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風景描写の手習い。

私事ながら、じきに誕生日を迎える。
まだまだやるべきことが山ほど残っているのに、それをあざ笑うかのように時間の神様は無常にも年月を早送りにしている。

私の顔つきはまだどこか幼く、ときに仕事やらで難題に差し掛かるととたんに眉間にシワが寄る。休日はだらしない格好で雑踏へカモフラージュしてしまえば、まだ大学生でも通せそうだ。

夜。そんな事を考えていると、遠くで塾帰りだろうか、小学生らしき集団の声が聞こえる。

「じゃあ先に行くぜー!」

「えー待ってよー!」

その掛け声にしばし耳を傾ければ、4〜5人のうち半分は自転車に乗って車道を直進で走り抜けて行き、もう半分は靴をバタバタと鳴らして我が家の駐輪場をショートカットして追いつこうと必死だ。

遥か昔(言うて15年ほど前ですが)、自分もそんなふうに塾帰りにリーダー格の奴に漫画を貸したまま置いてけぼりに自転車で走り去られた。あの頃が懐かしい。

最近、風景描写の表現方法について学んでいる。

中村明 「日本の作家 名表現辞典」に、志賀直哉の代表作「暗夜行路」について評した項がある。

「中の海の彼方(むこう)から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏(アカエイ)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟が所々に見え始めた。
ー中略ー
影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度(ちょうど)地引網のように手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似ていた。」(暗夜行路)

何の説明もない率直な文章だ。もはや何の説明も要らないだろう。
作者が自分の眼できちんと物を見、感動をもって対象をはっきりととらえている。連山の頂と美保の関の燈台との位置関係、大根島の形、電燈と白い烟との数の変化、麓の村との村と遠くとの暗さの違い、そして、自分のいる大山の影の動き…。文章における描写の巧拙というものは、要するに、書き手にものがどこまではっきりと見えているかということが問題ではないか。

中村明 「日本の作家 名表現辞典」P258〜259より

自分がこの眼で観た、感じた風景をいかにして紐付き、言葉にできるか。
それがどんなに格好良いか。
日本に生まれた日本語の使い手として考える。

文章がうまい人は普段のコミュニケーションもうまい。
そう聞いたことがある。今の所、実感が湧かない。

自分なんかは主語が抜ける癖があるので、たちまち誰がどうしたという所で辻褄が合わなくなる事がある。

かといって端折ることで効率化を図るビジネス会話では、そういう攻めた会話が必然的に多くなる。大体をわかってくれればそれでいい。てか、そうであってくれ。
話している側の心の声がつい漏れ聞こえてしまうが、噛み合わないままことが進むと大きな事故に繋がりかねない。

風景描写で用いる言葉と普段の会話の言葉では違うだろう。
先の塾帰りの小学生の描写においても語彙力もまだ浅はかなため、文章遣いはまだまだ伸びしろがあることに気付かされる。

今日も言葉の練習は続く。

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