苫野一徳『学問としての教育学』を読んで その1

僕は教育研究部の部長をしている。
そこでは、教育とは何か、とりわけ、義務教育とは何かについて議論をしている。
今回この本を読んだ理由は、この自分のやっている活動と似たような内容だったからだ。

教育研究部では今、教育とは何かを定めようとしている。
なぜなのか。
それは、僕の個人的な体験からきている。
ご存じの人が多いと思うが、僕は教育を専攻している。
教育を専攻していると教師になる訓練もしないといけないため、授業のやり方講義がある。
たとえば、英語科教育法や教育方法論などが挙げられる。
そこでは、こうすればいい授業ができるや科目特有の方法論などが提示される。

個人的にこれらには違和感しかなかった。
方法論にも流派があったり、ICTをこう活用すればいいとあったりと土台がばらばらだと感じたり、具体的すぎると感じたることが多々あった。
もちろん、細分化するというのはおかしなことではない。
他の学問にもそれはあることだろうし、研究者からすれば新規性を出すためにもそうなるべくしてそうなっているのはわかる。
しかし、それらは、共通の土台をもっているから問題がない(個人的には問題がないと感じるし、世間的にも変だという人がいないと思うため)。

教育は違う。
土台がバラバラなものがそこら中に転がっている。
こうすれば子供のためになる、こうすれば効果がある…などなど非常に具体的なものばかりが転がっている。
それなのにこれがいい、あれがいいと言い合っている。
比較とは共通するものがあるからできるものだ。
土台という根本がそもそも違うのに、良し悪しなど決められるわけがない。

この本にも書かれているように、教育は昔から二流学問だと言われている。
なぜならば、科学的ではないからだ。
つまり、一般化されたものがないということだ。
個人的に、科学的にする必要性はわからないし、最終的には人間と人間のぶつかりありであるため、一回性を重視したいと考えているが、それにも土台がしっかりしている必要性があるため、結果的に一般化が必要だという意見には賛成だ。

この本はその一般化を試みている。
そして、それを用いた科学的な教育学を提示し、実用的なところまでカバーしようとしている。
正直、一般化だけを扱いそれを深めてほしかった。
なぜならば、それ以降はやる必要性がないし、この本の考えを活用してほしいのであればそうするべきだと思うからだ。
根本を作り出せば、それより上は自然と出来上がる。
これまでなかった根本であるのであれば、それを共有するには時間と量が必要だ。
このような形式になっている以上そういうことなんだろうと感じた。



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