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善とか責任とか裁量権の範囲とか。

 善を為さないことは悪であるか、というツイートと、note を読んだ。この疑問文について、わたしは、そのツイート/note を書いた彼女とはぜんぜん違うことを考えた。

・ 善を為す/為さないことって、何について?
・ 善とは何か? 
・ だれにとっての善なのか? 
 という問題が、この「善を為さないことは悪であるか」に次いで現れる。

 たとえば、わたしは精神科医なので、「患者さんの病状がよくなることについて、貢献すること」が善である、というのがとりあえず浮かぶ。先生の生きがいって何ですか、と患者さんにたずねられて、仕事です、と即答してしまった程度には仕事中毒である。仕事中毒の件は後日考察することにして、この、貢献の件。
 貢献については、わたしの仕事の範疇において、なので、とりあえずいいだろう。
 病状がよくなることは、患者さんの苦痛が減ることなので、善であるように思える。しかしながら、じつをいうと、単純に苦痛が減るのかというと微妙な場合がある。たとえば、病状がよくなったらよくなったで、別の問題に直面せざるをえない場合。うつ病が治ってしまったらブラックな職場に戻らざるをえない、がわかりやすい例だろうか。いいことなんだろうか、それ。ブラックな職場でなくとも、たとえば、再び万引きができるだけの元気が出てしまうかもしれない。ほんとうにいいことなんだろうか。
 だれにとっての善なのかというのは、上述の問題に関わる。患者さんにとってもそうだし、周りにとってもそう。かならずしも、すべての人にとって、善であるとは限らない。病院にとっても、どうだろう。患者さんが順調に回復して早く退院してしまうと、病院の収益は減るかもしれない。長い目で見れば評判が上がるなどメリットもあろうけれど、短期的には、経営にはマイナスだったりする。

 とりあえずいい、とした「貢献」についても、思うところはある。裁量権の範囲においてのみ、善を為さないことが悪となりうるのではないかとも考える。たとえば、うつ病の薬はいろいろある。わたしが、あるうつ病の薬を使おうと決めたとする。ほんとうは別の薬を使ったほうが早く治るとして、この件についての責任は、調剤する薬剤師にはなく、わたしの責任である。そうはいっても、問題の薬を正しく調剤して医療ミスを防ぐのは、薬剤師の責任だろう。薬剤師にとっての善は、正しく調剤することで、患者さんの病状の改善に寄与することにある(他にもあるけど省略)。問題の薬を正しく調剤することについての責任は、たぶん、わたしにはない。とはいえ、患者さんの病状がよくなることについての最終的な責任は主治医であるわたしにあるので、責任の一端は、わたしにもある、ということになる。

 それでもなお、患者さんの病状がよくなることを善であると仮定して、その件についてベストを尽くすことも善であるとしておくのは、実はあんがい、雑な考えなのかもしれない。ただ、上の考察から明らかなように、たとえば患者さんの治療において、わたしの裁量権の範囲は大きく、また、責任の範囲も大きい。裁量権の範囲においてのみ、責任を負い、また、善を為すことが義務付けられているのではなかろうか、そして、その「善」とやらが結局何なのかを考えることも、義務に含まれているのではなかろうかと、いまのところは考えている。
 応用編として付言したいのが、ちまたで流行りの「自己責任」。彼彼女が選べる範囲のこと=裁量権の範囲であれば、本人の責任でもいいかもしれない。でも往々にして、彼彼女が選びようもないことも、「自己責任」には含まれているように思う。選びようもないことについて責めるのは筋違いであろうし、いずれにせよ、どういう選択のどういう結果であっても、困っている人を助けるのは、それこそ、助けることができる人が義務として負う善なのかもしれないとか、考えたりする。

考えるもとになったnote は以下↓

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