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【創作大賞2024】レンタサイクルの彼女 (第五話)

【二十四歳の春】

 東京の家賃は高かった。埼玉で同じレベルの家なら七割くらいの価格で住める。僕は文具商社の東京営業所に勤務するにあたり、電車に乗る時間が三十分以内で収まるところで家を探した。もう少し駅を下ったり、間取りを妥協することも検討したが、一度気に入ってしまった家を見つけてしまったせいで、それ以外が視野に入らなくなった。そして結局、背伸びして理想的な家に住むことにした。彼女は夢追い人で収入がないため僕が全て負担する形になるが、全然構わないと思えるくらい、部屋の壁の白さが眩しかった。

 彼女もさっそく東京に染まりつつあるようで、気がつけば眼鏡がウェリントン型からラウンド型に変わっていた。服装は近くの古着屋で買ったリネン素材のワンピースを着ている。彼女は自身が描く個性的な絵にマッチした容姿となり、雰囲気だけは結構それっぽい。
 二人の共同生活は想像していた以上に心地がいい。僕がテレビを観ている横で彼女はあのときのエミュー絵を描いている。彼女の絵は東京に来て、また一段と上達していた。内定を辞退してまで絵を描いているので、いままでと気合いが違っているのだろう。横目で彼女を見つめると、照れる仕草が愛おしい。
 また二人暮らしだと、行動にいちいち文句を言われることがない。実家だと三十度を超えないとエアコンをつけさせてもらえなかったが、この家では春にエアコンをつけても文句言われない。僕は新しいエアコンのリモコンを自由自在に操作する。
「良ちゃん、風量“強”はさすがに早いんじゃない?」
 風量については彼女も文句言うようだった。

 出社前日の夜、僕は急な憂鬱に襲われた。夜に眠れなくなることはたまにあったが、今回は様子が違った。憂鬱は僕の胸ぐらを掴み、全く眠らせてくれそうな気配がない。とりあえずミネラルウォーターを飲みに冷蔵庫まできた。その後、リビングのソファに座りぼーっとしていた。すると僕の異変に気づいたのか、彼女も起きてきて隣に座った。
「良ちゃん、寝れないの?」
「うん。なんだろうな。歳かな。僕まだ二十四だけど」
 僕は彼女に何も悟られないように明るく努めた。
「良ちゃん……明日が不安なんだね……」
 彼女は僕の猿芝居を、優しいおかゆのような言葉で包んだ。僕は気持ちが溢れた。
「翔子ちゃん。なんか、青春がなんなのかわからないまま終わってしまった」
「え、良ちゃん、どうしたの急に」
「いや、なんか。学生時代、本当にどこにも馴染めずでさ」
「そんなの私だってそうだったじゃん」
「翔子ちゃんは違うよ。大学ですごく楽しそうにしてたじゃん」
「それは、そうだね。ごめん……」
 彼女は少しおとなしくなった。
「周りがみんな経験しているような楽しい思い出が僕には結局なかったからさ」
 彼女はラウンド眼鏡ごしに、僕の目をまっすぐと見つめ続ける。
「気づけば明日から社会人になる。だからもう、みんなが平等に味わえるはずの楽しい思い出って、一生できないんだなって。そう考えたら急に、見えていたはずの光が見えなくなって」
 しばらく無言が続いた。遠くで風呂場の換気扇が回る音だけが聞こえている。
 彼女は僕の手を握って呟いた。
「大丈夫だよ、良ちゃんは」
「え」
「良ちゃんには私がいるから。私との青春は、まだこれからも続くから」
 細い腕から精一杯の握力が伝わった。
 彼女が青春の延長を約束してくれた。ラウンド眼鏡の彼女はとても心強かった。僕の青春はまだ終わっていない。気づけば憂鬱はどこかへ逃げていった。
 ミネラルウォーターを飲み干すと僕は深い眠りについた。

 朝、カラスの鳴き声で目を覚ました。
 出社初日。すでに緊張しながら、スリムタイプのスーツを取り出した。僕は慣れない手つきでネクタイを締めた。キツく締める分にはいいと思ったので、窒息する直前のところまで結び目を上げた。
「良ちゃん、頑張ってね。行ってらっしゃい」
 彼女が優しく見送ってくれた。
 家から出て最寄りの駅までついた。僕はすぐに満員電車の洗礼を受けた。東京ってこんなに人がいるのか。呼吸が苦しくなり、さすがに少しだけネクタイを緩めた。こんなに窮屈なのに、おじさんとおじさんがケンカしている。肘が当たったとか当たってないとか。周りは、関わらないようにしている人、それと「カープの達川かよ」と揶揄する人の二種に分かれた。これを毎日朝と夜の二回経験しないといけないとなると体が重くなった。

 会社に到着した。営業所はそこそこ大きいビルの中に入っている。
「おはようございます」
 第一印象が肝心と思い、僕は精一杯フレッシュさを装って挨拶をした。しかし返答は誰からもなかった。
 異様な空気にただ棒立ちしている僕を見かねて、優しそうな先輩社員が声をかけてきた。
「ああ、君。ちょっといい」
「はい。なんでしょう」
「あのさぁ、初日でしょ。ちょっと来るのが遅いんじゃないかな」
「え」
「確かに定時は九時出社だけどさ。普通、そしたら自主的に八時くらいに来ない?」
 言っている意味がわからなかった。学歴は自慢できるが、その文章問題は解けなかった。
「新人だからさ。もう少し自分の立場わきまえてさ。早く来て、先輩の机を拭いたり、フロアの掃除したり、そういうことしないとさ」
「はい、申し訳ございませんでした」
「オレはいいんだけどさ。上司から役員まで全員に謝って回って。みんな新人が来ないって言ってピリピリしてるからさ」
 僕の出社初日の業務内容は“謝罪”で終わった。
 帰り道、ビル風に吹き飛ばされそうになった。エアコンの“強”の何十倍も強かった。

 家に帰ると彼女が玄関で待ってくれていた。
「ただいま」
「おかえり。どうだったお仕事? 大変そう?」
「うん、まぁ……まあまあかな」
 僕は必要最低限のことしか話さなかった。
「晩ご飯食べる? 唐揚げ作ってあるから」
「ありがとう」
 朝、僕を起こしたカラスが夜になっても遠くで鳴いていた。


【二十四歳の夏】

 入社して数ヶ月が過ぎた。結局八時出社でも文句言われるため、七時出社をするようになった。しかし、七時出社を続けたところ「あいつは早く来る割に仕事ができねぇ」と陰口が聞こえてきたため、七時十五分が最適解だと気づいた。

 毎日、神経がすり減る。東京は怖いところだ。疲れて家に帰るといつも彼女が出迎えてくれる。
「おかえり良ちゃん。今日もおつかれ」
 僕は疲れて“ただいま”さえも言えなくなっていた。
 ただこの家だけが心が休まる空間。白い壁を見ると安心する。
「あれ」
 壁の一部が大きく汚れているのを発見した。いろんな色の斑点が壁にこびりついている。
「翔子ちゃん、壁汚れてない? 朝はこんな汚れなかったと思うけど」
「あ、ごめん。油絵描いてたら、絵の具がついちゃったのかも」
 彼女は眉尻を下げ、困り顔をした。
「あのさ、まだ家借りはじめたばっかりなんだから、こういうのやめてくれよ。家賃はこっちが払ってるんだからさ」
「良ちゃん、ごめん」
 僕は会社で吐けなかった分のため息も一緒に吐いた。
 その後、僕は“弱”にされていたエアコンの風を“強”に直した。


【二十四歳の秋】

 秋というには寒すぎる。冬の匂いが近づいている。エアコンの温風が部屋干しの洗濯物を乾かす。
 今日も嫌な気分で会社に向かった。まだ職場のどんよりした空気に慣れない。仕事でわからないことしかないのに、誰にも聞けない。
「あれ、良一? 名入れしたボールペン今日、出荷できてねぇの?」
「え、本当ですか。うわ、申し訳ございません」
 確認不足で発注漏れをしてしまった。
「おいおい、しっかりしてくれよ。いい大学出てても、こんなこともできないんだな」
 唯一の誇りである学歴も、結局マイナスにしか作用しない。
 僕は先方への謝罪とその後の対応を行なった。
 なんとか対応が終わったころには、もう外が真っ暗だった。
 いつもより遅い時間に帰宅した。でも、彼女は出迎えてくれなかった。
「翔子ちゃん。あの、帰ったんだけど」
「あ、良ちゃんごめん、全然気がつかなかった」
「夕飯は?」
「あ、ごめん。私は簡単に済ませたんだけど、良ちゃん分は……。絵描くのに熱中しすぎて……」
 僕は深くため息をついた。彼女はいつものようにわざとらしく困り顔を作る。これ以上責めないでと言わんばかりに眉尻が下がる。
「翔子ちゃんはいいよね。毎日、楽しく絵を描いてて」
「本当にごめん」
「こうやって僕が毎日必死に仕事している間も、絵描いてるわけでしょ。気楽なもんだよね」
「いや、別に気楽ってわけじゃ……」
「翔子ちゃんが内定辞退したから、こっちは毎日不幸な目にあってるんだよ」
 彼女の目から涙をボロボロ落ちている。でも今の僕は、彼女の涙が抑止力にはならなかった。
「ずっと思ってたんだけどさ。翔子ちゃん、もう絵を描くの辞めれば?」
「え……」
「世の中見ててさ、今こんなアナログな方法で絵を描いてる人ってどれくらいいるの? このやり方でプロになれるの? 先がないからみんなデジタルでやってるんじゃない? あと今まで描いてて評価されてないんだったら、この先もプロの画家になるなんて無理だと思うよ」
 彼女は目から大粒の涙を落とし続ける。でも、その目は僕に何か言いたげであった。
「何? 翔子ちゃん。何か言いたいことあればはっきり言ってよ」
 彼女は涙を雑に手のひらで拭い、口を開いた。
「私だって、美大に行きたかったから……。良ちゃんだけ被害者みたいなこと言わないでよ……」

 そう言い残し、彼女は大荷物をまとめ、
ーーレンタサイクルで去っていった。



第一話
第二話
第三話
第四話
第六話/最終回

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