「言葉る」記録#06〜言葉という娯楽〜

Yes, I’d say words have always been my 娯楽――というか、たぶん「文字」が面白かったんですよね。Ever since I was little, ひらがな・カタカナ・漢字に飽き足らず、「読まれうる」ものが手当たり次第に自分にも読めるものになっていくのが楽しくて, I suppose.


(「ありがとう」を「有難う」と書くのは楽しかった?本当に?)


然るに、我が獲得せし style 及び langue は他者との交流が為に使はるるに及ばざりき。さるべき由を思へば、我が娯楽は他者に idée が伝はることによらず、我が為に書かれ、我が為に読まるべき jargon が増えゆく自己満足にありけり。すなはちその端は formalisme にありて、我の今や忌み嫌はんとする pédanterie 以外の何者とや言ふべかりける。



(古典を勉強すると、きみたちが独自に獲得したと信じていた文体がいかに借り物でしかなかったかを学ぶことができる)



ひとえに言えば「厨二病」というものだったかもしれない。しかしそのきっかけは確かに、自分には一見どう使うかもわからない言語を操ってコミュニケーションを取るひとびとへの憧れであったはずだった。だが、手に取ることができる言葉の種類が増えた僕にできたことは、レーモン・クノーの『文体練習』の二番煎じのような、ハリボテの自己表現にすぎなかった。言葉を使って何かを伝えようとすること、精密に描こうとすること。その必要性を感じてこなかったか、もしくは無意識に逃げていたのかもしれない。図工の時間に真っ白な画用紙を渡されて、絵の具箱の前でうなだれるしかできなかった子供のように。




(ほんとうにきみたちは、自由に言葉を紡げるということをenjoyしているか?)




I’m happy to have escaped that silly approach to language. Languages are people’s choices to express themselves rather than just styles of it, and the beauty built upon them does not stem from the fact that one knows various languages and can show off their capability of switching their styles here and there for no reason. Simply by sticking to the language you prefer and feel confident in, you can explore your true potential as a writer, and more importantly, as a person of character.


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