見出し画像

ワークショップ第10回『理想の教師像について』【教育学部】[20210802-0815]

皆さんこんにちは。J LAB 教育学部長のシトです。

今回のWSでは、あまり活発な話し合いができず、すみませんでした。次回はさらに話し合いが盛り上がるよう頑張ります。

では、本題に入ります。

今回のテーマ

今回のWSでは、理想の教師像について取り扱いました。

まず教師像にはどのようなものがあると言われているかまとめました。

学校の教師の見方について4つのものを挙げます。
 1つ目は、労働者です。教師は学校を職場として働く労働者という見方です。これはつまり、民間企業に勤めるサラリーマンと同じように考えるというものです。雇用され、自発的合意に従って交わした契約に従い、定められた仕事を行うことで報酬を受け取る事ができます。そして、自分たちの権利を主張するためには、上と交渉して契約内容を変える必要があります。
 2つ目は、聖職者です。教育という崇高な使命に人生を捧げ、使命を果たすこと自体を喜びとします。そして、その役割は神から与えられたものであるため、報酬に関しては期待するものではないというものではありません。この考えは、生徒のためという部分が大きくなり、結果として残業ばっかりにしてしまうという問題があります。
 3つ目は、専門職です。国家資格を必要とするため専門職だとするものです。しかし、これには問題があります。例えば、免許の更新制です。他にはありませんが、教員免許には更新制がありました。他には、独立できないというものがあります。医者や弁護士は独立することができます。しかし、教師には学校への就職という選択肢しかありません。
 4つ目は、全体の奉仕者です。堀尾輝久の『教育基本法はどこへ』には、教師の公の性質が、教師が全体の奉仕者であることを規定していることに深く関わっています。そして、教師の教育の任務は、絶えず国民全体への奉仕者として、その仕事が普遍へと開かれているという、そういうものとして、自分の仕事を自覚する必要があるとあります。つまり、教師とは、国民に将来役に立つという意味での必要なものを教える存在だということです。そして、そう教えられることは国民になるのに必要なことという事です。

それから質問をしました。

Q. 皆さんの理想の教師像はどのようなものですか?上記で考えても、全く違うものでも大丈夫です。

下記にやり取りの抜粋を載せます。

WSのログの抜粋

話題1.教師像

YY 12 
「理想の教師像」って、考えてみると難しいですね(一応3と4に投票しましたが、正確には僕が思ってるものと違う気がするので以下に書かせていただきました。)
この問いは、根本的には「理想の教育とは何か」という問題に関係しており、本来ならそこからおろして答えるべきものな気がするのですが、それは大変(というか、それについて考えても僕には良く分からない)なので、とりあえず自分の学生生活を振り返り、理想の教師像全体ではないにしろ、そのうちの要素だけでも考えたいと思います。 
まず、「教師」と一口に言っても、初等教育から高等教育または学習塾まで、(学問だけでなくスポーツや芸術など、広義で捉えることも出来ますし、ちゃんと議論するならそこまで含める必要があるのかもしれないですが、ややこしくなりそうなので今回はそこまで考えてません。)その意味は幅広く、一概に言うことは難しいので、とりあえずは初等・中等教育や学習塾における教員をイメージして書かせていただきます。
結論から言えば、理想の教師にとって必要な要素の1つは「生徒のことを思ってくれる誠実さ」だと思います。ありきたりなのは分かっているのですが、結果的には授業(教育)へのモチベーション・質の向上といった部分も根本にはこの「誠実さ」に結びつけられたものと考えられるし、やはり必要不可欠なんじゃないかなと感じます。
中学や高校では割と先生に恵まれたので、幸いにもこのことをはっきりと感じずに生きられたのですが、予備校などに通うと、有名(と言われる)講師でも、ただ自分の授業・賢さに酔うナルシスティック(少なくとも僕にはそう見えた)、生徒を生徒としてではなく「数字・確率」として扱う(「このうちの35%は〜」といったふうに。予備校なので行く前から想像つくし、当然といえば当然ですが。)様子を垣間見て、技術的なもの以前に「自分の教え子に分からせたい、悩みを解決させたい」といった気持ち(誠実さ・愛)が重要なんだなと感じたのを覚えています。
(中学・高校の教師と予備校講師を比較するのは、違和感を覚えるかもしれませんが、同じ教育を行う立場ということで、分かりやすくこの二つを使いました。)
教師像全体ではなく、1つの要素しかお答えできず、またそう思った根拠も思い付きの感覚で申し訳ないのですが、なにかの参考になれば嬉しいです。
シト (上への返信)
英語教師論の話です。
その中で、教師の役割は4つだとされています。①知識を教える。②授業管理(授業マネージメント)と支援。③目標設定。④クラスの雰囲気・人格的影響の4つです。これを踏まえた良い教師とは、①英語力がある。②言語と文化の知識を持っている。③指導力がある。④人格が優れている。となります。この中の④の中身には、情熱、生徒の反応に対する感受性、研究心、向上心、柔軟性があります。
学校教育の根底には人格形成を図るというものがあるので、やはり、誠実さ、愛は重要だなと思います。
教師の中に学習塾は入るんでしょうか?教える上で少し教育に触れることはあると思いますが、教師かと言われると違うと感じます。
YY 12 (上への送信)
なるほど。
学習塾の講師を「教師」にいれたことに疑問をもたれたようですが、これは私が「教育」というものを曖昧にしてしまったがために起こったものと考えられます。
上の文では「教育」についてしっかりと定義しなかったので、この疑問にお答えするためにも今一度意見を言わせてください。
私は「教育」と聞くと、高校の時お世話になった現代文の先生が言っていた、「教育とは、教師が〈教えて〉子供が〈育つ〉ものだ」という言葉を思い出します。確かに、いくら鞭で打たれ、熱せられた鉄板の上で勉強を強要されようと本人の意思がそこにない限りその子が効率的に育つことは考えにくいです。つまり、ここでいう「教育」は、生徒と教師の相互的な関りが前提にあって、教え子の意思や状態も視野にいれたものといえます。
しかし、(所長もおっしゃっていますが)一般的に教育といえば、「教師が〈教えて〉子供を育てる」というニュアンスを強く感じます。別にこちらの意味における教育を悪いものだと言っているわけではありませんが、この定義だと「理想の教育」とは「教師側の教える技術が高いこと」とほとんど同義になります。(なので、究極的には人間ではなく、ITの役割になってくる気がします。)
おそらく、シトさんが学習塾の講師(後者の意味における教育を重点的に実施している)を「教師」にいれることに違和感を覚えたのはこういった教育に関する定義の齟齬が根本にあったのでしょう。(上の定義にしたがって、書き分けをするなら両者は区別してしかるべきですが、私の人生経験上では大した差がないように思われたので一緒くたに扱ってしまいました。)
これは前述の意見の補足ですが、「誠実さ・愛が大事」というのはヌルイ精神論のようにも聞こえますが、上で述べたように教育が人間の手が加わらないものと変化していけば変化していくほど、やはり面と向き合う「教育」におけるそういった部分はよりはっきりと意味を持つようになってくると思います。
Hiroto
なんか、もう、学校教員の悲惨な現状を見てると、ただ学校教育に携わってくれているだけで理想だよと言いたくなります。
なんのフィルターも通すことなくTOSSなどから得た教育法を用いるような、自らの行う教育に我がない教員は、僕にとって理想ではないです。(そういうのを参考にする程度はあり。自らのフィルターに自覚的になってほしいという意図。)
逆に、我を出す工夫をしようと頑張っている教員の皆さんは、僕にとっては理想に近いと思います。(その我を僕が好きになるかは別として笑)
シト (上への送信)
TOSSなどは授業の狙いなどを書かずに、シンプルな形式で具体的に授業技術を示してますよね。例えば、プール指導でけのびを教えるなら、「力を抜いて」→「おばけになって」などといったものがあります。こういうものをつかうと、技術的になり、何故子供が動いたのか、この授業の本質はなにかなどの問いが形骸化していき、授業技術のための授業になる可能性があります。私にとっても、ただ単にそのようなものを使って授業するような教師は理想ではないです。
ちょっと話は変わりますが、教科書を作っているところが売っている、教師用の教科書があります。中身は、ここはこう教えたほうが良いなどといったものが書かれまくっているものです。教科書をずっと読んでる系の教師はこういうの使ってたんだろうなと思うとなんか複雑です。
ただ、一応、そうしてしまう教師のことも理解は出来ます。書いて頂いてる通り、悲惨な現状で日々の敎育実践に追われているので、安易に使用してしまうのでしょう。
いいだ 
私の理想の教師像は、「人間としての手本を行動で示すことができる人」です。生徒がつい羨んでしまうような「生きる態度」を備えた人、とも言い換えられます。教える対象についての知識云々より以前に、その先生がどのように自分の人生に向き合っているかを示せるということが、教育で一番重要な要素であるように思うのです。
極論を言ってしまうと、それを自覚的に、適切に行うことが出来れば、子どもは教師の背中を見て勝手に育つのではないでしょうか。後人を育てるということについて私は、(例えば高校の部活動のような)極めて狭く限られた経験値しか持っていないので、やや理想論めいていることは認めます。でも教育の本質は、どこまで行ってもそれに尽きるだろうという確信はあります。学校にしろ、家庭にしろ、会社にしろ、その本質は変わりません。
「羨んでしまうような」という条件も重要であるように思います。生徒ひとりひとりにとって、その条件を満たす生き方はかなり異なってくることでしょう。例えばお金をたくさん持っていること、素敵な恋人がいること、毎日楽しそうに生きていること、自然と人の尊敬を集めること・・・などなど。そして、そこで重要なのは「自覚的に」生徒を羨ましがらせる能力です。「どうだ、俺みたいな生き方をしてみたいだろう」みたいな(笑)。こう書くとナルシストみたいですが、優れた教育者は皆、このような意識を持っていると私は勝手に思ってます(誰も表立って口にはしませんが)。生徒の前で自覚的に、自分が理想とする態度を振る舞ってみせる。別に、必ずしもいつもニコニコしている必要も無いし、沢山のものを持っていることをアピールする必要もありません。ただ、生徒に与える自分の印象を自覚的にコントロールして「誘導する」能力、それに尽きるのだと思います。一般的に教師に求められるような、愛情や指導技術などの資質は、そのための道具の一つとして重要であるということに過ぎません。(ちなみにこのことは、世のありとあらゆる人間関係すべてに当てはまりそうです。いわゆる「人間性」って、そういうことなんじゃないでしょうか)
だから私が抱いているイメージは、「表現者」としての教師です。(教師としてのイメージというより人間としてのイメージになっていると言いますか、もう少し具体的で適切な表現がある気もしますが)人間が人間に接し、何かを教えるわけですから、「表現者」それ以上でもそれ以下でも無いんじゃないかなというのが結論です。
シト (上への送信)
アーレントも似たようなことを言っていましたね。敎育者は若者に対して、既存の世界を代表する立場にある。教育において、世界へのこの責任は権威という形を取る。敎育者の権威と教師の資格は同一の事柄ではない。教師の資格は、世界を知り、それを他人に教える事ができる手にあるのに対し、教師の権威は彼がその世界について責任を負う点に基づく。子供と向き合うとき、教師は大人の住民全体の代表であるかのごとく、子供に事を細部にわたって示し、言うのである。これがわれわれの世界だ、と。
にしむらもとい
例によってクセの強い意見を投下します笑 教育ってなんだろうという定義ら辺の話になります。突飛に感じられた方は、僕の話に引きずられ過ぎないよう、参考程度にお読みください。
--------
僕は理想の教師像なんてものを考えたことがほとんどありません。何故なら、教育とは「理想」を追い求めるものではなく「底上げ」に関わる技術的なものと感じているからです。全て「目的とそのための技術論」で語れると感じてます。たぶん一般的なものとは大きく異なると思いますが笑 そう言えば、所長室に昔書いた自分のブログを貼ってますので、良かったら何かの参考にお目通しください。
「教育」という言葉には、上から目線で「教え育てる」という押し付けを強く感じます。これは国や文化で多少変わると思いますが、あくまで日本人として日本語の「教育」についての印象を語ってます。そこに「子供の才能を引き出して伸ばしてあげる」という理想論を持ってくると、一気に大人のエゴが顔を出します。どのみち子供は教育を施さなければ「人間」にはなれません。狼に育てられて、人間には決してなれない。押し付け(エゴ)として考えるなら「まだ人間になっていない子供を既存の社会に適応させる(自分達に利益を生む人間にする)」こと、つまり、「社会に利益を生まない人間にしない」というネガティブな定義の方がしっくり来ます。そういう意味で、僕は「教育」はほぼ「初等教育」のイメージで使ってます。
様々な既成概念の刷り込みにより「教育とは尊いものだ」という頭が、ついついまず第一に来てしまいますが、僕は「教育とは子供という人間になりきれていない存在を人間という存在にするための方法論的段階」と感じています。なので、そのための方法論及びその目的を理解しておく必要があるという意味で「専門職」であろうと思いますし、「人間ならざるもの(子供)」が社会に参入してくる際の「人間」側の門番(人間の守護者)のようなイメージを持ってますので、職業軍人が奉仕者である程度には社会を守る「奉仕者」であろうと感じてます。
いま僕がこの場で行なっている活動は、人によっては「愛ある教育」という理想(空想)を求めたもののように見えている部分もあるかもしれませんが、僕の意識ではこの活動を「子供」を対象にした教育の場にするつもりはなく、ここは既に儀礼を通過してきた「人間」を対象とした「より善く生きていこうサークル」です笑 どこかで話した、生きにくさを感じている子供を対象とした「フリースクール」のような何かをリアルに始める日が来れば、また僕も「教育」に片足を突っ込むかもしれません。
理想として年長者が年少者に接する際に取るべき態度として、僕は「愛」という要素は確実に必要だと感じてますが、これはなかなか技術論に落とし込めることではないですし、教師に負わせるものでもないと思います。それは「人間」になった後、様々な「人間」を通じて学べば良く、教師を通じる必要はないんじゃないでしょうか。技術論として教師に必要なものは「正しく開かれた」議論をコントロールする技術のみと感じてます。科目の指導はいずれ少なくともインターフェイス部分はコンピュータに丸投げできるようになると思いますし、論理思考や統計思考が「人間」になるための必須項目とは僕は感じてません。明確にコンピューティングに乗らない部分を「人間」の教師が担当すべきであると思います。即ち、社会で「人間」として生きるための価値観の「植え付け」です。
極端な話、国(あるいは教育の包括的な主体)が、よく話題になる掛け算順序問題について、「掛け算に順序はある」という価値観を、明確な意図をもって打ち出すのなら、子供に「そう」教えてすら、僕は構わないと考えてます。どんな価値観を基準として社会を成立させるのかについて、その共同体の主体が方針を持たないことが最も問題です。そして、「無垢」な子供に価値観を上から植え付けるためには「正しく開かれた」方法論を取らなければ一定のエラー(反発)が起こることも当然です。少なくとも、たとえばいま日本で行なわれている一般的な意味での「道徳教育」は、ほぼ何の価値も持っていないと思います。明確な方法論が追随していません。昨今、学校教員という職は叩かれる機会が多いですが、もちろん個別事例として問題のあるものも多数あると思いますが、根本的に問題なのは教師ではなく(意味のある)方針を欠いたまま教員を現場に放り出している国であろうと思います。
ちなみに、教育というテーマから外れますが、僕はこのままではいずれ「国」は崩壊し共同体の主体はバーチャルなものに置き換わってゆくだろうなと感じてたりします。まあ、それはまた別のお話ということで。
シト (上への送信)
これを読んで思い出されたのは、ロックとカントです。
 ロックでは、タブラ・ラサ(白紙の状態)を思い出しました。 ロックは、新しい学問がスコラ哲学では発見できなかった科学法則や知識をもたらしたことで、スコラ哲学に疑いを持ちはじめました。そして、 新しい科学的知識に基づいたものの見方を打ち出し、 人間の「知識」に関する独自の考察を深めていきました。プラトンからデカルトまで「知識」は「人間に生まれながらに備わっているものと考えられていました。しかし、ロックはこれに疑念を抱きました。もし知識が人に生得的に備わっているのだとすれば、人は生まれながらに「やってよいこと」「いけないこと」を、つまり道徳を知っていることになります。しかし実際には、この道徳的な基準は、いつでも、 どこでも同じという風にはできていません。ということは、 私たちは、 道徳的な 基準を備えて生まれてきているのではなく、何らの知識ももたない白紙の状態(タブラ・ラサ)として生まれてきていたのではないかと考えました。 生まれてから後に経験を重ねていくことで、善いことと悪いことなどの様々な知識を獲得してきたのではないかと考えました。
 カントでは、彼の教育学を思い出しました。以下引用です。
「 人間とは教育されなければならない唯一の被造物である。そして教育とは、「養育」、 「訓育」、 および「人間形成をともなった知育」である。われわれはそのように理解する。したがって、人間 はまず最初は乳児であり、次に教え子となり、そして生徒となるわけである。(中略)
訓育は、動物性を人間性に転換してゆく。動物は本能によって直ちにそのすべてを実現している。それに対して人間は、人間固有の理性を必要とする。なぜなら、人間は本能を動物のようには持っていないので、みずから行動プランを立てなければならないからである。しかしながら人間は、生まれ落ちてすぐに行動プランなど立てられない。まったく未開で未発達のままこの世界にやってくるのだから、他の人が代わりにプランと立ててやらなくてはならない。(中略)
 訓育とは、ある人間が動物的衝動によってみずからの本分である人間性から逸脱することがないように、予防することである。たとえば、人間が激情に駆られたり思慮を欠いたりして危険をおかすことがないよう、人間に制約を課すことになる。したがって、訓育は消極的なものであ って、つまりは人間から野性的な粗暴さを取り除く行為にすぎない。それに対して、知育こそ教育の積極的な部分だといえる。訓育は子どもの頃から早期に行わなければならない。そこで、子どもはまず最初に学校に送られるが、それは必ずしも学校で何か知識を学んでほしいからではなく、むしろ静かに着席するとか、指示されたことをきちんと守るとかいった習慣を身につけさせよう、将来子どもが思い付いたことを何もかもむやみにすぐ実行するようになることを避けよう、といった意図によるのである。(中略)
 人間は教育を受けて初めて人間になることができる。人間とは、教育が、素材の状態にある「人間」から作り出すものにほかならない。犬や馬を躾けることが可能なように、人間もまた躾けることができる。しかしながら躾けることだけではまだ十分ではないのであって、とりわけ重要なのは、子どもがみずから思考することを学ぶことである。( 中略)
  教育の最も重要な問題のひとつは、法的強制に服従することと自己自身の自由を使用する能力とをいかにして統合できるのかということである。というのも、強制は必要不可欠だからだ。私は、強制を行いつつ同時に、自由を使用する能力をどのように開発してゆくことがで きるのだろうか。私は、私の生徒を慣らせて自由を束縛されることに耐えられるようにしてやると 同時に、ほかでもないその生徒に、みずからの自由を正しく使用するように指導しなければならない。そうしたことが行われなければ、すべての教育活動は単なる機械論にすぎず、教育を終えた者でもみずからの自由を使用できるようにならない。他者に依存しないように自立し自 制してみずから生計を立てることの困難さを認識するようになるためには、生徒は早い時期から社会の避けがたい抵抗を感じ取る必要がある。
 この場合に留意されなければならないことの一つとして、次のことがある。すなわち、子どもに強制を加えても、それは子どもが、自分自身の自由を使用できるように指導するためであるということ、また子どもを教化するのは、子どもがやがては自由になることができ、換言すれば、 他者の配慮に依存しなくてもよいようになるためであるということを、子ども自身に対して明確に示す必要がある。(中略)
 学校は強制的な教化の場である。あらゆることを遊びと見なすように子どもを習慣づけてしまうのは、きわめて有害である。子どもは休息する時間を持たなければならないが、子どもにとっては作業をする時間も必要である。子どもは何のためにそうした強制が有益なのかをすぐには洞察できないにしても、将来的にはその強制が非常に有益であることに気が付くであろう。「これは何のためになるのか、そしてまたそれは何のためなのか」という子どもの問いかけにつねに一つひとつ答えようとするならば、子どもの無遠慮な好奇心をいちじるしく助長するだけであろう。教育は強制的でなければならないが、しかしそうであるからといって奴隷的であってはならないのである」。
萌やし 
自分は生徒ひとりひとりに対する理想のような教育は存在する気がします。自分はいま集団の塾講師してますが、生徒ひとりひとりに対し最適な商品を提供できているとは思えないです。ひとは皆違うので個別指導の方が合理的なのは当たり前かも知れません。
教育で重要なもののひとつとして、「量」があると考えます。生徒ひとりに触れる時間が長いほど、さらに、生徒ひとりに教える体系のボリュームがデカイほど、教育者は徐々に必然的にその生徒に特化した教育が可能になると考えます。
しかし、「人間の先生による理想の個別教育」が全国民に施せるとは思えないので、人間のアトム化(ある意味の共同体破壊)と教育のバーチャル化は避けられない予感がするような、しないような感じです。
シト (上への送信)
アメリカではそういう生徒一人一人に対する教育プログラムが行われていますね。アメリカの教育の流れは数年遅れで日本に来るという今までの傾向があるので、おそらく日本もそうなるんでしょう。ただ、富裕層は通常のスタイルであったりするあたりどうなんだろうという疑問もあります。
Takuma Kogawa
質問への回答にはなっておりませんが、つらつらと書いてみます。
私の学生時代の経験から、大学の教員は労働者的側面が強いように思う(残業代はほぼないらしい)ので除外して考えます。
幼稚園や保育園の先生を「教員」と呼ばないのはなぜなのでしょう。法律や制度上そういう立ち位置ではないのかもしれませんが、子供たちの健やかな成長を教え導くという意味では教員と呼んでも差し支えないと思いました。
塾や予備校の講師、その他習い事の先生は「学校の教師」ではないため除外します。
以下は小学校から高校までの教員について思うことです。
国語や算数などの科目の教育と、生活指導の教育は分けて考えたいです。科目の教育はアンケートでいうところの専門職のイメージがあります。部活や仕事の指導経験から、単に知っている、できるというだけでは指導はできないと感じています。教えるという行為はみなにあてはまるものと相手にあわせたオーダーメイドの部分を組み合わせて行うべきであり、それは専門的な能力だと思います。クラス編成で工夫をしないと授業にオーダーメイドの要素を入れることは難しいかもしれませんが、個別で質問した際に生徒の反応をみながら回答する教員は十分に専門的であると思います。
一方で生活指導等の社会性をはぐくむものは、奉仕者の側面が強いと思います。学校で学ぶ社会性は、家庭や公園で学べないものも多く含まれると思います(集団のために時間を守る、助け合って1つのものを作り上げるなど)。30人以上の組織の指揮を執るのは、民間企業では課長級といってもいいです。未来ある子どもたちのために社会性を身に着けさせることは社会全体にとって喜ばしいことです。
ここまで理想的なことを書きましたが、労働環境を考えるとすべて吹き飛んでただの労働者になってしまうように思います。受け持つ子供たちの教育はするけれど、自分自身の子供にそれ以上の時間をかけることができるのでしょうか。親が教育のすべてを学校にアウトソースしていて、親自身はなんの教育もできない状態になっていないでしょうか。学校の立場では、科目指導は塾や予備校が代行してくれます(ちなみに私立大学の薬学部では資格予備校と連携した国家試験対策の講義があったりする)が、おそらくそこ以外が大変なのでしょう。小学校の先生が作っていた学級通信でさえ、私にはつくれないかもしれません。
シト (上への送信)
教科指導と生活指導を分けて考えることはしたことがなかったので面白かったです。アメリカでは、そこが分かれているのでそれについて調べてみるのも面白いかもしれないと思いました。これを同じ人が行うか行わないかでどのような違いがあるのか探ってみたいですね。

話題2.免許の更新制について

シト 
遅くなってすみません。次の話題です。教員免許の更新制についてです。資料にあるように更新制はなくなりました。これについてどう思いますか?前回の理想と絡めても、なんでも構いません。
蜆一朗
教員免許を取得して現場に立ってからも研鑽が必要であるというのは、まったくもってその通りだと思います。学習指導要領が改定されるたびに授業で扱う内容そのものが変わりますし, そうでなくても, 日々の授業で生徒の反応を見ながら指導法を変えていくというのは日常茶飯事ではないかと思います。学部生時代に 4 年間塾講師をした程度の経験しかありませんが, 僕でも日々自分の至らなさを痛感し, 何とかすこしでもましにならないかと試行錯誤しました。また, 学習指導だけでなく, 部活動, 事務的業務, 保護者対応, 生徒指導, etc… と, 教員がこなす業務はおびただしい量であり, これらをすべて意欲的にこなしながら日々自分をアップデートしていくというのは, 想像を絶する疲労をともなうと思います。そのうえでさらに負担を増やしてまで, しかも指導する大学教授側まで形式的であると認めざるを得ない (数学科教育法の教授がうっかりこぼしていました) ような講習を行っているので, 不満がたまっていくのも当然であろうと感じます。ここまでが一連の報道に対する感想です。
 ここからは私の個人的な理想をダラダラと書いていきます。恐縮ですが, 世間知らずの大学院生の独り言だと思って, 目をつぶって読んでいただきたいと思います。
 一部の教員が起こす様々な問題がメディアでもたびたびとりあげられ, コンプライアンスを常に監視されているという息苦しさのなか, 尋常ではない量の仕事をミスなくこなさなければならないというプレッシャーは, 我々が計り知れないほど相当なものであると思います。しかも「聖職者」「奉仕者」という大義名分のもとに, これらの労働は見合うべき対価や評価を得られていないのが実情であると思います。それならもうただ目の前の仕事をこなすことができれば十分だという心持ちになってしまうのもやむを得ないのかもしれません。教員として求められる向上心, 探求心, 感受性, 柔軟性などの要素は, 精神的・肉体的に余裕があってこそ芽生えるものであり, それを労働環境が奪っているように思えてなりません。せめて正当な評価や対価が得られるようになってほしいと思います。
 私の父親も大阪市で 40 年弱にわたって中学校の体育教員・生徒指導部・ラグビー部顧問として働いていましたが, 私が小学生のころくらいまでは家に帰ってこないことも多かったです。それでも若いころはたまの休みに車で出かけてくれていたりしましたが, 私が中学生になって父の体力も落ちてからは, それもかなわなくなりました。今では退職したものの, 何もすることがない時間をどう過ごしてよいのかわからなさそうにしています。教員という職業がいろんなものを犠牲にする様子を小さなころから見ているからこそ, アンチ学校教育ともいえる私の価値観が形成されたのかもしれません。
 さらに, なんでも安価で便利に様々なサービスが受けられるようになった現代ですが, それが教員の労働環境の厳しさに拍車をかけはしないかと危惧しています。Youtube で手軽に丁寧に要点だけをかみ砕いてくれた解説動画を見られる, Amazon でクリックするだけで数日もしないうちに欲しいものが家に届く, そういった過剰なまでの手軽さを人々が学校教育に求めるようになってはまずいと思います (教育系 Youtuber がそれに寄与するのではないかと恐れた時代もありました)。また, みんなが自分のことで手いっぱいで, ま子供の教育にさく容量がだんだん減っていっているようにも感じます。地域ぐるみで子供を育てるという温かみはもはや絶滅してしまったのかもしれません。教育のことは学校に任せておけばよいというのではなく, 各自がちょっとでも教育について考えて共同体のようなものが形成されていけばいいなぁと思うものです。もし私が勉強を教える仕事に就くのであれば, 日本をまたにかける名の通った予備校講師ではなく, 地元の子供や学生を集めて寺子屋のようなことをやりたいなあと思っています。もうそんな時代ではないと一蹴されてしまうかもしれませんが (T^T)
長くなってしまいましたが, 思うところを書きました。何か議論の種になれば幸いです。
シト (上への送信)
教育の公共性を考えるとき、子供をどう捉えるかが問題になりますよね。子供は親の私物ではなく社会の子であるという子供観が強調されなければなりません。なぜなら、親の私物と考える限り、その子供の教育を親が選ぶというレベルでは、私的な利益、そして将来への投資といった意識で考えられます。それでは、教育の共同性、公共性は出てこないからです。親が責任を追うと同時に、この子はこの街をよりよくしてくれるという期待がされている社会の子という捉え方をする必要性があります。
 安易なものが好かれていっているのもこの認識が薄れているのと関係してそうですね。都市部においてその子供観を復活させるのはほぼ無理だと思うので、何か新しい方向からのアプローチが必要だなと思ってます。

最後に

教育は国がやるものなので、カントのように人間を「人間」にするのが教育の本来の目的だと思っています。これを言うと基本的におかしいと言われます。少なくとも教育学部内ではそうでしょう。教育心理学や発達心理学を学んだらそういう気持ちもわかります。
前回のWSでも言っていたのでもう知っているかもしれませんが、私が引用したカントに対してデューイが反論してます。「旧教育(カントが言っているもの)は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることを、いくぶん誇張したかもしれないが、明らかにしてきた。旧教育は、これを要約すれば、重力の中心がこどもたち以外のところにあるという一言につきる」と書いています。
私的には、なんだこれという感じです。
社会は子どもたちが生まれる前にもう既に存在しています。その社会が教育を行うのです。そのため、そもそも重力の中心が子どもたちになることはおかしいと考えます。子どもを中心にしたとたん、それは社会から切り離した人工的な世界に子どもを閉じ込めることになるのではないでしょうか。教育においてデューイは有名ですが、カントは有名ではないです。それも関係しているのかもしれません。

日本の教育はよくアメリカの教育のあとを追うことが多いので、いずれコンピュータに丸投げされるでしょう。そして、アメリカの富裕層では人間が重要視されているように、人間だからこそできる、このコミュニティーでいう愛などが重要視されていくでしょう。

理想とは違うかもしれませんが(問うておいてすみません)、教育が行き着くであろう未来から考えて教師とは、前半に書いたものを前提とした表現者になるのだろうと思っています(全然言葉が見つからなかったので、パクりましたすみません)。そこにたどり着くまでにいろいろと変な方向に進む気がしますがw

ところで、子供が社会の子という考えの「社会」が広がっていく今、その社会における人間はどんなもんなんでしょうか。考えてみると面白そうです。

また次のWSで会いましょう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?