「擬態」と演技との関係について。
自閉スペクトラム症についての最近の本では、「擬態」が取り上げられることが多い気がします。定型発達の人であるかのような言動を無理して行うことですね。それ以外に選択肢がないから、いろいろな犠牲があっても擬態せざるを得ない。「発達障害者は擬態する」の帯には、「擬態とは、周囲に合わせるために、自分の魂を殺害し続ける行為である」と、なかなかショッキングな定義が書かれていました。そういう人もいて、そういう捉え方もあるのでしょう。
さて。いまの医師には、医学部を卒業して2年間(わたしは留年したので3年間)、初期研修という期間があります。当時はまだエリート医師へのあこがれが捨てきれていなかったので、いわゆる有名研修病院というものに応募しました。(その後知ったところによると)最下位で合格し、周りがあまりに優秀すぎて何の話をしているかわからない状態で、外国人特別講師のレクチャーに出席を求められて、日本語で立ってついていけるかあやしい話題に英語で参加せざるを得ないなど、日々困っていたのです。エリート意識の強い病院のため、落ちこぼれのわたしは本当に居場所がありませんでした。
知識や手技(針を刺すとか縫うとか)も問題でしたけれど、自分自身の内面が「りっぱなおいしゃさん」とあまりに遠い、というのも問題でした。わたしの身内には医師はほぼおらず、ロールモデルが子ども時代の小児科医/小児歯科医くらいしかいなくて、それも時代や年齢性別的に違う気がする、というわけで、完全に迷子になっていたのですね。知識は時間がかかっても今後身につくとしても、精神科であれば手技は関係ないにしても、人格の問題は残ります。
ノイローゼ気味なまま廊下を歩いていたとき、ふと気づきました。
「わたしが何を考えていたって、家でゲームばっかりやっていたって、病院でのわたしが理想のお医者さんとしての言動に徹していたら、患者さんにとってのわたしは理想のお医者さんよね?」
さいわい、患者さんへの接し方や説明などが素敵と思える医師は周囲に何人かいたので、彼らを完コピする方針を立てました。患者さんへの接し方が素敵な医師なら彼らの接し方を、説明が素敵な医師なら彼らの説明を、コピーして回ったんですよね。ある医師についてはベッドサイドでの立ち方までコピーしてしまいました。いまでもベッドサイドではそのコピーした立ち方をしています。
演技です。演技に過ぎないといえばそうです。でも、演技であると思い定めて演技を磨くのは、内面について思い悩むよりずっと楽でした。説明の仕方のコピーは効果も出やすく、患者さんにも好評でした。研修期間が終わり、精神科医となってからも同様の習慣を続けました。いまでもいろいろと活きています。
「擬態とは、周囲に合わせるために、自分の魂を殺害し続ける行為である」というのと、わたしのこの完コピと、きっと何かが決定的に違うのでしょうけれど、何が違うのでしょうね。仕事中だけだから? いや、擬態だって、他人がいないところや親しい人しかいないところでは、不要だったりもするのでしょうから、時間ではないでしょう。ASDを隠すためにやっているわけではないから? でも、擬態の本に出てきた人たちも、全員が「ASDであると知り、ASDらしさとは何かを知ったうえで、それを意識的に隠そうとして」擬態しているわけでもなさそうでしたから、ASD的ポイントかどうかというのも、決定打ではないように思います。
能動的に、意識的に選び取ってるかどうかなのかなあ、というのが、いまのところの結論です。自分が仕事以外で「擬態」しているかどうかは、正直いって、よくわかりません。