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「死ぬということ」を考える

ちょっと重たいタイトルですが、最近「死ぬということ」についてよく考える。
今日は、このことに関して、私のお仕事を通じて得たものをお話していきたい。

私は千葉県の、とある田舎へ3年前に移住し、歯科衛生士として、近所の老人ホームへ定期的に口腔ケアを行っている。今はそれぞれ特徴の違う老人ホームを3軒請け負っている。

① 特別養護老人ホーム・・・在宅での生活が困難になった要介護度3以上の高齢者が入所でき、基本的に終身に渡って介護が受けられる施設である。「自立」を目指す施設ではなく、終身に渡って穏やかに余生を過ごす場所である。大体が4人部屋である。

② 老人保健施設・・・介護保険が適用される介護サービスで、在宅への復帰を目標に心身の機能回復訓練をする場所。

③ 認知症グループホーム・・・認知症の高齢者に特化した小規模の介護施設で住み慣れた地域で暮らし続ける地域密着型サービス。認知症介護の知識と技術を持ったスタッフが24時間サポートしてくれる。

上記特徴を見ていただいてわかるように同じ老人ホームでも、こんなにも特徴が違う。なので、その施設ごとに雰囲気も全く違う。

私が主に出入りしている施設は、①の特別養護老人ホーム、通称特養である。大体平日午前中はここの施設で入所者さんの口腔ケアや入れ歯の洗浄、入れ歯の修理等を行っている。

こちらの特養は、片田舎の小さな町役場が細々と運営している、築40年以上の古びた建物で、過疎化や地域の高齢化により介護職員は不足の一途。その影響で入所者も思ったように増やせず、昨今は赤字続きの老人ホームだ。
なので、最低限の介助はあるものの、“人間らしい、豊かな余生を過ごす場所”とは程遠い。
特に、昨年からのコロナにより、外出も、面会も、お楽しみ倶楽部でさえも中止のままである。

入所者は、この土地で主に農業を営み生活してこられた近所のお年寄りたち。
要介護度3(寝たきりや認知症等で常時介護を必要とする状態)以上なので、認知がある、もしくは老衰、病気により身体が思うように動かず介護が必要な方達だ。

頭はしっかりしているのに身体が思うように動かせない、そして家族が遠方にいるためにこちらの施設へ入所させられるお年寄り。

このケースが一番酷だと私は思う。

だが実際、そんな方達はけっこういらっしゃる。

食事をとることも、トイレに行くことも、起き上がることでさえ第三者の介助が必要になる。

もし、自分がそんな状態になったら・・・

4人部屋の、一つのベッドだけが自分のプライベート空間。

目を開ければ、天井のシミくらいしか見る対象となるものはなく、身体を起こされるまで何時間でも待つ。

話をしたくても、周りは耳の遠い方、認知で話が通じない方、寝ている方。

本を読みたくても目が悪くよく見えない。むしろ、起きてることで精一杯。それ以上は何もできない。

職員さんは忙しそうに次から次へと入所者を車椅子に移す、そしてトイレの介助、次は食事の配膳準備・・・そんな具合なので、誰もかまってはくれない。


神は無情である。

そんな状況でも、一人一人に一日24時間という同じ時間が与えられている。

身体の節々は痛いのに、肝心要の命に関わる病気は出ない。

“早くお迎えにきてください”と願っても一向に通じない。

一時間さえ永遠に感じる。


最期の最期で自暴自棄になる方もいらっしゃるだろう。


だが、人間生きている以上はいつか死ぬ。

どんなに良い、どんなに贅沢な人生でも、ラストはこんな状態なのかもしれない。

それは誰にもわからない。

わかることは必ず死ぬということ。

そして、老いとともに家族や仲間の死、閉経や病気、自分の醜さなど、仕方のないことを受け入れていかないといけないということ。

それが現実にやってくる。

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私は、老人ホームのお年寄りから感じたことは、どんな状態の最期でも「良い人生だった」と思いながら一日一日を過ごしたいな、ということ。

現世や若い頃の思い出に縛られるのではなく、私自身と、私の魂との歩幅合わせ。

手放すこと、執着しないこと。

今一生懸命生きること、そして「一生懸命生きている」という素晴らしい価値を自分自身で感じられ、噛みしめること。

なので人生には、仕事の他に、「一生懸命になれる趣味」と「瞑想」が必要なんだと思う。










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