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あるいは聖母であり続けるということ

 夕飯のカルボナーラを作ろうと冷蔵庫の中を開けたら、にんにくを切らしていることに気がついた。近所のスーパーまで走れば間に合ったかもしれなかったけど、わざわざ走るのが億劫で諦めてしまった。
 ぐらぐら茹だる鍋の中のスパゲッティをかき回していると、玄関のドアが軋む音が聞こえてきた。私達が暮らしているマンションは古くていつもどこかしらがぎしぎしというのだ。「ただいま」と声がする。彼が帰ってきたのだ「おかえり。晩御飯はカルボナーラだよ」振り返らずに声をかける。「うれしいなあ」どさっと音を立てて彼がソファーに座ったのがわかる。
「今日はどうだった?」
「疲れたー。展覧会の打ち合わせが長引いてさ、トーコちゃんの家にばらまきに行くのが遅れてさ」
「顔、見られた?」
「いや、帰ってくる直前で逃げれた。でもトーコちゃんの顔は見れたよ。毎日されてるから慣れたみたいだけど、写真を見たとき嫌悪感の上に無表情が張り付いててたまらないよね」
私の恋人は、ストーカーだ。

 客観的に見ても、私の顔はとりたてて美人ではないと言えると思う。どこにでもいそうな平凡なショートカット、平凡な赤縁眼鏡。私の顔を褒めてくれたのは後にも先にも荒川さんだけだ。
 私と荒木さんが初めて会ったのは一回生の時、写真部の飲み会の席だった。
「佐伯さん」先輩から声を掛けられた。「この人が荒木さんだよ。ウチのOBにして新進気鋭の大物写真家さ」
私が振り返ると大物写真家が驚いたように口を開けてまぬけな顔を晒していた。ずいぶん背が高い男の人だと思った。数秒してようやく彼の口からひと綴りの音が出る。
「トーコちゃん?」
「荒木さんもそう思うでしょ? こいつトーコ先輩にそっくりなんすよ」
先輩に促されて座る大先輩に私はお辞儀する。「一回生の佐伯です」荒木さんは依然として私の顔から目が離せないようだ。ずいぶん綺麗な顔をしてるんだな、と私は思った。やや気まずい沈黙の後で荒木さんはようやく口を開く。
「本当にトーコちゃんに似てるね。佐伯さんだっけ? 君トーコちゃんの妹じゃないの?」
「私そのトーコ先輩にあったこともないです」
「そっかあ」
 荒木さんは手を伸ばすと私の髪に触れた。
「どっちにしろ、君たち二人とも俺の好きなタイプだな」
 その日の晩には、彼は私の下宿に泊まり、一か月後には彼の荷物が私の下宿に送られてきた。

 一度見せてもらったトーコ先輩の顔写真は、その平凡な顔立ちも赤縁眼鏡も不気味なくらい私にそっくりで、唯一違うのは私よりも短い髪だったが荒木さんのリクエストで私も髪を切りそろえたので、私たちを隔てるものは何もなくなってしまった。私は一度も会ったことのない先輩に対してある種の親近感を抱いている。
 五年前、二人とも一回生だったころ、荒木さんはトーコ先輩と初めて会ったときに「この人は俺の運命そのものだ」と確信を抱いたらしい。その間にあったことを彼は教えてくれないが、とにかく二人の運命は成就しないまま卒業した。有名写真家に見初められイギリスで個展を開催するなど、荒木さんは出世街道に邁進する傍らトーコ先輩に異常な執着心を抱き続け、脅迫の手紙をばらまいたり家に押し入って無断で花をプレゼントするなどの行為を地道に続け、私と付き合い始めてから一年間の間にも彼女は三軒目の引っ越しをすませた。
付き合い始めて最初の頃は、トーコさんに付きまとうのはやめて欲しいとか、私はトーコさんの代わりに過ぎないと思っているのだろうと責めることもあった。その度に彼は、
「俺はトーコのことも君のことも別々で愛しているんだ」
と言う。その言葉を信じるようになったのはいつからだろうか。
「この間の学内展見に行ったけど」
 荒木さんは器用にくるくるパスタを巻きながら、
「佐伯ちゃんはもっと構図を考えた方がいいよ。要素が多すぎる」
「はいはい」
「人のアドバイスはちゃんと聞きなさい。俺は今度のコンクールで君に入賞してほしいんだよ」
 荒木さんが私に関心を向けるということは私という個人をちゃんと見ていることの証左だと思う。彼は本当に私のこともトーコさんのことも別々に好きなのだ。
「ねえ荒木さん」
「ん」と顔を上げた彼に私は、
「荒木さんは私のどこが好きなんですか?」
 荒木さんはフォークを置いて、笑顔を見せた。
「色々あるけど、優しくて何でも受け入れてくれるところかなあ。こんな俺のことも……」

 それから、私達は秘密の撮影会をする。
 ファインダーの前で、私はスカートを脱ぐ。シャツのボタンを外す。「きれいだよ」と彼は囁きシャッターを切る。私はほんの少し嬉しい気がする。この写真は作品ではない。ばら撒いて動揺を誘うための写真なのだ。私はブラジャーの紐を肩から外す。顔を隠した私の裸は、不気味なほどトーコさんに似ている。パンツを下ろす。彼は明日の朝には私の裸の写真を彼女の家の前にばら撒きに行くだろう。シャッター音が聞こえる。荒川にとって、私の写真をばら撒くことはトーコさんから自分の執着への返事をもらう唯一の方法なのだ。目線を向ける。私は共犯者だ。
 ポーズをとりながら私は考えるーー私は“聖母”であり続けなければならないのだ。致命傷ばかりだけど無反応を決めこむ私は。私と、荒木さんとトーコさんの間には深い断絶が存在する。私はトーコさんの代わりにはなれないし、彼を変えることもできない。私には彼は救えない。どうすることもできない。白馬に乗った騎士にはなれない。ファム・ファタールでもいられない。私にできる最大限の愛情表現はーー諦めること。諦めの深い愛で全てを受け入れ続けることだけだ。私は、聖母であり続けなければならないのだ。
「ごめんね」
と彼は呟いてシャッターを切る。私の心は完全に凪いでいる。

翌朝目がさめると、彼は横にはいなかった。夕方には帰るとメッセージが残されていた。一人分の紅茶を淹れて飲む。ぐるぐる回る洗濯物を見つめる。ベランダに出て朝日を浴びる。
ベランダに干されたスカートやシャツの隙間から顔を出すと、マンションの前を通る大きな道路が見えた。一瞬、このまま誰にも何も言わずにどこかに行ってしまいたいと思ったが、 わざわざ今の生活や彼を置いて行くのは億劫だと思い諦めてしまった。


あとがき

 この作品は去年大学の文化祭で出したものです。
 当時書いたときは結構丁寧に書けたと思いましたけど、今見返したら焦りが見えます。もうちょっと一個一個の場面を膨らませられましたね。でも、小説の体は成してるし結構気に入ってる方です。この作品を書く上で、リスペクトした人の文章も入れているのですが、自分としてはまあそれなりに翻案できた方かなと思います。
 一応この作品にはテーマ的なものがあって、「愛情には必ずしもポジティブな意味合いではないのでは」っていうのがあります。執着や憧憬や憎悪も愛情に包括できるのではないかなという感じで、特にこれで表現したかったのは「諦める」の受動的な愛ですね。諦念と憐憫と慈愛と受容からなる愛情もあっていいんじゃないでしょうか。まあ聖母というよりは釈迦如来的ではありますが。
 この作品を書く上で友人に挿絵を依頼しました。初めて人に自分の作品を読んでイラストを描いてもらいましたが、依頼して返って来たら自分の脳内にあった以上のものが出力されて「絵、最高〜〜〜!」と思いました。佐伯さんめちゃくちゃ美人ですね。この場を借りて再びお礼申し上げます。本当にありがとう……。

文章など書きます。