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江國香織の本が本棚にあるということ


我が家に一番多く並んでいる作家は江國香織だと思う。多分十三冊。
初めて江國香織を読んだのは、いつだったのだろう。記憶にないけれど、大人の女性の話、という風に思っていたような気がする。自分には大人すぎると思っていたので、だいぶ若い頃に読んだのではないだろうか。

だけど今江國香織を好んで読むのは、自分が大人の女性になったから、追いついたから、ではないような気がする。江國作品はいつまでも不思議で、ここではない場所の物語という感じがする。でも非現実的という風でもなく、とても身近な、これだ、という感情を語られて、ぐらぐらする。

私が今この世で一番美しいと思っている本が『物語のなかとそと 江國香織散文集』だ。
表紙のグレーの具合も、手触りも、開いた時の青も、カバーを外した深い緑も、金の花ぎれも、ゆっくり撫でると心が静かになるようだし、心地よいゆとりのある本文には、そのゆとりとは全く逆の、濃密な江國香織世界が詰まっている。静かに、だけど濃密に、スローモーションで殺される感じ。
私はこの本を、「ぐっ」となった時に開く。体の中いっぱいに江國香織を飲んで、眠りたい。

『日のあたる白い壁』
写真や絵に惹かれ、烈しく嫉妬する、というのはとても頷ける。封印されたそれらの物語たち、という表現も。
江國香織の目で見て、脳を通して、語られるそれらの物語たち。なんて贅沢な本だろう。ひとつひとつ、丁寧に丁寧に見ている人なんだろうな、と思う。
私が江國さんに関して知っていることは、果物を沢山食べること、お風呂に長く浸かること、妹さんから「じいちゃん」と呼ばれていること、くらいだけれど、江國さんが何かをじっくり見ている姿というのはなぜか想像できてしまう。絵画だけでなく、世の中の些細なことも、江國さんはこうしてじっくり見ているのではないかと思う。

『すいかの匂い』
これは毎年夏になると読み返したくなる本だ。もちろん今年も読んだ。
夏の記憶って、どうしてこんなに濃いんだろう。しかも、全てが強烈。五感全部にギラギラと焼きつく。そういう強烈な景色を、あっさりと書かれているように思う。そのあっさりさが、余計に強烈さを増す瞬間があって、心臓を掴まれたようになる。

水の輪、という話の中で、せみの鳴き声をシネシネシネシネシネシネシネシネと表しているのだが、私も子供の頃からずっと、せみの鳴き声はそういう風に聞こえていて、みんなそうだと思っていたら、どうやら違うらしく、でもこの本でこの表現に出会い、江國香織が書いているんだから間違いではないな、と安心した。
江國さんの話は、安心する。どんなに憂鬱な話でも、むしろ憂鬱であればあるほど、安心する。

それからこの本は、最後の川上弘美さんの解説がいい。自分が読みながら思っていたままが書かれていてどきりとする。
解説は『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』の山田詠美さんもとても好き。

江國香織の本が本棚にある、ということが、お守りのような気持ちになっている。縋ることもあるし、救いを求めることもある。正直、本をいくら読んでも答えというのは返ってこないし、何かがわかるということもないと思う。人生が変わる、ということもあまりないと思う。
けれど、ほんの少し、読む前と読んだ後では違う。それは希望なんてものではなくて、むしろ絶望で、だけど読むことで確実に時間を埋めてくれるし、時間が過ぎていく。そのことが私には、大きな救いなんだと思う。


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