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社会のきびしさとやさしさに包まれたなら

自分といふ存在が今ここから突然消滅したとしてもこの社会は回り続けるのだと考える時、本当にこの世界が心安らぐ場所になるような気がする。大切に大切にしてきた自分といふ存在の価値をあへてかなぐり捨てることがセルフケアにつながるとは何とも滑稽である。「心のノート」に頻出した「かけがえのない自分」といふ言葉に出会うたび、自分は自分を他の人間と比べて特別な存在だと確信せざるを得なかった。しかし労働市場あるいは研究機関の中で成果を出すことが求められるようになると、特別なはずの自己をとらえ直す必要がある。特別な自分は特別な成果を生み出すはずだ。特別な成果を出すためには自分を手段にしながら行動し続けねばなるまい。こうして自分が自己といふ手段を消費することは正当化される。その前提と実際の結果が十全な形で対応することはない。この社会にはあらゆる個体の前提および行動に応答するほど潤沢なリソースがあるわけではないのだろう。ここに「きびしさ」を生み出す余地が生まれる。このとらえ直しの過程で「オイ、チミ、社会はやはりきびしいぞ(なぜなら特別な自分が特別な成果を出すように設計されていないと気づいたから)」と気づく。ここで生じる感覚は代替可能性である。結果的に自分自身がどうしようもなく無価値な存在に思えてくる。ここに「社会のきびしさ」が想像され、共同体の中で共有される手はずとなる。私にも「社会のきびしさ」を教えてくれる諸先輩方がいる。2010年代の日本は不景気と貧乏、そして大震災とまことに生きるのに辛い時代であった。きびしさが強調されるのも無理はない。しかし、「いい加減、社会のやさしさを教えてほしいよ」と願う同世代もいる。私は大学卒業後も折に触れて、とある後輩に「大学卒業後のほうが楽しい」「できることが増えて楽しい」などと、「社会のやさしさ」を伝えることに注力してきた。それは私の本心である。ただ身の回りで「社会のきびしさ」を伝えることに傾倒する年長者に違和感を覚えていたからでもある。しかし、上述のように「社会のきびしさ」は私たちの内面化された規範によって、人生のいずれかのタイミングで半ば強制的に生み出される。だからこそ、社会における「きびしさ」と「やさしさ」といふ二つのベクトルをどこかで統合し、心を安らげなければならぬ。アンビバレントな二つの選択肢の内、どちらかだけを選び取れるほど人間は単純ではないと私は信じる。自分がいなくなっても社会は今まで通りに動き続けるといふことは自分を特別だととらえる限り、受け入れ難い事実である。しかし、経験の中で私たちは自らが大谷翔平でも藤井聡太でもないことを知る。ここに社会の中で特別なことをなさねばならぬと考える肩の荷を降ろすチャンスが現れる。どうせこの世界はまったく問題なく作動し続けるのだから。「生きるために生きる」といふ発想への転換である。

小さい頃は神さまがいて 不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は おとなになっても 奇蹟はおこるよ

松任谷由実 - やさしさに包まれたなら

完。

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