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「デウスの誓い」 Part-1


    1. 木梨 泰造

 アルバイトの面接の日、東京の北部にある井戸掘り会社を泰造は正午を少し過ぎに訪問した。事務所の扉がだらしなく半開きになっている。簡易な鉄骨に安直に壁や床を嵌めたような二階建ての建物だった。扉の蝶番のとなりに「有限会社イズミ井戸掘り事業社」という看板がかかっていた。扉の間から顔だけ事務所のなかにいれると、中年の男がスチール机にコンビニ弁当をおいて、箸で乱暴に口のなかにごはんをかき込んでいた。
「アルバイト希望の木梨くん?」
 男は上目遣いで泰造を睨むように見た。額に何本も皺ができてそこから汗が吹き出ていた。頭の頂点から額にかけて、数えることができるほどしか髪がない。あのう、と泰造が言うと男はまたぎょろりと泰造の顔を見た。額の皺から出た汗が弁当箱のから揚げに二、三滴落ちた。
「掘りにきたんだろう」
男は泰造の表情を無視するように言うと、から揚げ弁当をぽんとスチール机の上に投げた。箸が弁当箱の縁ではずんで、一本が床に落ちた。
「試してみようか」
「はっ?」
「こっちきな」
 男はベージュの作業着の太腿のところを掌でぽんと叩いて立ち上がった。
一階の壁に立てかけてある鼠色のロッカーからその男と同じベージュの作業着の上下を取り出し、泰造に投げてよこした。
男は先頭に立って事務所の裏手に回った。裏手は空き地になっていて、その向こうの道路と朽ち果てかけた金網の柵で区切られていた。
土地は夏の直射日光を充分に吸収して力強く見えた。空き地のちょうど真ん中に、鉄パイプが左右に組まれた処刑台のようなものが鎮座していた。その中央に土管が大きく口を開けている。
「さあ、やってみな」
「何をやるんですか?」
「木梨くん、君、掘りにきたんだろう。だから、木梨くんがどれほどの者か見たいんだよ。俺はね」
「経験不問だって書いてあったから…」
「木梨くん…」
 男は右手の掌で皺がよった額をぽんぽんと叩いて、それをほとんど髪がない頭に持っていった。そして、ベージュの作業着の袖がよじれるほど深く両腕を組んだ。
「木梨くん、わかっていないね。この世の中に、今時井戸を掘った経験があるやつなんてめったにいないのよ。特に木梨くんみたいな青年諸君には皆無だろう。だからね…」
 男は、黒土の中央にある井戸掘り機に両腕を組みながら近付き腕をとくと、鉄パイプを右手で握り、愛撫するように上下させた。
「試すわけ。どれだけ井戸掘り機と相性がよいか。どうすればいいかっていう工夫ね。それを俺は見たいわけよ」
 泰造は下を向いて土を見た。
真上からの夏の日差しを受けて黒土は輝いていた。泰造は顔を上げて井戸掘り機を見た。男は鉄パイプから横に直角にでている把手のようなものを握り、回そうとしていた。
「イズミさん、僕ダメなんでしょうか?」
 男は振り向き、「イズミさん?俺はそんな名前じゃない」
と言うと井戸掘り機に向き直った。
「看板にイズミ井戸掘り事業社って書いてあったから…」
「会社の名前は前の社長がつけたんだ。イズミが井戸から出ますよってことだったのよ。単純なはなし。俺は吉崎と言います。今の社長」
「はい」
 泰造は吉崎の動きを見ていた。何をしてよいかわからなかったので、ただ、直射日光をうけて佇んでいた。
「やってみるかい」
 吉崎が言うと泰造は返事もせず井戸掘り機に向かっていた。
「ぼくは年はまだ…」
「いいんだよ。みりゃわかる。まだ高校生、坊やだろ。十八歳以上といわないと最近役所がうるさくてね。危ない作業じゃないかとか、なんだかんだと、いちゃもんをつけてきやがる。本当は何歳でもいいんだ。ひと目見ればわかるよ」
 泰造は黙って聴いていた。井戸掘り機の呟くように作動する音が、空き地のなかで静かにいつまでも響いていた。

 泰造は翌日から「有限会社イズミ井戸掘り事業社」に出勤し、現場を割り当てられた。ペアを組むのは玉川さんという二十歳を少し過ぎたくらいの男の人だった。
玉川さんは主に東京から北方面のお客さんを担当していて事務所から東北自動車道に乗って現場に行くことが多かった。
玉川さんが軽トラックを運転し、泰造が助手席に座った。玉川さんは無口で余計なことはしゃべらない。なまりから多分東北の人ではないかと思った。現場に着くと、玉川さんが先頭にたち、お客さんの家の呼び鈴を押して挨拶をする。そして、その日の作業工程をお客さんに説明する。
でも泰造にその日の作業の役割を話したり、指示したりすることはない。作業の途中で、ちょっとこれ押さえてだとか、ここを持ってて、とか、やんわりと幾分恥ずかしそうに言うだけだった。
井戸掘りのやり方を教えてくれないので、泰造は三回目の作業の日に玉川さんに訊いてみた。
吉崎社長は、慣れるまで作業の順序をよく見ること。お客さんが希望することを注意深くきいたり、全体の流れをよく観察するようにと玉川さんに指示したらしい。
玉川さんは泰造が質問するまでなにも言わない。悪気はなく、いじめられているわけではないのをわかっていたけれど、玉川さんの、そういう口が重いところとか、少し気が回らないところが少し苦手だった。でも総合的に余計なことはしゃべらない玉川さんと一緒にいると、だんだん慣れてきて、井戸にだけひたすら集中して掘削する彼に安心感のようなものを覚えていった。
作業全体に注意を払っていると、少しずつわかってくることがあった。まず、井戸から出てくる水は、冬は暖かく、夏は冷たいこと。お客さんは、風呂、洗濯、トイレなどの生活用水全般をはじめとして、洗車や植木の水撒きなどに多くの用途を希望していること。それから、関東地方は、比較的地下水脈が浅いので地下水が出やすいということ。そのことは玉川さんが教えてくれた。
ある時、休憩時間に玉川さんと並んで座っていると、煙草を吸いながら彼は泰造に言った。それは夏休みも終わりに近付き、泰造がイズミ井戸掘り事業社でアルバイトを始めて一ヶ月半ほどたったころだった。
「あ、あのね…」と玉川さんは、どもりながら言った。
何か思いを込めて伝えたいことがある時や、重要なことを言う時はいつも玉川さんはどもった。
「よ、ようするに、まだ地下水がでない。何度やっても……」
 それは泰造にとって初めてのことだった。昨日同じお客さんの同じ庭を掘り進んでも地下水はでなかった。泰造は二週間前に玉川さんの本格的な助手になり掘削作業を補助していた。
玉川さんの顔は真赤だった。
「今日でなかったら、ど、どうなるかわかる?」
「どうなるって、どういう意味ですか?」
 玉川さんは広い庭に密集する雑木林のような樹木の隙間から空を見た。枝の間から夏の空が覗き、厚ぼったい雲が勢いよく風に流されていた。
「な、なんかいやっても水がでないと、お客さんから、お、お金がもらえないの」
 泰造は、そうかもしれませんね、と少しつっけんどんに冷たく答えた。
その突き放すような口調で玉川さんは身体をピクッとさせ、今度は坐っていた芝生に顔を向け、右手の人差指と親指で芝生の一本一本を摘まんで抜いた。玉川さんと泰造の間の空気が固まり、時間が止まったような気がした。
周囲の音が何も聞こえず、耳の奥に針を刺したような痛みを感じた。
「お、お客さんが料金を払わないのは道理だよね。で、でも、そうなると作業をした人もその日のお金は会社から払われないの……」
 泰造は、今度は、そうかもしれないですね、とは言うことはできなかった。
玉川さんが泰造の隣で震えていたからだ。
「ぼくと君の日当はでないわけ」
泰造は玉川さんの顔をちらりと見たが、すぐに正面に向き、庭の向こうの立派な邸宅を見つめた。玉川さんが固定給でないことがわかった。
玉川さんの腕が泰造の腕に時々触れ、動揺が烈しくなっているのがわかる。
 一般的な家の何倍もある庭の隅に小型掘削機が休息している。
あと数分もすればまた、本来の音をたててボーリングを再開する。深く深く、数十メートル掘り進める。
そこで、水脈に出会う。出会いの場面が泰造の頭のなかを駆け巡った。
眠っている水脈が泰造を震わす。
玉川さんの心配や不安や、あるいは怒りのようなものも泰造には無縁に思えた。隣で震える玉川さんには申し訳ないけれど、水脈にぶち当たらなくても、それで、アルバイト料がもらえなくても、泰造にはどうでもよかった。井戸掘りに巡り合えたことが何にも代えがたかったからだ。
 玉川さんは社長の吉崎さんのことを、ぼそぼそと、どもりながら話し始めた。
とっくに作業を再開しなければならない時間を過ぎていたけれど、玉川さんは、太陽の光を眩しそうに目を細めながら頬を一層赤らめて話し続けた。
「お、おれさ、最近、結講当たりが悪くなってるんだ。運が逃げているのかな」玉川さんは少し俯いた。
「できちゃってさ。お、おれ彼女と一緒になるんだ。だから、当たりが悪いと、多分、生活きつくなると思う。日当も安いし」
 風が強くなってきた。
白い雲が今までより早く二人の頭の上を通りすぎていった。
泰造は苦痛になってきた。
話の進展で玉川さんの苦痛がどんどん泰造の気持ちに入り込み、身動きがとれなくなっていくような気がした。
玉川さんは井戸を掘ることで自分の生活や大袈裟に言えば人生設計を土のなかに求めている。
泰造は、直経が小さいケーシングを地面に差し込み、潜り込ませ、掘削をすることにいずれ満足できなくなるだろうと思った。
子供だった頃、郊外でところどころで見かけた間口が広い井戸を泰造は思い浮かべた。円形の石壁の縁から身を乗り出して下を覗くと、満々とした地下水が濃厚な表面を見せながら泰造の顔をうつしている。コールタールのように滑りながら、自信に満ちている。
井戸はいつでも人知れず、密やかにエネルギーを溜めこんでいる。
 泰造は、庭に置かれた小型掘削機と邸宅と玉川さんの顔を順番に見た。玉川さんは、崩れるような、ひしゃげた表情でいつまでも膝を抱えて坐り続け、作業を再開しようとはしなかった。

 一九九四年の夏はあっという間に過ぎ、短い秋はほとんど存在感を示さないまま年の瀬を迎えようとしていた。
 泰造は夏休みに始めた井戸掘りのアルバイトを続けていた。
アルバイトの域を超え、彼にとってはかけがえのないものになっていた。平日の半分は朝、家から学校には向かわず、「有限会社イズミ井戸掘り事業社」に出勤していた。
 十二月の夕暮れ、写真館の入り口の隣にある目立たない自宅用の扉を押して入り、とんとんと弾みをつけ階段をのぼり、自分の部屋に行こうとすると、背後から声がした。
「兄さん、とうさんが呼んでるよ」
 次男の蓮二が顔を見せずに自分の部屋から声をかけた。泰造が振り返ると蓮二と三男の孝司が襖から顔をだしていた。孝司は数秒泰造の顔を見つめた後、何も言わずに顔をひっこめた。
 予感はしていた。
もうそろそろかな、と思っていた。
二階の一番奥の両親の寝室の襖を開けると、部屋の隅に父の久雄があぐらをかいて煙草を吸っていた。
まあ、ここに坐れ、というように顎を縦に一回おろした。泰造は坐り、久雄の背後の窓の外を見た。
「電話があったぞ」
てっきり高校の担任からだと思った。泰造は、覚悟を決めていたように久雄の目を正面から見た。
「大学はどうすんだ」
久雄は、アルミの灰皿にとんとんと煙草の灰を落とした。
「今の会社に残るなんてそんなことは許されないぞ。お前は写真屋の長男だ。大学に行かないのなら、おれの後を継ぐのが筋だろう」
久雄は灰皿の底に煙草をねじ込みながら火を消した。
なんのことやら泰造はわからなかった。
ぼんやりと暮れた外の風景のなかで鈍く光る隣家の瓦を見ていた。
「穴ぐらを掘るのがそんなにおもしろいのか」
泰造は、はっとして顔をあげた。
「穴ぐらではありません。井戸をちゃんと掘っています」
「同じことだろう。掘ることには変わりはない。さっきな、なんとかいう井戸掘りの会社から電話があった。それでな…」
久雄は上体を伸ばし、遠くにあったハイライトの箱を掴み、また一本取り出して火をつけた。
「泰造を、ゆくゆくはうちの会社の後とりにしたいので、高校を卒業したら、うちの会社に入社して欲しいという電話だった。今いる社員はろくなのがいなくて、任せられないと言っていた」
久雄は顔をしかめて、部屋の天井にむけて煙をはいた。
「だいたいがだな。何を考えているんだ、おまえは。学校にろくすっぽ行かないで、そこらじゅうに穴ばっかり掘りやがって。大学はどうするんだ」
「どうするって…おれ、もともと大学に行く気ないし…」
「大学出なけりゃ、おまえ、今の世の中どうにもならんぞ」
「そんなことないと思うよ。そんな時代じゃないし」
なんだと、という感情が久雄の顔全面を覆った。
「大学行かないなら、俺のあとを継いで写真屋になれ。井戸掘り職人なんかにはならせないからな」
泰造は吉崎社長の顔を思い浮かべていた。額に何本も皺を寄せていた。冬のさなかでも薄い頭からその額の皺にかけて汗が吹き出ていた。そして、吉崎社長の顔の後ろに息を呑んでいる玉川さんの顔が現れた。玉川さんの顔は奇妙にひしゃげていた。
「おれがやっていることは、役に立っています」
泰造はぽつりと言った。
玉川さんの顔が脳裡からなかなか消えない。
「写真屋の方が世の中の役に立っている」
久雄は両腕を組んだ。
泰造は何も言うことがなかったので、黙って下を向いていた。
柱時計の音だけが二人の間に割って入り、うるさく秒数を刻んでいた。

 年が明けてもペアの組み替えはなく泰造は玉川さんとずっと一緒だった。
 父の久雄に諭されても、泰造は井戸掘りのアルバイトをやめなかった。
やめないどころか井戸掘りの作業に拍車がかかり、情熱を込め、高校へはほとんど行かず、生活そのものが井戸掘りになった。
家にいづらくなると、時々玉川さんのアパートに泊った。
品川の戸越銀座の商店街から路地に入り、ぐりぐりと十字路や三叉路を曲がった奥にあった。
古びた二階建ての木造アパートの一階の一番奥の部屋だった。泰造の実家の写真館から徒歩でも近かった。気がむしゃくしゃして、とても家に帰る気分にならない時は、ふらりと玉川さんのアパートに転がり込んだ。
アパートは板金工場と泌尿器科病院に挟まれていた。
一階の通路を歩いてゆくと、いつも湿った空気が澱んでいた。空気は動かず陽も差し込まない。
 冬の寒さも緩み始め、アルバイトがなかった日、泰造は玉川さんの部屋の前に立っていた。
ノックをしてもなかから応答がないのでドアを開けると、正面に若い女性が両足を投げ出して壁に背をもたせかけていた。
泰造は二度ほどこの女性に会ったことがあった。
女性の腹は小山のようにぽっこり膨らんでいた。泰造がペコンと頭を下げると女性は柔らかく微笑んだ。
 玉川さんの彼女だった。
 彼女のままなのか。籍をいれて夫婦になったのか。内縁の関係というものなのか。泰造は知らない。玉川さんがお腹を大きくした女の人は紀子さんといった。
 泰造が時々泊まる部屋に紀子さんはいないことが多かった。でもしだいに泰造が玉川さんの古いアパートを訪ね、紀子さんがいると、六畳一間の部屋で川の字になって寝るようになった。
玉川さんは、紀子さんのお腹が大きくなり子供が生まれた後の生活をすごく心配し、不安に感じていたけれど、紀子さんからは、そういう雰囲気は全然感じられなかった。
そもそも紀子さんは、あんなにお腹が大きくなっているのに、なぜ玉川さんと一諸に暮らさないのか。なんとなく中途半端なものに思えてならなかった。
でも泰造は、そういうことを玉川さんに訊かなかったし、玉川さんも泰造にはそのあたりのことは一切話すことはなかった。
 その日、泰造は、紀子さんの少しほんわりした笑顔をみて、狭い三和土に靴を脱いであがった時、がくんと膝が折れるような焦燥感を感じた。
もういいや。もうこれから、余計な気を遣ってゆくのはやめよう。
泰造はそう思った。
たぶん紀子さんのお腹の膨らみがそのように思わせたんだと思う。でも目の前のスイカのようなお腹の紀子さんを見ていると、なんだか妙な気分だった。
人間のお腹はこんなに大きくなるのか。この皮膚一枚の下に子供が隠れているなんてとても想像できなかった。こんなに大きくしてしまったのは自分のせいではないかと、奇妙な錯覚を泰造は覚えた。
「坐ったら」
泰造はぼんやり立っていた。
 紀子さんは、ヨッコイショ、という感じで立ちあがり、部屋の隅にあった座布団を鷹揚そうに引っ張ってきた。六畳一間の部屋は、あまり会ったことがない人と一緒にいると、とても狭く感じられた。それに、今ここに赤ちゃんも含めた三人がいる。
「何か食べたいものある?」
紀子さんはお腹を両手の掌で円をかくようにさすりながら言った。紀子さんの声は女の人にしては低く、どろんとしていた。少し掠れ気味で、声を大きく出せば、明瞭な低音が出るのに、聴いていると、むずむずする声だった。
「別に、特別ありません」泰造は、もっそりと答えた。
「もうすぐ帰ってくるからさ、今夜は湯豆腐にしよう。嫌いじゃないでしょ」
 ゆどうふ。
泰造は、小さく呟いた。湯豆腐というものを彼は食べたことがなかった。沸謄した湯の中で、豆腐がぷかぷか浮いている画面が頭に浮かんだ。
「食べられるだろう」
紀子さんは少し明るく、低音を上げ気味に言った。
泰造の顔を覗きこみ、前髪がほつれ、ばさっと額にかかった。何かの光明を見出したように紀子さんの瞳は輝いた。先ほどの、どろりとした声の紀子さんとは別人だった。
泰造は曖昧に肯いた。
 紀子さんは、妊婦服ではない、ぴったり身体に張り付く黒いウールのセーターの脇をごそごそやって、手品のように携帯電話を取り出した。そして泰造が知らない魚の名前を言って、一方的に電話をきった。
「豆腐だけはあるんだけどね」
紀子さんは、ひとりごとのように言って立ち上がろうとした。
右手を畳について、重心を移し、それから片膝をたてて、ヨイショと低い声を出したが、うまく立ちあがれなくてお尻をぺたんとついてしまった。
泰造はその一連の動作をぼんやりと見ていた。
 紀子さんは下から泰造の顔をちらりと見やった。その時泰造は彼女の身体を支えようとした。支えようとしたけれど、身体のどこの部分を、どんなふうに支えればよいかわからない。
彼女の腕をやんわりと掴んだが、腕のあたりの空気を掴んでいるような気がした。
彼女の身体が、あまりにもそのままなので、もう一方の手をぶらぶらさせ、あてがう場所を探そうとした。そうしているうちに、紀子さんは、自分の力で立ち上がった。
 六畳の部屋の端に入り口のドアに肩を寄せるように流し台とガス台がついていた。
ガス台の足元に小さな片開きの冷蔵庫が置かれていた。紀子さんは流し台までいくと、また、緩慢な動きでしゃがみこみ、冷蔵庫のドアを開け、透明な皿に置かれた四角い豆腐を取り出した。
 玉川さんが帰ってきたのはそれから一時間ほどしてからだった。
六畳の部屋に泰造と紀子さんと紀子さんの赤ちゃんと豆腐が玉川さんの帰りを待っていた。
玉川さんは、お酒を飲んでいないようだったけれど、頬が夕焼けみたいに赤かった。彼の頬は夏の太陽の陽射しも、冬の痺れるような寒さも、何もかも無関係に一年中赤かった。
泰造はその日休みだったから誰とペアを組んだのかと思ったけれど、紀子さんの鍋料理の関心に押されて何も質問できなかった。
 鈍い金色の円形の鍋の中央に、もっと小さい丸い囲いに、出し汁のような、たれのような栗毛色の液体が入っていた。
その周囲に四角に切られた木綿豆腐が浮かんだり沈んだりしていた。その間を縫いながら、白身の魚が流れるプールに身を任せるように動いていた。上から見ると公園の噴水みたいに見えた。
鍋からは湯気がほんのりとたっていた。これが湯豆腐というのか。でも、こんな鍋よく持っていたなと泰造は思った。
「だから、あれほど言ったでしょ」
紀子さんは、丸いお腹を突き出しながら、玉川さんにかみついた。
「だっ、だって、いっ、いつも売ってる場所に、おっ、おいてなかったから……」
玉川さんは、緊張が極限に達していた。いつもは会話の最初だけ、どもるのが、そこかしこで躓き、いつもよりどもる回数が多かった。
「よく探したの。同じ種類の野菜が、いつも同じ決められた場所にあるとは限らないのよ」
「たっ、たぶん、どっ、どこにもなかったと、おっ、おもうけど…」
「なによ、そのたぶんって。わたしが、春菊を好きなの、知っているでしょう。湯豆腐には春菊が必要なのよ。カレーライスに福神漬けが欠かせないようにね」
「ぼっ、ぼくは、福神漬けがなくても、べっ、べつに、カレーライスは食べられます」
「そんなこと言ってるわけじゃないのよ、たとえなのよ。たとえばって言うことじゃない」
 泰造は春菊の話を目を丸くして聴いていた。
「別の野菜は探さなかったの。春菊がなかったら、湯豆腐にはほかにどんな野菜があうかとか、気を回して、顔も回して、スーパーの店内眺め回すのよ。バカ」
 玉川さんは頬だけではなく、額とか首の後ろとか、皮膚が見える場所が赤くなっていた。わずかに唇が震えている。
「……紀ちゃんは、しゅっ、しゅんぎく、ひっ、ひとすじだから……」
「なに?」
 玉川さんの声は小さく、くぐもっていて、鍋の向かいにいる紀子さんには、はっきり聴きとれなかった。隣に座る泰造には、一筋という言葉に、わずかに力が籠っているのがわかった。紀子さんの名前だけは、どもらなかった。
「なんだか、もう、ごたごたごたごた、言っちゃってさ。わたしはね、兎に角、湯豆腐が命なの。これを食べないと生きている気がしないの。四日に一度は食べたいの。わかる。そのために、大きなお腹して、パートして、この鍋買ったんじゃない」
 紀子さんは、玉川さんを弓で矢を射るような目で睨みつけ、ふんと口に出し、唇をすぼめ、くるりと身体を回転させた。
両脚を広げ、両手を後ろ手にし、身体を支えた。紀子さんの睨みつける、おどろおどろしい瞳をどこかで見たことがあると泰造は思った。
どこだっただろう。
単に怒っているのではなく、決定的に相手を踏み潰すような色。井戸のなかに突き落とし、地球の底の中心あたりに閉じ込めてしまおうとする爬虫類のような冷徹な瞳の力。
 紀子さんが顔を向けた窓の先には、もうどっぷりと闇のカーテンがおりていた。玉川さんの気持ちとは無関係に、澄みきった乾いた空気が、軒先と空の間にたゆたえていた。このままいけば、今夜は星がいくつも見ることができそうだと泰造は思った。
まったくもう。まったくもう。
紀子さんは窓の外の暗闇に向かい、何十回も、叫ぶように繰り返した。
鍋のなかのタラは元気をなくし、ひしゃげながら湯の底に沈んでいた。
泰造は横目で玉川さんの様子を窺った。当たりが悪く、何回掘削しても地下水脈にぶち当たらない時と同じ顔をしていた。唇の震えはどんどん烈しくなり、皮膚はアレルギーのように赤く腫れあがっていた。
 最近水脈に当たらず、日当がもらえない日が多くなっているのが事態を深刻にさせているのだろうか。掘れば、掘るほど、玉川さんの哀しみや焦りや不安や、いろいろなことをまるめ込んだ不幸の風呂敷が、どんどん裾野を広げ彼に襲いかかってくるような気がした。
そして最後は堪えきれなくなり、自分が掘った井戸に、どぶんと沈んでしまうように泰造には思えた。
 ひとしきり紀子さんは、騒いで、ひとりで湯豆腐とタラをほとんど食べつくし、少し気がすんだようでさっさと布団をひいて寝てしまった。
泰造と玉川さんは、うん、とか、はい、というだけで、ほとんど言葉らしいものを交わさず、布団をひいて寝ることにした。
布団は二組しかないので、泰造は玉川さんと同じ布団で寝ることにした。玉川さんはなかなか寝付かれないようで、寝返りを何度もうっていた。

 玉川さんは、独自の掘削作業の手順を持っていた。
 その日玉川さんは、地面に生える苔のような雑草を指で摘まんで抜いていた。
いつもより丁寧に、時間をかけ、考古学者のように地道に雑草を抜いていた。丈が一センチほどのものも見逃さなかった。黒土が視界全面に広がると、近くの水道の蛇口につけたホースをひいてきて水を撒いた。
三月に入ったばかりの空気は水の飛沫を喜んでいるような気がした。柔らかくなり始めた空気に冷たい風が邪魔をするように突然吹き込む。
玉川さんはホースの先を潰して水を黒土全面に優しく平等に撒いた。彼の身体が回転すると、その動きに少し遅れながら、飛沫の帯が追いかけてきた。太陽の光に照らされて、こまかく飛び散るしぶきは七色の虹をつくった。泰造は、ゆったりした気分で膝をかかえて敷地に座り、その光景を見ていた。
玉川さんはいつも、掘削作業の準備を単独ですることに拘った。地ならしをするように、少し重心を落とし、そこらじゅうを歩き回った。そして、よっ、よし、と謙虚に弱々しく言い、泰造に目で合図をした。
 その日の玉川さんの単独の準備作業は、やはり少し奇妙に思えるほど丁寧で、しつこく、病的であったと思う。気持ちがそこになく、自分のやっていることが、よくわからないような雰囲気だった。作業に集中しているというよりも、思いにふけりながら身体を単純に動かしている。水撒きや地ならしで気を紛らわせている。自分を慰めている。そういう感じに泰造には見えた。でもそれも後になって泰造が思い返して気が付いたことだ。

泰造は週の二日ほどしか高校に行かなかった。
父の久雄は何も言わなくなっていた。母や祖父母には俺には息子は三人いるんだと言っていたらしい。弟の蓮二がそっと泰造に教えてくれた。授業日数も足りないし、定期試験も受けていないから、卒業できるとは思っていなかったし、したいとも思っていなかった。 
井戸掘りのアルバイトがない時には高校にぶらりと行ったが、それは行くところがなかったからで、特別、学校に行きたかったわけではない。そんな具合だったけれど、久雄は世間体があったのか、記念撮影で仕事をもらっている中学校の教頭あたりの紹介をうけ、ツテを頼って教育委員会に辿りつき、そこからどのような経路かわからないけれど、うまく話をつけ、泰造が卒業できる手筈をしたらしい。
卒業式には出席しなかったが、卒業証書が翌日送られてきて、どうやら卒業ということになったのを泰造は知った。

 三男の孝司が、泰造の井戸掘りを見たいと言い出したのは、孝司が春休みに入ってすぐの三月の最終週だった。
小学校五年生の孝司は、兄の泰造が家を空けていることに静かな好奇心を持っていた。祖父の顔色をいつも窺っている父の久雄が、しだいに泰造の行動に何も言わなくなったことや、井戸という木梨家には縁遠いことに強い関心を持っていた。
 朝、孝司は早起きをして暗いうちから泰造と出かける準備をしていた。上の兄の中学一年の蓮二もついていくことになった。孝司と同室の蓮二は、引きずられるように弟と一緒に泰造についていった。
 玉川さんはふたりの弟を見て、はにかむように、にやっとひとつ笑った。
「有限会社イズミ井戸掘り事業社」から、その日の現場までいくのに、いつものふたり乗りの軽トラックでは移動は無理だった。
埼玉県の西部まで軽トラックを玉川さんが運転し、残りの三人は池袋から私鉄を乗り継いでいくことにした。
遠出することがない蓮二と孝司は電車の揺れと、窓の外の風景が飛んでいくスピードに目をぱちくりさせていた。そして孝司は、いくつかの疑問を言葉にしたいような表情をして、泰造の顔を何度も見上げた。
窓の外を見ながら泰造は蓮二に湯豆腐という鍋料理を知ってるかと訊いた。蓮二はかぶりを振った。うち鍋なんかやらないじゃん、とぽつりと言った。すき焼きも、何とか鍋も、何もかも三人は食べたことがないなと、ぼんやりと泰造は電車に揺られながら思った。
 現場に着くと、すでに玉川さんが、ひと通りの準備作業を終え、掘削作業を始めようとしていた。ふたりの弟は、近くのでこぼこした荒れ地に坐り、泰造の様子を見ていた。
 今日の現場は個人の発注ではなく、企業からの依頼で、少し大がかりな作業だった。産業用水の可能性を探ることも兼ねた、珍しくいつもと毛色の変わった掘削作業だった。その作業を小学五年と中学一年の弟がポカリスエットを時々飲みながら兄の泰造の様子を見ていた。
 玉川さんはいつもより格別真剣な表情をしていた。そして一段と無口だった。
 荒地の縁は切りたった崖になっていた。黒土にところどころ赤茶けた土が蛇模様にうねっていた。その現場の上で玉川さんの両頬は、その色に感応するように赤く染まっていた。
 コトコトと掘削機の音が絶えることなく続いている。蓮二と孝司は並んで坐り、時々小声で話しながら、じっと掘削作業を見ていた。蓮二は自分からは話しかけず、おもに孝司が蓮二の顔色を見て話しかけていた。
 樹木が密生する方角から鳥の鳴き声が聴こえてきた。その声は、小高い山の斜面に反響し、四人のところにやってきた。今四人に聴こえる音は、鳥の声と掘削機のタップをうつようなリズムだけだ。
午前中の時間が、あっと言う間にすぎ、正午が近付こうとしていた。泰造はふたりの弟の様子を見て、山裾の食堂までいくことを玉川さんに話し、掘削機から離れた。
玉川さんは、いつも弁当を持ってきていた。自分でつくるのか。紀子さんが一緒に暮らし始め、つくるようになったのか。泰造は訊かなかった。もう少し掘ってみるという玉川さんの言葉に甘え、泰造は弟ふたりをつれ、斜面に沿った山道を下り始めた。コトコトという音がしだいに遠くなってゆく。孝司が、水が全然でないねと泰造を見上げて言った。泰造は答えず斜面を下った、
 急だった斜面の道が平らになりかけた時、掘削機の音が消えた。
その時、獣がほえるような声が空に向かって上がった。その声は何度も花火のように地面から打ち上げられた。絶叫に似た、半分掠れかけた声は、止むことを知らずに吠え続けた。三人は足を止めて振り返った。その声は獣ではなく、間違いなく人間の声で、掘削機がある場所から聴こえていた。何度も続く狂しそうな咆哮は、喉がかれて焼けてしまいそうな声の響きを撒き散らしていた。
泰造と孝司は両手で耳を押さえた。
蓮二は呆気にとられ、声がする方をぼんやりと見ていた。声が止みそうになると、また盛り返すように大きくなり、その波長はくり返し押し寄せた。
三人は、その声が止むまで、歩き始めることができなかった。

 ふたりの弟が掘削現場にきてから一週間ほどすぎた四月の初め、玉川さんは出奔した。
彼は「有限会社イズム井戸掘り事業社」に二日間連続して出勤しなかった。高校をかたちだけ卒業し、毎日会社にきていた泰造は、玉川さんの様子を見てくるように吉崎社長に言われ、戸越銀座から、くねくね路地を入ったところにある古い木造アパートに向かった。
 部屋のドアのノブを握ると、力なくドアが開いた。鍵がかかっていないな、と思う間もなく目の前に部屋の光景が広がった。
座卓の上にあの鈍い金色の鍋が置かれていた。鍋には鮮やかな緑色の春菊が泳いでいた。食べてもらう主人がどこにいようと、無関係に春菊は、鍋のなかでくつろいでいるように見えた。豆腐とタラはなく、鍋は冷えきっていた。
 泰造は狭い部屋を見回した。
以前来た時と何も変わっていないように思えた。とは言っても、もともと特別目立つ家具や電化製品などがあるわけではない。小さな冷蔵庫も流し台の下で、おとなしく主人の帰宅を待つ子犬のようにつつましかった。
泰造は押入れの襖をあけた。布団が二組とタオルが重なって置かれていた。何も変わっていない。鈍い黄金色の鍋のなかでくつろいでいる春菊以外は。
 玉川さんも紀子さんも、空に煙が吸い込まれるように消えてしまった。
春菊だけが、何かの目印のように、鍋のなかで、のびのびとひしゃげることなく泳いでいた。

 泰造は、玉川さんが出奔してから「有限会社イズミ井戸掘り事業社」に出勤する気持ちがおきなかった。
井戸掘りへの情熱が失せたわけではない。むしろ、玉川さんの仕事ぶりを思いながら井戸掘りが持つ深淵な意味について、ひとり籠りながら思いを巡らせ、自分の身体と心を井戸掘りにフィットさせようとしていた。
 玉川さんは消えた。
泰造は消えた理由やそれから先のことを考えないようにしていた。玉川さんと井戸掘りの距離感を考えるのが苦痛だったからだ。
 泰造は朝、自宅を出て電車に乗り、東京の北部に向かったが、どうしても会社の最寄り駅まで辿りつけない。
秋葉原で降り、人通りの多い道路を選んで歩いていた。人ごみをあてもなく歩き、信号をわたり、ビルの間の空を見あげ、立ち止まりウインドウのなかを眺めた。電器製品のチェーン店のビルに入り、エスカレーターで二階に上がろうとした時、その光景は、用意されていたように泰造の目に飛び込んできた。泰造は上りのエスカレーターを逆走し、一気に走り降りた。
 一階の売り場のテレビの画面には、ヘルメットを被った隊員が、埃が舞うなかで道路を整備していた。ある隊員はでこぼこの道路の表面をドリルで砕き、ある隊員は作業車に乗りアスファルトを平らにならしていた。そういう場面が繰り返し画面に映し出された。
売り場のテレビは音声が出なかったので画面に映る文字をじっと目で追った。
 NHKの番組なのかコマーシャルが入らない。
泰造は次の瞬間、目を見張った。あの小型掘削機を幾回りも大型にし、ボーリングマシンの骨組も太く強固にしたものが、何人もの隊員に取り囲まれて穴を掘り進んでいた。
その場面は、ほんの四、五秒だった。泰造は雷に打たれたようにその場に立ちすくんだ。店員が傍で何か言っていたが、テレビの音声と同様、泰造の耳には届かなかい。番組が終了を迎え、テロップが流れ、番組のタイトルが浮かびあがった。
『PKOと今後の課題』そして、その下に小さな文字で、『国際連合平和維持活動の記録』と記述されていた。
PKOって何だろう。テレビも新聞も見ない泰造には、到底見当がつかなかった。
画面の最後の協力テロップにアフリカのモザンビークという国の名前があった。アフリカで、どこかの部隊の人間たちが、その国が困っていることに協力している。そのひとつの援助に明確に井戸掘りの作業が位置付けられている。それらのことだけはわかった。
 PKOとは何かを調べ、翌日、家から一番近い自衛隊の募集案内所の椅子に泰造は座っていた。
担当者が一時間自衛隊について説明した。
泰造は、ただ、井戸掘りをする通過点としてしか考えていなかったので、自衛隊の入隊試験についてだけ集中して聴き、あとは聞き流していた。泰造が案内所の担当官に尋ねたのは、PKOに参加するにはどうすればいいかということだった。
担当官は言い淀んだ。それは外務省の範疇のことだとか、国連がどうしただとか、ぐるぐると説明は回り、行き着くところは見えず、結局明確な回答はなかった。
泰造はアフリカとかアジアの国で、掘削機で井戸を掘るのは自衛隊しかないと勝手に確信をもった。カラカラに乾いた大地で、五右衛門風呂の間口のような井戸を掘り、暗く、どんよりした井戸の底を覗く。それは、小型の機械でボーリングするのとは比較にならない深淵さがあるはずだ。
 自衛隊。
その先のPKO。

 泰造は父、久雄に直接自衛隊入隊の件を話した。
もうすでに見捨てられてから半年以上たつので簡単に了解されるか、無視され、どうにでもなれという態度をとられるか、いずれかであると思っていた。
しかし様子は違った。俺は苦労してツテを見つけてお前を卒業させた。この親の苦労をどう考えているのか。どのようなかたちで報いようとするのか。久雄は、泰造を前に朗々と何かを読み上げるように長時間しゃべった。
「ありがたいと思っています。こんな自分を卒業させていただいて」
泰造は、久雄に目を伏せながら言った。正直な気持ちだった。
「自衛隊だぞ。それもおまえ、PKOなんて、危ない国に行って、何かあったらどうするんだ」
泰造は黙っていた。
「それに、その部隊に選ばれるかどうか、わかりもしないのに、選ばれなかったらどうする」
「希望します」
久雄は黙り込んだ。しかし、納得したわけではないようだった。
 後に、自衛官候補生として合格になり、二等陸士から一等陸士になった時、駐屯地にひとりで面会にきた蓮二が、祖父の作之助が入隊に関して、久雄を説き伏せたという話を聴いた。
でも実際は、説き伏せたのではなく、久雄が作之助に逆らえなかったからだろうと泰造は思った。父、久雄は祖父の作之助に後ろめたい感情をもっているように思えた。父親の威厳や圧力に抗しえず、子が親に委縮するというのではなく、特別な何かがあるのではないかとずっと泰造は思っていた。

 世間が国際貢献の話題で騒がしくなった時、日本の国際貢献の一貫として泰造に役割が与えられた。陸上自衛隊の施設班に所属していた泰造は、本人の希望通り、国際連合維持活動の後方支援隊員として派遣されることになったのだ。
 二〇〇〇年。ゴラン高原。
世間の空気は何某かの回答を表面的でよいから見せてほしいというムードに満ちていた。
ただ泰造は、そういうところから離れたところにいた。
救難、輸送、土木工事などを紛争地域で任務にあたることを希望する隊員など、ほとんどいないに等しい。
自分が所属する駐屯地部隊に白羽の矢がたち、あわてふためきながらもマスコミがくれば、紛争地での貢献をたんたんと答えなければならないのが実情だった。
ましてや、派遣される部隊に異動を申請するなど、食いはぐれのない職業を選んだのに、海外の聴いたこともない国の抗争に巻き込まれ、命果てることなどもってのほかなのだ。
人々は餓え、飲み水が不足し、数えきれない人々が死んでいく。
泰造は、日本から運ばれた大型の地下水掘削機で、身体全体を使いボーリングをした。それは「有限会社イズミ井戸掘り事業社」に比較にならない大型機械で、多数の隊員が参加し、大規模に行われた。
 餓えて食料どころか、飲料水も呑むことができない人たちが、乾いた土の上に座っている。一時的な飲料運搬では、そこで生活していく人たちは長期的には干し上がってしまう。
本格的な飲料インフラを整備するには、人も金も時間も決定的に不足していた。
井戸をひたすら掘るしかない。
泰造は先頭にたち、大型ボーリングであけた穴を広く、深く掘り進めた。
昔ながらの円形で間口が大きな井戸は、泰造の気持ちをより地下水脈に近付かせ、身も心も井戸のなかに潜り込ませた。
UNのブルーヘルメットを被る姿は、他の自衛隊員と同じであっても、心のなかはまったく違っていた。
満たされない気持ちを潤すように、あの電気街のテレビ画面の映像を見た瞬間に頭に走った電光を追い求めながら泰造は井戸を掘り続けた。
 
六ヶ月がたった。乾いた風が吹き、白い砂が舞い、地面が干し上がっていた。冬になれば逆に雪がふり異常な寒さに見舞われ、井戸も凍ってしまう。
泰造たちの部隊は、こっそりと息を潜めるように井戸の穴を、ただひたすら掘っていた。抗争の烈しさは増し、反政府勢力といわれるものが、いくつもあらわれ、どの勢力がUNに賛同し、敵意を持たず受け入れているのか、まったくわからなくなっていた。重火器をもたない泰造の部隊は、いつどうなってしまうか、まったく予測がつかなかった。

「前略
   蓮二様

 元気でやっていますか。
 今、こちらは夜の九時を過ぎたところです。
かなり寒くなってきました。日が暮れると、昼間の直射日光の強さが信じられないほどの寒さがやってきます。高地の独特な気候です。
僕が寝る場所は、キャンプのテントに毛が生えたようなもので、この手紙を書いている手もひんやりと冷たくなっています。自衛隊に入隊し五年。こちらに来て半年がたちました。
孝司はどうしていますか。元気ですか。もう高校二年になったのかな。早いものです。人間なんか気にせず、時間はお構いなくどんどん進んでいくんでしょうね。
蓮二は大学に入学したと、母さんから手紙をもらいました。どんな勉強をする学部なのかよくわからないと書いてありました。
大学なんて多分そんなものなんでしょう。在籍している学生でさえ、自分は今何を学問しているのか。どうしたいのか。どうなっていくのか。そんなこと全然わかっていないと思います。
蓮二は、自衛隊にいく前から随分僕のことを助けてくれました。本当に感謝しています。
父さんの言うことはわからないわけではないけれど、どうでもよいことが多いと思ったのも事実です。
僕は家にいないことが多かったので、家族で何がおこり、どのようになろうとしているのか、家族の前で耳打ちをしてそっと教えてくれたり、自衛隊に入隊する時、作之助じいちゃんが援護射撃をしてくれたことも蓮二は教えてくれましたね。卑屈なほど作之助じいちゃんに頭があがらないおやじが滑稽に見えます。
 今、テントのカバーを上げて外の様子を見ました。
漆黒というのはこのことを言うのでしょう。両手をだして動かしてみても自分の手が見えません。
本当に翌朝、あの眩しい朝がやってくるのか不安になります。ここの地域の人たちは誰でも、明日がどうなるかわからないなかで生きています。
ここの人たちだけじゃない。
世界のどの国もみんな明日をも知れないなかで暮らしているだと思います。
この場所の人たちは、朝を迎えられると、朝日に向かって祈りを捧げます。朝を迎えられた感謝と、生きている鼓動を感じながら、跪き、顔を地面に何回もつけます。   
今日失われてしまうかもしれない自分の命ですが、今ここに生まれていることに、この一瞬に感謝を捧げます。
 日本で暮らしている人たちはどうでしょう。
選択肢があまりにも多すぎて、どうすればよいかわからないこともあるかもしれないですね。
 僕は、井戸掘りに出会った時、人生の行くべき道のようなもの、最終駅のような、具体的に目に見えるものが、現れたと思いました。
でも、そこに行き着くための方法論なんか、僕にはわかりませんでした。とにかく、井戸を掘る。掘り続ける。そうしているうちに、何か少しは見えていくかもしれない。ただ、そう思っただけです。
 そして、自衛隊が参加する国際連合平和維持活動に出会いました。その時も理屈ではなく、テレビ画面にうつっていたUNのブルーヘルメットを被った隊員たちの姿に衝撃を受けたのです。天から一直線に脳天に射し込んできました。その気持ちよい針の先の痛さを今でも僕の心は覚えています。
 点と点が結ばれたんです。こうやって人生は進んでいくものなのかもしれないと思いました。
こうなれば、こうなるだろうという、大人が考えるような理論的な、理性的なものではありません。当然、父さんはわかってくれないと思いましたが、もう僕のことを、とっくに諦めていると思い、何気なく簡単に話しました。
でも、どういうわけか、反対にあったのですが、彼の口調や話しの内容や、全部ひっくるめた態度を見ているうちに、これは多分僕のことを考えているのではなく、もっと全然違うところを見ながら話しているのだろうということが、ひしひしと伝わってきました。
 僕が何を求めているか、それを具体的に書くことはできません。
井戸掘りが僕の心を捉えただけです。
 蓮二と孝司が、僕のアルバイトの現場に来たことがありましたね。
僕がやっている井戸掘りというものが、ふたりの目にどのようにうつったか、あの時から訊いたことはないけれど、ただ、井戸掘りに、ストレートな好奇心だけてやってきたふたりにとって、とてもショックな出来事があったんじゃないかと思います。
何が何だかわからなかったかもしれない。
特に小学生だった孝司には。
 地面から水がでてくる。水脈から地上に顔をだす地下水って、どんなものだろう。茶色に濁っているのか、それとも透明な水が勢いよく水道の蛇口をひねるようにでてくるのか。そんな関心で見ていたんじゃないかな。
でも現実は、玉川さんの混乱に遭遇してしまった。
 あの時僕は、ふたりの弟に、とにかく何でも説明できたはずだった。きれいに装ってでも、こじつけでも何でも。
でも僕は、あのことを帰りの電車のなかでも、家に帰ってきてからも説明しなかった。
僕自身が混乱していたということもあったけれど、それより単純に説明できなかったんだ。語彙の貧弱さ。説明能力の不足。そういうこともあったかもしれない。
玉川さんと僕とでは、井戸掘りが、なんであるかが異なっていたから、玉川さんに完全に感情移入ができなかった。
はっきり言えば、井戸を掘ること、そのものが重要だった。けれども玉川さんは、水脈にぶち当たり、地下水が地中を上がり、地上に出る。そして、それが井戸と呼ばれる。それが大事だったんだ。
僕は、今まで誰にも言ったことがないけれど、掘って水が出なくてもいいと思っていた。おかしな言い方に聴こえると思うかもしれないが、そうなんだ。
玉川さんの声を聴いた時、孝司は両耳を手で塞いていたね。僕はその両手で塞いでいる幸司の顔を見て不安を感じた。通りいっぺんではない、こいつ危ないな、と思った。小学校五年の弟にどうやって説明して不安を取り除き希望を与えればいいんだ。
 傍にいる孝司をいつも気にかけて欲しい。
 井戸を掘って、地下水がでなくても構わないと書いたけれど、その気持ちが、今ここにきて揺らいでいる。
ここでは井戸掘りは手段であり必ず水がでなければいけない。PKO施設部隊の使命だし、乾きに飢えた人たちを救わなければいけない。
凄く現実的なことなんだ。
僕は井戸を掘るのが目的だったから、出発点もゴールも違っていた。自衛隊に入隊したのも、PKOを希望したのも、いずれもそうだったから、僕はその溝を埋められるかどうかとても不安でいる。
 蓮二に手紙を書いたのも、そういう不安定な気持ちからかもしれない。
誰かに、気持ちを打ち明けなければ、この乾燥した土地で仕事どころか、生きて行くことが苦痛でしかたがないような気がした。
ここは現実しかないんだ。
当たり前のことで、こんなことを蓮二に言うこともおかしいけれど、とにかく聴いて欲しかった。
 昨日も近くで戦闘があり、多くの人たちが死傷した。
PKOの部隊も施設部隊ではないけれどフランスの隊員がひとり重症を負った。UNという文字を大きくつけていても輸送車にどんどん攻撃をしかけてくる。PKOに参加している国のほとんどが重火器を所持している。でも、とてもかなわない事態になっている。
 少し手紙が長くなった。
兄弟で、蓮二が一番落ち着いているので、家族のことをみていけると思う。
重圧を蓮二にかけているわけではないので誤解しないで欲しい。
 両親や祖父母も心配だけれど、孝司は特に気にかかるので、折りに触れて面倒をみてほしい。

                                                                                                      兄 泰造 』     

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