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俺のPTA観察日記 寄り道「やりたくないのにやるの?」

できる人が、できる時に、できる事を
という言葉を一歩進めて
やりたい人が、やりたい時に、やりたい事を
にしたいというようなTweetを見て「will、can、must」の図を思い出した。

自分のキャリアを描くのに、やりたい事、できる事、やらなければいけない事の3つが重なっている領域を選ぶべきというような図。

当たり前だけど「できる」と「やりたい」は違う。できるけどやりたくないことなんて多くあるし、できないけどやりたいことも多くある。やりたいことができるようになることもあれば、やりたくないことがイヤすぎてできなくなることだってある。

イヤイヤ学校に行ってて、イヤすぎて学校に行けなくなってようやく学校に行かなくてよくなる。酷い労働環境で働き続けて、倒れて初めて会社を休む。

なぜ「やりたくない」「できない」という宣言ではダメで周りが納得するような事実が必要なのか。何の権限があって偉そうに免除するのか。
一般的には
「できます」
「じゃ、やって見せて」
と、できるかどうかを疑うのに
「できません」
「いや、できるでしょ」
「ホントにできません」
「やりたくないだけでしょ」
みたいな流れは何なのか。

「できるけどやりたくないこと」をやっても大して幸せにはならないし、PTAに関してはそれが本当にmustかどうかも怪しいことが多い。

mustなことを自分でも確かにmustと感じて、それをやれそうだしやりたいと思うならやる。
mustな組織と言われていて自分でも確かにmustと感じて、やれそうだしやりたいと思うなら加入する。
それだけのこと。

日本には宗教感が足りないのでナントカ教を作りました。毎週日曜はお堂に集まって祈りを唱えてから地域のためにひいては世界のために布教活動に行きます。
どうしてアナタはできないんですか?みんな都合をつけてやってますし、お布施も払ってますよ。地域や世界のためにやるのが当たり前ですよ。

こんなのがあったとしたら、やりたい人だけでやっててよって思うし、圧倒的に参加しない人が多いはずなのに。

おかしなことにはおかしいと言うべきだけど、言っていろいろ起きるより、おとなしく従っている方がラクなのかね。
小学校の6年でもそうなのに中学校の3年なら、なおさらおとなしくしてる方がラクだよな。そんな人ばっかりなのかな…今から気が重い。


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