見出し画像

書くためのエネルギーと、記憶の話。

 わたし、以前書いた文章ってどんどん忘れていくんですよね。記憶障害ではありません。過去として過ぎ去ってしまうのです。
 そういうものだろう、と思っていたら、過去のnote を再掲して継ぎ足すように書いている人がいました。何をいつごろ書いたのか、覚えているというのですね。驚きでした。

 大きな違いは、イメージをことばにする際に必要なエネルギーでした。
 わたし、書くの速いんですよね。書くだけ書いて削る、という書き方をよくやります。書きながら、書く内容を作っている。書いて目の前に展開して、持っているイメージと比べて、違えば書き直す。そして、よくわからなくなれば一から書き直します。下書き保存したものも、数日後に書き継ごうとすると違和感が残ることが多く、結局一から書き直すことのほうが多いです。最近はそもそも、下書きとして保存するのをやめました。
 これ、全員じゃないのですよね。一語一語にかけるエネルギーが、わたしよりずっと大きい人たちがいるようなのです。ことばが比較的苦手な人たちですね。実際、その人たちのことばは重い。重さにはあこがれます。

 その速さの違いは、たとえばデッサン量産と油絵大作の違いのようでもあり、ジャズ即興と練習に練習を重ねたクラシックの演奏会のようでもあり。回転数とトルクの問題だと言った人もいました。どっちが正しいとか、どっちがよいとかではなく、ぜんぜん違うものなのだと思います。

 わたしはことばの扱いが得意です。認識できるものについては、用途や相手、場面に応じて表現できます。正直言って、どうにでもなります。書く対象さえあれば。書くべきものがありさえすれば。
……ただね、イメージの解像度が足らないことがあるんです。そういうときは、何を書いていいかわからなくなります。書き続けられなくなって放棄した記事はわりとときどきあったりします。書く対象が、尽きてしまう。永遠に出てこないわけじゃないけど、出てきたころには自分の考えも書きたいことも、見ている角度も変わってしまっていて、新しく書き起こすしかなくなっている。前の内容は忘れていますから、別の内容を扱う、関係ない別の記事になるわけですね。
 前述の、ことばの苦手な人たちは、書く対象があってもことばが出てこずそこで立ち止まってしまうということでした。それはわたしには起きません。
 対象がありさえすればいくらでも書けるのに、ってわたしは思ってしまう。でも、それは、ことばさえ使えれば言いたいことはいくらでも、しっくりくることばで文章化できるのに、と彼らがいうのと、表裏一体なのでしょう。
 隣の芝生は青いですね。まったくもってそのとおりです。

この記事も、続けたい気はするけど関連イメージがいまは出てこないので、とりあえずここまでにしておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?