dub to the obscure 前編
綱島の静かな夜に河でBBQをする人々の声が響き渡る。
酒を飲みながら電車から降りた俺は女子トイレにも目もくれずただ家路に着いた。
俺は川崎のイメージが強いかと思うが、かつては横浜の閑静な綱島という街に住んでいた。
そこは駅前だけ居酒屋や本屋やコンビニ、リサイクルショップがあるだけで、現に俺が住んでいた駅徒歩10分の物件の周りには何もなかった。
厳密にはいつに作られたか分からない小さくてカビやコケの生えた沢山の墓とまあまあデカい寺と立派な墓に囲まれていた。
きのこの山は食べざかりよろしく、墓場の山は見えざかりである。
川崎は治安も悪く真夜中に喧嘩をしても誰も咎めない為性に合っているが、いくら治安が良くてもカーテンを開ければ墓場が見えるし、コンビニにも簡単に行けない綱島の方が今となっても怖い。
そんなのどかな街で暇つぶしにマッチングアプリをしていると、同じ街に住んでいるという「みう」という女に出会った。
みうは元々クラブ嬢で、身なりが綺麗だと自ら豪語していた。
確かにまあまあ良いツラをしているが、乳が大きく腹が見えない。
聞けばLカップだと彼女は答えたが乳がついてくれば当然腹もついてくるのが大体のお約束、細い巨乳はレアカードだ。
その日の夜、LINEを交換すると突然電話をしたいと言われた。すると自分の過去のクラブでの自慢話を5時間され続け、ホスト時代の俺の売り上げを聞かれたので答えるとクラブの足元にも及ばないと言われ、挙句自分の店には元総理大臣に指名されていた嬢がおり、その人は○億月に売った等今度は他人のふんどしで相撲を取り出したのだ。
苛立ちが限界に達する寸前ではあったが一旦呼吸を整え「まずは会ってみない?」と聞くと彼女は「そんな簡単な女じゃない、まずはコミュニケーションを取ってからね。」と言い放つ。
まともなコミュニケーションなど、今でさえ取れていないじゃないか。
…色々難はあるが、Lカップは人生で一度味わってみたい。
その思いがなければ、あの5時間の拷問は耐えられなかった。
*
翌日から俺はLカップと戦う為、久しぶりに本腰を入れた。
どんなに眠かろうが疲れていようが仕事中だろうがアラームをセットし、みうの始業時間前に「お仕事行ってらっしゃい」就業前後5分以内に「お仕事お疲れ様」とメッセージを送り、必ず夜22時に10分程電話をする約束を取り付け、電話が終わると「みうノート」にざっくりと内容を書き出し、重要な部分はピックアップしてみうのプロフィール欄に付け加え、俺がどういうアクションを起こしたか、どういった話を次にするかを最低5つ書き起こした。
本来みうノート作成は1日1回10分ほどで済むのであろうが、みうからのメッセージを返しながらだった為20分ほどかかった。
おやすみとLINEをした後、週2回くらいはその1時間後に突然着信を入れ「眠れなくて声が聞きたかった」と少し通話をしたりしたが、電話に出なかった場合、折り返しがかかってきてもあえてスルーをしていたりもした。
友達から飲みに誘われてもみうとの連絡が乱れないよう断った。
…Lカップを狩るということはつまり、こういうことだと思う。
*
*
二週間ほどそんな日々を過ごしていたところ、20時、突然みうから電話が入った。
「もしもし?」
「もしもし、お疲れ様。」
「どうした?」
「あ…い…っあ?…で…」
「ごめん、ちょっと途切れて聞こえない。」
突然電話が切れるとみうから「電波が悪いから電話番号を教えて欲しい」とLINEが来た。
良い予感がした為俺は躊躇わずに電話番号を教えると、すぐに電話が来た。
「もしもし?」
「あーよかった!今度は大丈夫だった!」
「で、どうしたの?」
「今暇ぁー?」
「うん。」
「今日誰かと一緒に寝たくてさー。」
「誰か?」
恐らく誰かじゃないだろう。
「よかったら一緒に寝ない?」
「明日仕事遅いしいいよ。みうの家行ったら良い?」
「駅前のホテルでいいよ。私が出すから。」
手に汗が滲む。ようやく…
「じゃあ21時にね。」
「はいよ。じゃ。」
この気持ちが興奮なのか何なのか分からなかった。
待ちに待った念願のLカップを手にできるか、できないか。
細いLカップというレアカードか、その逆か。
今までの苛立ちが報われる事になるのか、ならないのか。
墓場の山を抜け、駅へ向かうもあと20分ほど時間があった為、綱島の河辺で待つ事にした。
コンクリートの階段に腰掛けると、静かな鶴見川に満月が映る…
この光景は確か昔に見た事があるな、としばらく考えていると、俺はハッとした。
*
19歳の頃、俺は「あすか」という女の子と暮らしていたのだが、ある時に浮気を自白された。
8月の夜だった。
同じ高校だった男と二子玉川から高津まで川辺を歩きながら手を繋いでデートをしたのだと。
あろうことか、その男はかつてあすかが好意を寄せていた男で、男もそれを分かっていたらしい。
怒り狂った俺は嫉妬のあまりあすかを突き飛ばした後に「そいつと歩った道を俺とも歩け!」と言い放った。
その日の夜は尚の事蒸し暑く、なかなか寝付けなかった。
デート当日、2人で多摩川沿いを手を繋いで歩く。
「次どこ行ったの?」
「…」
「あすか!」
「こっちです…」
俺が手を引くと、あすかは小さな声で「そうじゃなくて私と舜くんだけのデートがしたいです…」と言った。
俺はふと我に帰り、少し悲しい気持ちになったが、ふたたび怒りが込み上げる。
「あすかがいけないんだろ!」
「はい、すみません…」
こんな悲しそうなあすかの顔、見たくなかったのに…
俺は一体何をしたいのか訳が分からなくなった。
陽が落ちてからも無言のまま手を繋いでひたすら河辺を歩いていると浴衣姿の人々とすれ違い始め、近所で祭りでもしているんだな、と思っていると突然爆発音と共に辺りが赤く光った。
「あそこ座ろう。」
あすかに手を引かれるまま、多摩川のコンクリートの階段に座ると、目の前で花火が大きな音を立てて上がっているではないか。
「今日二子玉川の花火大会だったんだ。」
「知ってたの?」
「うん。」
しばらく沈黙が流れる。
横を見ると花火が寂しそうな顔のあすかを照らしていた。
「あのね、もしかしたら今日が最後のデートになるかもしれないなって思ったから、だったら一緒に花火大会に行きたかったなって思ったの。」
「…」
「舜くんはあたしの事もう好きじゃないかもしれないけど、あたしは舜くんの事大好きだよ。」
突然涙が溢れた。
もう怒りなどとっくに俺にはなかった。
空っぽのまま何もなかったところに悲しみが入ってしまった。
「ごめんねあすか、俺のヤキモチでこんな事させて…」
「ううん、あたしがいけないから…本当にごめんなさい。ごめんじゃ済まないって分かってます。」
「もういいよ、俺の方こそごめん。」
段々と辺りに浴衣を着たカップルが増え始め、花火も本格的に沢山上がり始める。
月と花火が多摩川を様々な色に照らしていた。
最後のデートになんかするものか、とあすかを抱き寄せたが、不思議と暑くは感じなかった。
*
あれから何年経ったのだろう?
あすか、俺はあれから色々な事があったよ。
ホストをして、色々な女の子が俺を通り過ぎていく中で俺も変わっていった。
人として、してはいけない事も沢山した。
あすかが今の俺を見たら怖がるんだろうな。
別れてから連絡先を消したのは正解だったね。
そして俺は今…
21時手前、みうからLINEが入る。
「もうすぐタクシー着くよ!」
確実にあすかの知っている俺じゃない。
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