6. 問いは創造的対話のトリガーになる

  7. 問いは、創造的対話を通して、新たな別の問いを生み出す

これらに加えて強調しておきたいのが「問い」は能動的な思考を惹起させる点である。能動的な思考の契機となるのが「問い」に他ならない。

私たちは「これからの時代は自らの頭で考える力が重要だ」と言われ続けてきた。では「自分の頭で考える」ためには何が必要なのか。大量の知識を自らの頭に蓄積すれば自分の頭で考えられるようになるのだろうか。これは部分的には真理であろうが、十分な回答にはなっていない。知識から生まれる「わからない」部分や「もやもや」を言語化しようとすることでその人の能動的な思考が始まる。「知っていることと知らないことの境目」や「強烈な違和感を覚える領域」を他者にもわかる形で共有したのが「問い」なのだ。「そうそう!私もそのことについて考えてた」と言わせれば「問い」としては形になっていると言える。

その上で「問い」がもたらす対話には拡張可能性がなければならない「東京タワーの高さは何メートルですか?」これは疑問文だが「問い」ではない。「333メートルです」と答えると、そこで対話は終了し、拡張可能性が存在しない。

「問い」とはそれに参加する者の能動的な思考を可能な限り拡張させ続けるものでなくてはならない。「東京にとっての東京タワーとはどのような存在か」「東京タワーが当時の日本にもたらしたインパクトとか何か」「よりよい東京タワーのあり方とは何か」さしずめこのあたりは「問い」となるだろう。

「答えなき疑問を想起させ、思考を惹起させるセンテンス」が「問い」であり、その「問い」に集団でなんとか答えようとすることがディスカッションとなる。

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と、まあ何やら「問い」について小難しい話をしてしまったが、「問い」さえ理解してしまえばディスカッションについて理解することは簡単だ。

結局、ディスカッションは雑談とあまり変わらない。雑談と明確に異なるのは、ディスカッションには何かしら興味深いテーマ=「問い」があり、その問いに出会った際に何らか反応(共感・反発・懐疑・感動など)した人たちがいることだ。

巷でもよく言われることだが人は「問い」によってつながることができる。実際、私もディスカッションをきっかけに多くの人と知り合い、親しくなってきた。

しかし、ディスカッションで生まれるつながりはただディスカッションに参加するだけでもたらされるものではない。ディスカッションの中で能動的に自分の主張をしようとする主体同士の努力があってつながりが生まれる。

他者の意見を傾聴し、自らの意見と異なる点を認識し、なぜその違いが生まれるのかを対話の中で見つけ出さなければならない。難儀だ。難しい上に明瞭な成果を挙げられる保証もない。しかし、机上の空論ではない、実体としての寛容な社会を作ろうと思う時、私たちは面倒くさいと思われることを実行する必要がある。

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私がディスカッションらしきものと出会ったのは小学校3年生の頃だった。国語の授業で二つのグループに分けられ、それぞれの立場から意見を主張することが要請された。(厳密にはこれはディスカッションではなく原始的なディベートだと思われる)

自らの考えを公の場で開陳することの面白さを感じた瞬間であった。当時の私は学校を休みがちだったものの、その国語の授業を休んだことだけは非常に残念がっていた。

続いてのディスカッション体験は高校3年時の現代社会の授業であった。そこでは授業ごとに担当者が割り振られ、その担当者は何かみなで議論できるテーマを持ってくることが求められた。そのテーマに基づいて授業の前半10分を用いでディスカッションするのである。これが私のディスカッションへの本格的な出会いであった。

何かしらの価値主張をすることや「真面目なことをしゃべってもよい」空間に出会えたことが心地よかった。政治や実社会に関心がありながらも、周囲の言論空間の希薄さに息苦しさを感じていた高校生の私の救いになった。

続いてのディスカッション体験は大学でディスカッションサークルに入ったことであった。浪人失敗明けでだいぶ拗らせていた私は誰よりも賢くなってやるぞと思い、ディスカッションで自分の主張を通すことばかりに躍起になっていた。

今思えばお恥ずかしい限りだが、それでもやはり何かのテーマについてみなで喋ろうとすることは知的に面白いことであったし、安心感があった。私自身が私自身であろうとすることとディスカッションを行うことは大きく重なり合っているような気がした。「ディスカッションでカッコイイことを言いたい」という泥にまみれた承認欲求が当時の私を駆動させていたが、その承認欲求があったからこそ勉強するモチベーションも湧いた。

ただ自らの主張を言い続ける先輩などただの街の厄介者だ。後輩ができて、どことなくディスカッションそのものを多面的に考察するようになった。どうすれば自らの主張をよりわかりやすく伝えられるのか。相手の意見を聞くとはどのようなことなのか。まったく実践できた気がしないが、何かを発言しようとすることはたとえ無意識的であっても相手を抑圧したり傷つけたりする可能性があると思えたのは少し成長だった。

学部卒業後もディスカッションを続けることになった。サークルの先輩・同級生・後輩が何となく集まってきたのが面白いところだ。サークル外の友だちも呼び込み、いつの間にか30人くらいのコミュニティになった。

ディスカッションを作る手順は「問い」の設計とほぼ同義だ。何かしらの問題意識やモヤモヤを抱える人の言語化をお手伝いし(1-2時間 ×2セット)、他者と共有可能な「問い」を作る。当日はファシリテーションも行う。

相談相手の腑に落ちるような「問い」にできた時は面白いと思うし、そもそも自分の中で「問い」を考えようと頭をひねっている瞬間、それ自体が面白い。「問い」を捻り出す場面は本番のディスカッションでも現れる。様々なテクニックを用いて、あえて反対のことを言ったり、極論を言ったりする。これによってディスカッションが思いもよらぬ方向に走ったり、参加者の人の価値観を揺さぶられたりすると面白い。

ディスカッションにそれなりに向き合ってきた。ただディスカッションを作ることに重心が移ってきたのは学部卒業後かもしれない。卒業後の活動はまったくの有志だ。誰かがやろうと言わなければ、すぐに断ち消えてしまう。何かしら問題意識を持っている人やモヤモヤを適切に言語化して、それに共感する人を集めなければならない。「問い」を生み出す実力を磨き続けなければならない。でなければすぐにコミュニティは終わる。だからこそ、それなりの責任感と切迫感、後悔を感じる時もある。本当にこの「問い」でよかったのか。相談者はこの「問い」で満足しているのか。謎なままディスカッションに突入する時もある。

「問い」を設計し、ファシリテーションを行うことそれ自体、私自身の知性と人格の総合格闘技だ。自らは他者の意見を傾聴できているのか、そもそも自分は人に「問い」を投げかけるに値する十分な知性を持っているのか、理解できない意見に出会った時、いったん立ち止まりそのすべてを受け入れられているのか。何より、これらの点を日々十分に内省できているのか。

「問い」を設計することとは自らがいかにバカであるかを悟ることと同義だ。ファシリテーションを執り行うこととは全人格を以てして自らが不完全な人間であることを認識することと同義だ。総じてディスカッションを作ることは楽しいが苦しい。

それでもこれまでの人生、ディスカッションは私の居場所であり続けた。ディスカッションを通じてできたつながりもたくさんある。だからその恩もあって、これからもディスカッションを作り続けようと思っている。

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<参考:最近行ったディスカッションテーマ>
・社会課題は解決しようとする必要があるか
・よい医療とは何か
・人はどのような時に他者を信頼しないか

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