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デウスの誓い    Part-3 (了)


    3 木梨 蓮二
                     
蓮二は、自分のタイムカードを取り、タイムレコーダーに挿入し、出勤時刻が刻印されると制服に着替えてからバンが停車している駐車場に向かう。毎日決められたことを繰り返す。
何の目的もなく大学に入学し、卒業できる単位を適当にとり、そのほかの時間は危なげなく遊び、将来の希望もなく、ただぼんやりと過ごしてきた。就職の季節がきて、面接した会社はすべて不合格になった。引越し会社のバイトの運転の経験から、その会社の社長がうちでは雇えないが、知り合いの警備会社であれば、非正規社員だけれど雇ってもらえるかもしれないという連絡をもらった。
車の運転は比較的好きだったし、安全運転をするほうだったので、警備会社の運転の仕事は自分に向いているのではないかと思った。面接後、調査期間を経て小さな警備会社に合格になった。
卒業真近かの三月。父久雄に就職の件を伝えた。警察官の親戚のようなものだ。お前も社会の正義に貢献する者になったのかと感心した。やっと社会のお役に立つようになりましたと蓮二が言うと、ひどく喜んで、顔を縦に大きく何度も振った。
一年もしないうちに久雄は旅行に行ったプーケットで津波にのまれた。消えてしまう前に喜んでもらったことは、それはそれでよかったのかも知れない。何がどうであれ、狂喜し、その渦のなかに文字通りのみ込まれ、何も気付かずに消えてしまったのは、それなりに幸せではなかったのかと思う。
何事かを知らないうちに予告なく消えた。久雄の翳にさえなれなかった母咲子ものみ込まれる姿を思い浮かべると、それはあるべき道であったようにも思えてくる。
会社を休み、久雄と咲子の姿を確認するために蓮二は何度もプーケットに足を運んだ。

二週間の仕事の訓練期間(実際はバンの運転に慣れること。想定される金融機関を回る運転訓練しかやらなかった)を終え、蓮二は仕事を開始した。
就職した警備会社は社員数が少なく、すぐに全社員の名前を覚えてしまった。
蓮二の業務は主に金融機関の支店を回り、現金を集め、反対に現金を置いていく仕事だった。外見からは、身体的に強健で、意思も強く、しっかり訓練を受けた猛者たちが働いているように思えるけれど、実際のところ蓮二のような社会から弾き飛ばされ、軟弱な男たちが結講な人数勤務していた。
訓練期間と言われる期間が終了した翌日、信用金庫の支店巡回(訓練期間に何度も回ったルート)の業務が開始になり、蓮二は早速、テレビコマーシャルでよく見る警備会社の制服を着せられた。つまりその大きな警備会社の下請けとして働くことになった。こんな小さな会社でも値打ちがある。世の中はこんなふうに補完し合っているのだと普段何も考えない蓮二でも思った。
蓮二とペアを組んだのは、小石原さんという七十歳を超えた人だった。
この小さな会社に勤め始めて一年ということだった。制服を着る前の小石原さんは、本当におじいさんで、靴下をはきかえたりする時に腰を屈める姿は、老人ホームにいるような正真正銘の老人に見えた。でも、制服に着替えて、ロッカーの小さな鏡で少ない短い髪を丁寧に横分けしている様子は、勤務前の緊張感のようなものを蓮二に感じさせた。
小石原さんと蓮二がペアを組んで、大手、一流警備会社の制服を着用し、信用金庫の支店ルートを巡回し、現金を扱うのは、誰がみても不自然に見えるだろう。
「世間様には、ちゃんとカラクリがございます」
小石原さんは舌舐めずりをし、髪の間の頭皮を光らせながら、もったいぶったような口ぶりで言った。
蓮二は運転し、小石原さんは助手席にいた。頭のなかで、せ・けん・さま。カ・ラ・ク・リと書いてみた。小石原さんの年齢を訊いてしまってから、それなりに彼の言うことをちゃんと聴こうとしていた。
「経費削減、利益の増大、そうなるわけです」
小石原さんが胸を少し張るのが視界の端にうつった。
「うちの会社じゃないですよ。上の会社の方針です。わかりますか」
右手の人差し指を顔の前に立てた。
「原価を安くするのが、最もてっとり早いやり方ですね。だから、私たちのような会社、そして私のような者でもそれなりに価値があるということになります」
蓮二は運転しながら、殊更言うようなことではないと思った。
「でも、少し疑問というか、不思議に思うことが…」
蓮二は、交差点でサイドミラーを確認しながら、ゆっくり左折しながら言った。
「何がひっかかるのですか?」
 小石原さんの声はどこか自信ありげな声だった。
顔を見なかったけれど、おそらく声と同じような表情をしているのだろう。
「僕のような、何と言うか、外見もしっくりこない、性格もそれに増して覇気がなく、身体も軟弱な男を雇うのは、少しおかしな気がして…」
蓮二は一瞬だけ小石原さんの顔を覗き見てからアクセルを強く踏みこんだ。
前屈みになっていた小石原さんの上体ががくんと後ろに倒れ、どんと助手席の背に当たった。
「私の年にも関係することでございますね」
スピードが増し、背中を打ちつけたことなど眼中にないかのようだった。
「私は、こうは見えても、経営者であったんですよ。小さな板金塗装の会社だったんですがね。それが不渡りをだして一巻の終わりになりまして。今こうやって…まあそんな話はいいのですが、要するに経営者、つまり社長というのは、立体的に経営を考えるわけです。市場とか、そこから編み出される数字とかですね」
蓮二は運転に集中しようとした。
訓練期間に何度も巡回したルートであったが、初日から道を間違え、予定時刻に到着しないと厄介なことになると思ったからだ。
「現金輸送車が狙われる確率は極めて低いんです。毎日運転して交通事故に遭う確率の方が何十倍、いや何百倍も高い」
赤信号で停車し、蓮二は小石原さんの横顔をまじまじと見た。
「飛行機ですね。危ない乗り物だと思われていますが、事故に遭う確率は本当に低いんですよ。極めて小さい」
小石原さんは、親指と人差し指の腹を合せ、顔につけそうになりながら両目を閉じ、眉目に皺を作った。
「いいですか…」
青信号に変わり、蓮二はアクセルを踏んだ。
「自動車の方が飛行機より事故の確率は比較にならないほど大きい」
 小石原さんは舌舐めずりを上唇と下唇でゆっくり念入りに行って、何かの光景を思いだしたのか両腕を組み、フロントガラスを通して空を見た。
「衝撃が大きいと人間は錯覚してしまうんです。飛行機事故も現金輸送車襲撃も同じことなんです」
間もなく最初の信用金庫の支店に到着しようとしていた。
ブレーキにそっと足をおいた。
「この日本に一日何台の現金輸送車が走っていると思いますか?相当な数です。数えたことはありませんがね。聴いたら驚いてしまうかもしれませんよ」
小石原さんは両手を前に出し、両肘を曲げ、耳を塞ぐような格好をした。
「一日何件も現金輸送車が襲われたなんてニュース聴いたことがありますか?新聞にも載ってないでしょう」
「僕、新聞読まないから…」
「そうでしょう、そうでしょう。今の若い人は新聞をお読みになりません。テレビのニュースにもそのようなことは登場しませんよね」
「僕、テレビのニュースも見ないし…」
 現金輸送車は信用金庫の支店の前に停車した。
支店の入り口に腕章をつけた信用金庫の係が、無表情にふたり立っていた。
「要するに…」
 蓮二は小石原さんの言うことはおおむね理解できたが、この話がどこに行き着くのか、何の結論を導くためにしゃべっているのかわからなかった。
支店前に係の人が待っているので急がなければならない。
「こちらの声は聴こえません。安全を確認する打ち合わせをしていたとでも言えばいいのですよ。それに私は支度もございますし…」
小石原さんは、おもむろにヘルメットを脱ぎ、制服の右胸ポケットからプロレスラーの覆面のような薄手の目出し帽を取り出し、左胸ポケットからレイバンのサングラスを取り出した。サングラスを両耳にかけたあと、頭からすっぽりと覆面を被った。両目のくり抜いた部分が比較的大きい。
そしてヘルメットをつけた。
「ほとんど起きない現金輸送車強奪に警備会社として、コストをかけてもしょうがないのです。制服を見て、こん棒をぐるぐる回す警備員をみれば、やろうとしている者でも、なかなか実行に移せないものです。そういうものです。だから、老人でも、ボンクラでもアホでもいいんです。でも、最低限老人であるという不利を隠すために外見上はそれをカバーするんですよ。あなたもサングラスを用意した方がいい」
 小石原さんは、さっさと車をおり、車の後ろに回った。
蓮二はひと呼吸遅れて現金が入ったジュラルミンのケースを運ぶために運転席を下りた。蓮二と小石原さんは後部の両開きのドアの前で両足を開き、警棒を右手に握り、左手の掌で支え、胸を張った。
支店の前からふたりの係員が台車を押して現金輸送車に向かっていた。
蓮二は飛行機事故と現金輸送車襲撃事件のどちらが確率的に多いのか考えていた。
そして、信用金庫の人が近付くにつれ、この人たちも蓮二と同じ扱いを受けているのだろうかと近付いてくる顔を見ながら思いを巡らせていた。

蓮二が担当していた現金輸送車の業務は、朝と夕方が作業の時間帯なので、真中がぽっかりと開く。会社の休憩室は「職員待機室」という紙がドアの中央に差し込まれていた。
蓮二と小石原さんはその「職員待機室」で朝の現金の運搬を終えると、スチールの机を前にパイプ椅子に座った。小石原さんは、何客も椅子をつなげて器用にその上に寝転んだ。
昼食の時間になると、きっちりと誰にも起こされることなく、バネ仕掛けの人形みたいにぴょこんと起き上がった。
 この小さな警備会社の社員は蓮二のような人間だけではなく、見た目は少し違った人たちもいた。彼のように非正規社員ではなく、正社員のようだった。
現金輸送を主とした警備会社だったけれど、その正社員たちは、毎日金融機関の支店ルートをぐるぐる巡回するのではなく、その日の指示で行く先が変わるようだった。蓮二と同じ大手の警備会社の制服を着ていたが、かなり仕事の内容が違うように思えた。
彼らの業務は、どういうわけか秘密に伏せられていて、彼ら自身からその内容を訊くことは一度もなかった。この秘密部隊のようなペアはA班と名称がつけられていた。ちなみに蓮二と小石原さんはH班だった。
彼らは、いつも俺たちは危険をおかして業務を完遂しているんだと言っていた。やたらと胸を張り、胸の大手警備会社のマークにすぐに手を当て、それから現金輸送車に飛び乗った。
後ろからその姿を見ると、戦争の特攻隊のように見えた。小石原さんは、そういう彼らを無視していたが、時々昼寝の寝起きと彼らの緊急発動が重なると、このバカがとパイプ椅子に横になりながら言い放っていた。
小石原さんは非正規労働者であったが、かつては中小企業の経営者である誇りを忘れず、穏やかな物言いが印象的だったから、その癪に障った時の様子は意外だった。
 蓮二たちは決められた信用金庫の支店のルートを巡回し、現金を運び、そして回収し、終着点の信用金庫の本店の地下に現金輸送車を滑りこませていた。
 夏はすぐに来て、夏用の制服を供与されていない蓮二たちは、苦悩の顔をサングラスで隠しながら業務を続けていた。
 いつも助手席にいる小石原さんの素性をもう少し知りたいと思っていた。しかし、彼は最初に会った日に板金塗装の会社を経営していたという以外に何も身の上のことは話さなかった。
蓮二も訊かないし、小石原さんも蓮二のことを何も訊かなかった。期間が経つにつれ、何となく尋ねにくい雰囲気になっていた。でも察するに小石原さんはどうやらひとり者のようだった。それは、おそらく経営した会社が倒産したことが原因じゃないかと勝手に思っていた。
「木梨くんは、兄弟いるの?」
夕刻、最後の支店から現金のジュラルミンケースを運び込み、ちょうどエンジンをかけた時、小石原さんは少し改まったような声で訊いた。
夏が過ぎようとしていたが、陽が沈もうとする時刻になっても、まだまだ昼間の熱気がアスファルトから立ち昇っていた。空気が白く煙っている。蓮二はヘルメットから少し覗く額のわずかな箇所に左手でハンカチを当て、右手でハンドルを握っていた。
「はい。弟です」
「そうですか」
 小石原さんは、サイドウィンドウを見た。仕事を終え、帰宅を急ぐサラリーマン風の人たちが歩道を足早に過ぎていった。
「兄弟はよいものです」
 小石原さんは少し前屈みになり、ラジオのスイッチを押した。輸送中はラジオをかけることは禁止されているが、構わずにいろいろなスイッチを押したり、ひねったりした。
AMからFMに切り替わり、音質がぐっとよくなり、僕の耳に音楽がクリアに入ってきた。
「私くらいの年になると、どんどんいなくなっていきますがね」
 蓮二は、兄弟の人数を訂正しようかと思った。
「すべて失ってしまったが、それは目に見えるものだけですから」
 小石原さんは経営者であった時とその崩壊を話そうとしていた。
ラジオから外国の曲が流れていた。川を船でゆっくり下ってゆくようなリズムだった。その曲は蓮二の心に静かに滲み込んでいった。しとしと寡黙に降る秋の雨のようだった。
「これまで生きてきたのは何だったのかと最近思うことがあるんですよ」
現金輸送車は信用金庫の本店に到着しようとしていた。
「古い木賃宿のアパートでひとり暮らしです。飯を炊き、味噌汁つくり、自家製の漬物を洗って包丁できったりしていると、生まれてから今まで生きてきた様々なことが、果たして何だったのかと思うんです。生まれたままでよかったんじゃないかとかね。そのままで充分だったんじゃないかとか。そう思ってしまうんです」
 現金輸送車は信用金庫の本店の地下駐車場に滑り込んだ。
天井が低く、暗い空間で、後部の扉からジュラルミンのケースをいくつも下ろした。そして、地下金庫に通じる出入り口に向かい、ひとつずつケースを運び入れた。
暗い空間にふたりの足音が反響していた。蓮二と小石原さんは現金受け渡し担当係員に搬入確認の書類にサインをして渡した。
小石原さんは地下金庫の出入り口の外にあるベンチに、どっこいしょという感じで腰をおろした。蓮二は現金輸送車の運転席のドアのポケットからミネラルウォーターのペットボトルを持ってきて小石原さんに手渡した。
「さっきはよくわからないことを申し上げてしまって、申しわけありませんでした」
制服のズボンの後ろのポケットから真白なハンカチを取り出し、額、頬、首筋と順番に汗を拭った。
蓮二は、彼が言ったことが何となくわかるような気がした。
はっきりと言葉で説明はできないけれど、蓮二が生まれてきて、心の底に沈んでいたものを明確に言葉に変換して提示してくれたように思った。
「私の母はまだ存命でございます」
小石原さんは首の後ろを丁寧に拭った。
「来年で百歳です。施設に預けているんですが…」
 小石原さんは荒い息の隙間を縫って、ミネラルウォーターのぺットボトルに口をつけておいしそうに、噛みしめるように飲んだ。
「毎週日曜日、施設に行きます。私が行っても、息子の私のことはわからないです。もうすっかり昔の面影はなくて、なんていうでしょうか。まったく別人のような…こんなこと申し上げると親不幸者と言われそうですが、あそこまで来るともう人間じゃないですね。わずかにそれらしい原型をとどめているといいましょうか。かといって、獣でもない。動物の一品種でもない。両目を開けていますが、果たして見えているのかどうかもわからない。口を動かし、喋ることもない。無理やり口をこじあけて、流動食を流し込む。反応といえば、その時、ゴクンと喉元を動かし、食道を通る音だけです。笑ったり、泣いたり、顔をしかめたりすることもありません。山の斜面に沿って施設が建っています。車いすを稜線に向けて、窓を開け放し新鮮な空気を部屋に入れてあげるのですが、一センチも身体は動きません」
気持ちを落ち着かせるようにもう一度、そして今度は勢いよく小石原さんはミネラルウォーターを飲んだ。
「私が倒産して迷惑を随分かけました。父はとっくに他界しましたし、年が離れた兄は戦争で帰ってきませんでした。だから、結婚しなかった私のほか、債権者は母のところに取り立てにきました。連帯保証人になっていましたし…」
小石原さんはペットボトルを握りながら、両肩を落とした。
「そういうことに慣れていなかったんですね。当然ですけど…でもこうなってみると、今と生まれたばかりの時とそのふたつしかないような気がして。誤解しないで欲しいのですが、人生とか、人が歩んできた道を否定したり、悲観したりしているわけじゃないんですよ」
「わかります」
蓮二はぼそっとした声だったけれど、珍しく、素早く人の話しに反応した。
言葉に嘘はなかった。
「くだらないことがあまりにも多かったような気がして。工場が倒産したのも、振り返ると当然のことでした。確かにあったんですよ。多分、もともとね。でもそれに気がつかなかったのかな」
 小石原さんはペットボトルを青いベンチにおくと、両手を太腿の上についてゆっくり立ち上がった。
蓮二もつられるように立った。
会社に戻りましょうかと言って小石原さんは先に現金輸送車に向かった。蓮二は彼の年齢に相応しい狭く弱々しい背中を見ながら、明日、ちゃんと会社に出勤するだろうかと危惧した。
 蓮二があとから運転席に乗り、エンジンをかけた。天井が低い地下駐車場にエンジン音が反響した。蓮二は隣の助手席に座る小石原をとても身近に感じた。
「さっきラジオから流れていた外国の曲は何という曲ですか?」
車が発進し、地下から地上に出た時小石原さんは蓮二に訊ねた。
「確か、『ピーシーズ・オブ・エイプリル』という少し前の曲です」
「そうですか」
小石原さんは何かを振り返っていた。

久雄が急に海外旅行に行くと言いだしたのは十二月に入ってからだった。
海外旅行の妄想がどこからか飛んできて、完全に久雄を征服してしまったようだった。
「母さんと初めて海外旅行に行くぞ」
 そう言い始めると、早速、旅行会社に行き、パスポートの申請をし、早々と旅行代金を振り込んだ。
蓮二は両親と一緒に暮らしていたので、顔を合せる機会多かった。朝、蓮二が出かける時、初めての海外旅行に行くぞと写真館の受付あたりで大声を出し、帰宅するとやっぱり海外旅行に行くぞと自分に言い聴かせるように言った。
 久雄は何かに凝り固まると、そのエッセンスみたいなものだけを抽出し、それだけを振り回す。蓮二たち兄弟は、少なからずその波動みたいなものを味わってきた。そして兄弟は皆、のみ込んできた。のみ込んでしまえば、取りあえず、その場は無難に収まる。
そうやって蓮二たち兄弟は生きていた。それぞれの性格や嗜好や考え方は違うだろうけれど、自分のなかに棲む確かなものを崩さないために、ある時はひっそりとしていた。
 結局、久雄は、初めての海外旅行に母の咲子をつれていき、大津波にのまれた。
あのどこか焦るような表情と常軌を失ったはしゃぎ方は蓮二の胸に刻印となった。行くべきして行ったのではないか。蓮二は、有給休暇をとり、空港にゆく途中、飛行機のなかでずっとそう思っていた。
プーケットの海岸で耐えられない蒸し暑い気候のなか、何体もの遺体が打ち上げられ、異様な臭いを放ちながら並べられていた。蓮二はその光景を見て、多分このなかには久雄と咲子はいないだろうと思った。それは、何となくということでしか言えなかったけれど、あの十二月に入ってからの久雄の様子を見ると、このように蓮二の前で変わり果てた姿を見せることはないと思った。後から思うと、もうどんな成り行きでも構わない。何かに急き立てられ、旅立ったというような気配を感じる。でも久雄にいったい何が起こったのかを推測するのは困難で無意味に思える。
 とにかく地震、大津波という偶然のできごとだから、彼の常軌を外した行動を心のなかで掻き消した。
久雄にはある覚悟のようなものがあったのは間違いないと思う。あの日、年末で蓮二は休みに入っていて、久雄と咲子を家から送りだした後、歩道の会話に耳を澄ました。タクシーを待つ久雄の声を聴いたとき、蓮二はある覚悟のようなものを彼のなかに感じたのだ。それは説明しにくいけれど、本当の旅立ちの声に似たものだった。
 久雄がプーケットの海に消え、その後がらんとした写真館のスタジオで祖父の作之助の姿を時々見かけた。作之助は久雄が行方不明になっても、ほとんど顔色を変えなかった。
 作之助が始めた写真館は、その昔、先端的な職業として注目されていた。
最初はスタジオのような立派なものはなく、記念撮影ができる場所を一階の一部のスペースを割いて行っていた。
久雄が行方不明になり、誰が見ても生還の可能性が皆無の状況のなか、作之助は写真館の主の役目を代わろうとしていた。でも、その作之助の意志の成就は所詮無理なことだった。
そんなことは充分わかっているはずだ。
久雄の役割をカバーしようとする純粋な気持ちであったとは蓮二には思えなかった。

 作之助が転換点を迎えたのは祖母トミ子が亡くなったときからだ。
その日蓮二が仕事から帰り、作之助の部屋を覗くと、蒲団に寝ているトミ子の横で、作之助がちょこんと座っているのが暗がりのなかで見えた。初冬の夜、冷え冷えとした空気が下の方に溜まっていた。
作之助は正座し、両手を畳の上に突いていた。背は丸くなり、俯いていた。蓮二が名前を呼ぶ薄暗闇のなかで顔が次第にあがりだし、顔全体が蓮二の方を向いた。蓮二は事態を察し、跪いてトミ子の額に手をあてた。部屋に沈む空気より何倍も冷たかった。首筋に手をあて、手首の脈をはかり、顔を近付けて呼吸の音に耳をすませたが、わずかな音も聴こえない。
作之助は蓮二の動きをじっと見ていた。
 蓮二は作之助を部屋に残し、近所の知り合いの町医者を連れて来た。家に戻ると作之助は同じ姿勢で座っていた。夜はとっぷり更けていた。外と部屋が同じ暗さになっていた。
蓮二は壁にある部屋の電気のスイッチを点けた。
医者は酒の臭いがした。トミ子の状態を確認する時、頭がぐらぐらと揺れていた。ふうと息を部屋の空気に混じらせてから、ダメですねとひとこと言った。その何気ない呟きのような言葉に作之助はひどく反応した。
今まで姿勢を変えずに壊れてしまった表情を隠すように俯いていた彼が顔を上げた。
何だと、貴様、もう一度言ってみろ。
その声は低く強く粘っこく、そしてよく通った。
顔を上げた作之助の形相を見た医者は、背をしゃんと伸ばし、両手を前で合せた。御愁様ですと舌を絡ませながら言うと、すっと立ち上がり部屋を出て、音をたてながら足早に去った。
 
 蓮二は作之助と失声症になった弟、孝司を両脇に抱えているような気持ちにはなっていた。作之助より孝司の今後に蓮二は多くの不安を持っていた。声を失った孝司は大学病院やその病気で著名な医師がいる病院に通院していた。しかし、症状はなかなかよくならなかった。ストレスや心的外傷が弱まれば、症状は緩和すると病院で言われたようだ。
原因は何なのか、同棲している美伽なのか。塾の講師の仕事なのか。生活全体なのか。生まれてきたすべての関わりなのか。
幸司はひとりでマンションに閉じこもる日々が続き、やがて美伽はマンションをあけるようになった。そして息子をつれ、どこかに行ってしまった。声がでない孝司はどこから見ても役に立たない古道具のように美伽から見捨てられたのだ。
そして、いくらたっても回復しない孝司は塾講師を解雇された。
美伽の翳が完全に孝司の前から消え失せてしまったわけではなかった。近くのスーパーにまとめ買いにでかけ、マンションを留守にした際、その隙を狙うように美伽がマンションに戻り、衣服類をまとめて持ち出した。その量は女性ひとりが運べる量ではなかった。   
その日は日曜日で、彼が同じ曜日の同じ時間帯に買い物にでかける習慣を熟知している彼女らしい行動だった。そして日曜日だったので男手を頼ることができたのに違いと思った。
蓮二は、孝司が平日の夜ぶらりと実家にやってきて、近況をメモ用紙に書いた時、右手が震えてなかなか書くことができなかったのを覚えている。もう何年も実家に寄りつかなかったのが、前触れもなくやって来ることに、どこか不吉なものを蓮二は感じた
ここに戻ってくればいいと蓮二はぼそぼそと言った。
孝司は何かをぐっと呑み込むように、顎を引いて瞳を少し大きくし、目をむき、床のある一点をしばらく見つめていた。
おもむろにさっきまで書いていたメモ用紙をちぎり、何も書いていないところに蓮二に伝えたいことを書き始めた。
『マンションの家賃が払われている。毎月。美伽が大家に振り込んでいるらしい。今ここに移ってきたら、せっかく美伽が払ってくれているのに申し訳ないよ。塾で働いていた時の貯金がまだ少しあるし、しばらくこのままやってみる』
ここで、孝司はもう一枚用紙をちぎり、書き続けた。
『そのあいだに、今ひとりで棲んでいるマンションの家賃の支払いとか、これからのことを美伽と話してみるよ。まあ、今の僕は話せないから、こうやってメモ帳に書いてゆくしかできないけど』
蓮二が、ちぎれた二枚の用紙を読み、顔を上げると、孝司は、にこっと笑ってひとつ肯いた。
蓮二は胸が締め付けられるように苦しかった。なんでこんなに優しいんだ。ゴミみたいに捨てられても、捨てた方を非難する前に、捨てられたゴミの方を責めているようだった。なぜゴミなんかになったんだ。もっときちっとしていれば、そこまでならなかったんだぜ。捨てられて当然だと言っているのに等しい。
 蓮二はいつの間にか両手で拳をつくっていた。拳のなかが熱くなり汗が溜まっていた。見つめる場所は二枚並べられたメモ用紙しかなかった。肩を叩かれた。孝司は立ち上がっていた。穏やかな顔のなかの唇がかすかに動いた。か・え・る、とその唇はゆっくり動いた。ぎこちなく孝司は笑うとくるりと背をむけた。
マンションに居る必要がない。居る意味もない。そんな無意味なことをやっていながら、蓮二のところにやってくる。そういうぎくしゃくしたバランスが蓮二に不安を与えた。
これからは孝司に頻繁に連絡をとろうと思った。
コミュニケーションをとる方法は限られるけれど、直接会いにいけばよい。本当は孝司のことばかりを心配する身ではないのだが、だんだん少なくなる家族のなかで、こいつだけは守らなければならないと自分には珍しく熱いものが湧き上がっていた。
作之助もトミ子が亡くなったことを起点として地盤が大きく変形した。その変形は蓮二自身の心の変形であり、支柱が、梁が、ひとつひとつ動き出す音を伴っていた。
失声症になり、職を解雇され、妻に捨てられた孝司と瓦解した作之助と現金輸送車で支店を巡回する蓮二だけが残された。

 写真館のことを考えていないわけではなかった。
 作之助をひとり残し、警備会社に出勤するのは、彼の様子が極端におかしい時は特に後ろ髪をひかれるような気持ちだった。
写真館のスタジオがある一階の居間と壁を隔てた部屋に作之助が寝起きし、二階の部屋に蓮二がいた。以前は人数のわりには部屋数が少ない家だったけれど、写真館も兼ねた住宅に今はふたりだけが棲んでいた。
 一番広く充実したスペースはスタジオだった。もう数年使われていない空間は特別な匂いがした。この写真館が誕生し、何十組、あるいは何百組かもしれない人々が姿勢を整え、かしこまり、一瞬の晴れがましさを写した匂いが染み込んでいた。その匂いは焦げ茶色の壁に、赤い絨毯に、そして古い写真機に決して消えることなく息づいていた。
蓮二は時々スタジオに来て深呼吸をした。
二十年前と同じ空気の濃密さが彼の胸を一杯にした。
これは人間の欠片の濃密さだ。
赤い絨毯や焦げ茶の壁から匂い立つ朝の樹木のような匂いは、蓮二の気持ちを落ち着かせた。蓮二は久雄と咲子が行方不明になり、作之助が壊れてしまった後もこのスタジオは温存しようと思っていた。
写真館の商売をしなくても、ただそのままで、ここにあり続ければよいと思った。
 写真館は父の久雄が開業したものではなく、祖父の作之助が苦労して土地を購入し、その当時ほとんど商店がなかった場所に写真館を建てた。
 作之助の様子を朝、見届けから蓮二は、出勤することにしていた。
作之助の部屋に行こうとすると、その手前のスタジオの入口のドアの前でぼんやり彼は佇んでいた。意外としっくりした服装だった。白いコットンのシャツはボタンダウンだった。紺色のズボンはツイードだった。
蓮二は立ち止まり、少し唖然としてその姿を見ていた。蓮二と作之助の距離は縮まらなかった。ただ、作之助の表情は壊れてしまったあの日とは明らかに違っていた。
「蓮二、俺はまた写真館をやるよ」
蓮二が挨拶をし、立ち去ろうとした時、作之助は言葉に力を込めた。
蓮二は言葉が見つからなかった。
「俺をみくびっちゃいけないぞ。この写真館を始めたのはこの俺だ。久雄は充分じゃなかったな。あいつはふらふらして、視点が定まっていなかった。だからいろいろなことに影響されてしまって自分を失っとったな。ぴんぼけしか撮れない写真屋だ」
蓮二はそろそろ会社に行かなければならなかった。
「この写真館をこれからどうしようかと思っていたんだ」
腕時計を見ながら蓮二は写真館の出口に向かった。
「よぼよぼだと思ったら大きな間違いだぞ。写真館をやる前は雑誌社でカメラマンをやっていたんだからな。そのあと独立したんだ。今でいうフリーとか言うやつだな」
蓮二は何も言わずに家を出ようとした。ふと後ろを振り返った。
作之助は蓮二を睨んでいた。
壊れたものが修正されないまま形を変え、おどろおどろしい姿に変わろうとしていた。張
りがあり、目が座り、何物も寄せ付けない力があった。
蓮二は外に出ると空を仰いだ。

「飯つくっといたからな、よかったら食え」
どんよりした夜のスタジオで作之助は撮影の小道具を触っていた。
「おじいさんが自分で食事をつくったんですか?」
「そうだ。俺は、結講昔はつくっていた。ひとりで暮らしていた時があったからな」
作之助はふらふらしながらスタジオを出て行こうとした。
「独身の時ですか?」
「独身?あの時のことは、なんというのか、子供はいたけど、ひとり身には違いないな」
作之助は昔を思い出していた。
「えっ?父さんとふたりの時があったんですか?」
 作之助の足が止まった。肩が小刻みに震えていた。
また、あの壊れた彼が戻ってくるような予感がした。
黒い大きな闇のような塊が迫ってくる不気味さを蓮二は感じた。
「蓮二は何も知らないのか?」
作之助は言葉と相違し、驚いても怒ってもいなかった。
愛おしい思い出と忌まわしい脱ぎ去れない記憶が混濁しているようだった。
「あいつは何も言わなかったのか…」
 蓮二は、作之助の顔を食い入るように見た。
作之助に「あいつ」と呼ばれた男が、せわしなく身体を動かす姿が思い浮かんだ。
「久雄は俺の子じゃない。どこかの男がつくった子供だ」
 作之助は、スタジオの入り口のドアを平手で叩いた。
本人は軽く叩いたようだったが、思いのほか、スタジオの空気を震わせた。
蓮二は作之助が言ったことがよくわからなかった。
 蓮二がスタジオの中央に立っていると、出て行こうとしていた作之助が、右肩を少し下げ、足を引きずりながら蓮二の傍に戻った。
撮影用の椅子に坐り、蓮二を下から見上げた。その視線がどんどん歪んでゆくような気がした。
この人の不気味な落差と底に流れるどろどろしたもの。
久雄は俺の子がじゃないと言った。ということは蓮二と作之助は血が繋がっていないということだ。
「今そんなこと言われても、僕は…」
「そうだ、そうだろう。今更言われても、どうしようもない。当然だ。何も変わらない」
 ゴムが伸びていくような、胸が詰まる沈黙が続いた。
「蓮二が知らないなら言っておく。いいだろう。もう面倒をかける者は誰も残っていない。トミ子も死んだんだ」
作之助はトミ子の名前を口にした。
「久雄はトミ子の子だが、俺の子じゃない。俺の子供はほかにいた」
 ほかにいた。
でも今はいない。
蓮二は胸の中で言葉を継いだ。
ゴムが極限まで伸ばされ、耐えきれずにパチンと沈黙がきれた。どっと濁流が身体の正面に押し寄せた。
「俺は子供を連れてトミ子と一緒になった。女の子だった。トミ子は久雄を連れて俺と結婚した。お互い連れ子だ。要するにそういうことだ。わかったか」
わかったけれど、でもよくわからない。
そういうことが、どのようなことをもたらしていったのか。それがわからない。
以前いた人たちの顔を思い浮かべた。
ひとりひとりを組みあわせ、そのペアが話していたことや様子や感情の重なり具合を甦えらせようとした。でもそれはとても込み入っていた。
それぞれの人たちの様相が明確に浮き上がってこない。そして、何よりもその作業は、何の益もなく、虚しく、そしてどこに行き着くか予測のないものだった。
しかし蓮二はその連続した関係性の追求を止めることはできなかった。
「今更関係ないがなあ、こんなことを言っても」
 作之助はひどく落ち着いていた。
今更関係ないことはない。
それは作之助にとっては、今となっては関係のないことかもしれない。
でも、久雄と咲子は津波に呑まれ、孝司は声が出なくなりゴミのように捨てられ、トミ子は持病の心臓を悪くして亡くなったのだ。
そのひとつひとつが関係ないにしても、作之助がここに写真館をたてて、久雄は息子を三人持ったのだ。
「子がいるトミ子と一緒になったのは、トミ子のためだ。あいつは久雄を抱えて金がなくてきゅうきゅうとしていた。トミ子を救うためだ。だから籍を入れた」
作之助は話すのにしたがい、落ち着いていた様子がしだいに変化を見せ始めた。
椅子に座っていたが呼吸音がぜえぜえと聴こえ始めた。
「俺は実はどうでもよかった。結婚というかたちでなくても。トミ子だけ手に入ればよかった。それと前の結婚でできた娘さえいれば」
 蓮二はひとりでゆっくりと思い巡らせてみたかった。
でもそんなことをしてもいっこうに彼の頭の回路はうまく起動することはない筈だ。
作之助がいるこの場所から去りたかった。
部屋に寝転がり、ウイスキーをショットグラスに注ぎ、時々起き上がり、喉に流し込む。食道を下に落ちてゆく液体を熱く感じながら時間を過ごす。そういう時間が必要だった。
「その娘さん、おじいさんの子供は今…」
作之助は顔を天井に向けた。顔の筋肉に力が入る。
血菅が浮き出てどす黒く赤い色を帯びた顔が歪み始める。顔を上に向けているせいで、首筋の血菅の動きが生きた蛇のように動くのがわかる。口は横に真一文字に引き裂かれたかと思うと今度は目一杯縦に叫ぶように開いた。そして、どこかの原住民の雄叫びのように、間歇的に声を張り上げ始めた。吠えているのか、あるいは泣いているのかわからない声が、今まで話していた彼の音質とはまったく異質な音でスタジオを駆け巡った。
トミ子が死んだ時と同じだった。
この人は今まで何度この音を発したのだろう。
そして死ぬまで、何度この雄叫びのような声で蓮二を谷間に突き落とすのだろう。その音の隙間をかいくぐり、言葉が少しずつ挟み込まれた。
「あいつ…あいつがな…やったんだよ…」
「あいつがって、誰ですか?」
 蓮二は訊かないわけにはいかなかった。
作之助は顔の向きを正面に戻し、唇を曲げ、両目をむき出しにしていた。
「ここはな、昔平屋だった。建て増しする前は、一階に部屋がひとつだった。ここにスタジオのようなものもあったが、もっと狭かった。ここの半分は部屋としても使っていた」
 作之助は、一度ごくりと喉を動かした後、口のなかが乾いたのか舌を出し入れした。蓮二は台所からグラスに水を入れ持ってきて、おそるおそる差し出した。
作之助は両手でグラスの側面を持つと一気に水を飲み干した。息をふうとひとつ吐くと眉毛の先端がぴくりと動いた。
「あのな、狭い部屋で、年がいった連れ子たちが寝起きするとどうなるか蓮二もわかるだろう」
蓮二は彼の顔を見ていたが何も言わなかった。
「高校や中学の年齢だ。俺も悪かったんだがな。部屋が狭かったといえば言い訳になるだろう」
「他人だからな。自然なんだよ。男はちょうどさかりがついている頃だから、なるようになったんだけどな」
作之助は握ったグラスを片手で振った。なかには一滴も水は入っていない。
「一度でできた。俺の娘は魂を抜かれたみたいだった。娘を、一度も会ったことがない遠い親戚に預けた。俺の娘だぞ。手を出しやがって、血をわけてはいないけれど兄弟だ。あいつ何を勘違いしたのか。俺はあいつを許さないと思ったが、トミ子が泣いて謝って、久雄をどうにかするんだったら、私を先にしてからにして下さいと土下座して、畳に額を何度も押しつけた。顔を上げると額が赤く擦り切れているんだ。俺はトミ子に免じて久雄を許した。でもな、こういう話はそこで終わらないだろう。当然だ。生まれてきた子供をどうするかだ。いいか。いくら遠い親戚に預けておいたってそのままじゃすまないだろう。いつまでもそのままじゃいられない」
 作之助は一息ついた。どろどろした臭気が少し遠のき、ぐったりしたような表情をしてぼんやりと自分のリズムで話しの続きをした。
「久雄は十八になろうとしていた。トミ子はまだ久雄は若いと言ったが、若い女を見つけて一緒にさせようと思った。誰かに責められることも、もちろん許しも受けることもない。そんなこと関係ないことだ。そこはトミ子が何て言ったって聴きいれるつもりはなかった。いいか、俺の娘だぞ。それがガキに無理やりやられて子供ができて、心も病んだんだ。俺は久雄を潰す代わりに、ほかの女と籍をいれて、俺の娘の子を引き取れといった」
作之助は震える足の踵を時々上げながらリズムをとるように床を鳴らしていた。
「選択なんていうものはない。あのまま娘が自分の子として育てるなんてそんなことできやしない。あの子がどれほどお腹の子に執着があったのか俺にはわからなかったが、でもな、私生児としておいておくわけにはいかない。久雄を生かしておくかわりに、きっちりと責任をとってもらう。それしかない。どこからか女を連れてきてそいつと久雄の子として育てる。それしかなかった」
作之助の呼吸は荒かった。
心臓がトミ子のように止まってしまうのではないかと思った。
 蓮二は話のなかの登場人物は会ったこともない架空の人物のように思えた。
「そこで上野にある馴染みの喫茶店でウエイトレスをしていた咲子を引っ張ってきた。まるめ込んで、久雄とふたりにしたら、すぐにあいつ咲子を押し倒したらしい」
過去の怒りや怨念のようなものが鮮やかに記憶に刻み込まれていた。
遠い過去の記憶ほど彼の頭に鮮明に保存されていた。
「それで、久雄と咲子を結婚させた」
作之助は記憶の貯蔵庫をぐるりと見渡すように顎先を上に向け、遠くの空を見るような目をした。
「でも、父さんが別の女の人と結婚しなくても、その娘さんが子供を産んで…」
蓮二は、頭に浮かんだままのことを何も吟味せずに言った。
作之助は凄い勢いで顔を蓮二に向けた。
「何言っているんだ。今説明しただろう。ててなしごです、と世間様に言っているのと同じだ。何とかかたちをつくらないとまずいじゃないか。俺の娘なんだぞ」
 おれのむすめ。という余韻が蓮二の頭のなかでずっと続いていた。
おれのむすめ。
そうか、この人はやっぱりそれが基準なんだな。
でも作之助の話からどうしても重くのしかかっているものを明らかにする必要があった。
「あの…おじいさんの娘は……」
作之助は久雄と咲子を一緒にゴミ袋にまるめて放り込むような無機的な表情を浮かべた。
感情の欠片が少しも動く気配はない。
途絶えたことも知らずにいる人間たちと知っている人間たちが混じり合って暮らしていた。
 電車のホームの端を歩き、突然ふらふらとよろめいたその娘は、一瞬身体を止め、やってきた電車にタイミングを合わせホームから落ちた。その時、女性は運転士の視線を探し、合ったことに安堵を覚え、視線をそらすことなく両膝を折り、祈るような姿勢をとったと作之助は叫び声の間に重たい石を置くように途切れ途切れに喋った。
「娘さんの子供というのは…」
「泰造だ。おまえの兄貴だ」
 蓮二は言葉がでなかった。遠くのどこかに連れていかれたような気がした。
 蓮二は固まる作之助を見た。この人はまだこれから何かをやろうとしている。
既に娘ははるか昔に命を絶ち、娘が生んだ泰造も行方が知れず、トミ子はなく、厄介者の久雄とその連れの咲子もいない。そして彼は餓えるように何かに噛みつこうとしていた。
 蓮二は腰を浮かした。二階に上がるから。明日早いから。おじいさん悪いけれど、このまま部屋に行って休むよと力なく言った。連二は早くその場を離れたかった。

 警備会社に出勤するとまずタイムカードをレコーダーに差し込む。
カードを打刻する機械の音。蓮二はこの数字を打ち記す音が好きだった。
クスクスと蓮二の傍で含み笑いの軽い声がした。悪意が薄いものだった。タイムカードのそばに女子社員がひとりいつも座っていた。彼女は主に社員の出退の管理と現金輸送車などの車両関係の勤務にあたる者の出発、帰社確認をしていた。
蓮二はこの警備会社に勤めてから五年近くになるが、ほとんど口をきいたことはなかった。現金輸送車が帰社すると彼女は仕事を終え、そそくさと紺色の事務の制服を着替えて帰ってしまう。朝出社すると、おはようございますと言い、支店巡回に行く時は、お気をつけて、と見送り、帰ってくると、お疲れ様と言った。
彼女の口からでてくる言葉は三つしかなかった。
たまに、おはようございますに続き、今日は暑いですね、とか寒いですねという言葉が加わることもあった。でもそんなことは一年に数えるほどしかなかったように思う。
 彼女の名字は大友といった。
 大友さんはいつも右胸にネームプレートをつけていた。ほかの女子社員で経理とか庶務などの仕事をしている人は皆左胸にネームプレートをつけている。
大友さんのネームプレートはいつも右胸につき、プレートの右端が上がっていた。そして安全ピンでとめたところの制服がどきっとするほどよれていた。それから文字が手書きで太いサインペンで書かれていた。その文字が滲んで読みにくかった。
蓮二は、大友さんのネームプレートがいつも気になっていた。
「木梨さんは、どうしてタイムカードを打つ時にいつも目をつむるのかと思って」
待ち構えていたように言った。
名前を呼ばれたのが初めてだったような気がした。
「いい音だから」
大友さんは口に手を当てたまま蓮二の顔を見ていた。
「そんな人初めてだわ。一年中、わたしはここに座って全社員がタイムカードを打つ時の姿をみているけれど木梨さんみたいな社員は初めてだわ。私はこの会社に勤めてもう七年になるのよ」
 小石原さんが出社した。
小石原さんはにやりとして、右手を軽く上げ、先に乗っているからなと言い、制服に着替えるため職員待機室に歩いて行った。
「電車で車掌が検札の時、キップにガシャッと穴を開けたりするでしょう。それからでかい卓上ホッチキスで上からガシャッとやったり、昔の写真機でカシャッとシャッターを押したり、そういう音にうっとりするというか、気持ちがとれも落ち着くというか、そういう感じなんだ。それと…」
「それと」
「うち写真館やっているんだ」
どうして実家の話なんかしたのか。どうしてこれほど滑らかに喋ることができるのだろう。
「勤務につかないと」
蓮二は気持ちを切り替え、大友さんに背を向け、小石原さんが着替えをしている職員待機室に向かおうとしたが足が動かなかった。
どうしてもひっかかることがあったのだ。
蓮二は身体を回転させ、大友さんが座っている方を向いた。
「あの…」
「はい?」
俯いて机の上のファイルを見ていた大友さんが顔を上げた。
「どうして、ネームプレートを右の胸につけているんですか?皆左なのに」
大友さんは俯き胸のあたりに視線をやった。
「ああ、これ。左は心臓があるでしょ。万が一何かあると危ないから」
大友さんは何事もないように視線を再びファイルの上に戻した。
 蓮二は着替えを終え、小石原さんが待つ運転席に座った。
車を発進させ、小石原さんがひと言二言何か言ったが耳に入らなかった。
 
 二〇〇八年太陽が近くやってくる季節。
規則で禁止されている車窓を開けて、そうだよな、ほんとうにそうだよと意味不明な言葉を車道に向け小石原さんは独り言を言った。
小石原さんはもうかなりしんどそうな身体の動きになっていたけれど、現金のジュラルミンを支店から預かり、車内の助手席で一服すると、現金を運んでいた時よりも生き生きとして蓮二の顔を見た。
「そろそろ引退しようと思っているんだよ」
小石原さんがそう言ったのは、二件の信用金庫の支店を回り、流れがよい国道でスピードを上げている時だった。
「頭は働くが、身体が思うように動かない。そろそろ潮時だな。よくここまで会社も雇ってくれた」
蓮二は黙って運転していた。
最近銀色のジュラルミンのケースを一緒に運ぶと、彼の衰えがひどく進行していることを感じていた。でも、蓮二は、小石原さんと五年間一緒にやってきたし、ほかの人とペアを組んで仕事をすることが想像できなかった。密室の現金輸送車のなかで、小石原さん以外の人と同乗してどのように振る舞えばよいかわからない。現実的な障害が、一歩、一歩、確実に近付いていくことは、どうしようもないことではあったけれど、それは小石原さんの身の振り方であったのと同時に蓮二の問題でもあった。
現金輸送車は巡回ルートの最後の支店で現金を預かり、信用金庫の本店に向かおうとしていた。
 安全のために、毎日無作為に本店への道順を変更していた。その日は商店街や町工場が両側にある細い道を選んでいた。
両側の町工場が途切れ、三叉路に差し掛かった時、左側の道路から小型トラックが猛スピードで三叉路に突入してきた。スピードを緩める気配もなく、むしろスピードを増しているように見えた。
蓮二は衝突を避けるため、とっさにハンドルを切ろうとしたが間に合わなかった。現金輸送車の左側のドアに小型トラックの前面が当たった。
 ヘルメットをしていた頭は右の窓に烈しく当たった。小石原さんは小型トラックの衝撃をまともに受けた。
身体が一瞬右側に大きく傾いた。
蓮二は気が遠くなるのを懸命に押しとどめながらドアを押して外に出た。
小石原さんは頭をだらりと前に垂れて気を失っていた。
蓮二はよろけながら衝突した小型トラックに接近しようとした。トラックのフロントガラスを通して、ぼんやりと運転席に座っている目出し帽の人間が見えた。
 蓮二が、ぼんやり立っているとトラックの両脇から運転手と同じ目出し帽をした四人が現れ、蓮二に向かってきた。
皆右手で固い棒状のものを握り振り上げている。蓮二はふらつきながら無意識に腰にぶら下げていた警棒を握っていた。 
一歩前に踏み出した時、二人の男に両腕を後ろ手にされてねじあげられた。
痺れる二の腕と肩の付け根の痛みで、蓮二はほとんど気を失いかけていた。
小石原さんはずっと同じ姿勢で、項垂れて動かない。
残りの二人が蓮二の前に立ち、夕陽に光る棒を振り上げ、ひとりが大声で叫んだ。
意識が遠のき、マスクの内側から出るくぐもった声を聞き分ける能力はほとんど残されていない。現金輸送車の後部扉の前に連れていかれ、男がまた大声で叫んだ。
ひとりの男が蓮二の腰のあたりに下がっていた幾つかの鍵を左手で鷲掴みにすると全ての指を器用に動かしながら選別を始めた。
男の頭が蓮二の顎先にあった。
「ドアの鍵はどれなんだよ」
今度は声がはっきり聴こえた。
霞む視界で後部扉の鍵を開けると薄暗がりのなかに光が差し込み、銀色のジュラルミンのケースが輝いた。
男の手が扉の把手に左右から伸び、思いきり手前に引いた。
 次の瞬間、レルメットを被る頭の左右、上下から烈しい衝撃が加わった。ふらふらしていた意識がカメラのシャッターが下りるように見事に何の未練もなく瞬間のうちに飛んでいった。

 目が覚めると細かい穴があいた白い正方形が規則正しく並ぶ広がりが視界を覆っていた。
それが何なのか。
ここがどこなのかを理解するまでにかなりの時間がかかった。
首を右側に回した。
細い金属で頭のなかを差し込まれたような痛さに思わず顔が歪んだ。視界の端に白い窓枠が見えた。ところどころ赤く錆びている。壁も白い。窓からは弱い陽光が申し訳なさそうに蓮二がいる場所に忍び込んでいた。
寝ている頭の横に透明な液体が入った袋がぶら下がっていた。
点滴の袋がぶら下がる金属製の支柱の傍に女の人が立っていた。目を凝らして見ると紺色の服を着ているのがわかった。
見覚えがある。
少し旧式なデザインで地味な色。警備会社の制服だ。
ゆっくり視線を移動させる。尺取り虫のように紺色の制服の上を少しずつ視線を這わせる。ネームプレートがあった。いつもの名字だ。太く滲んでいる。
読みにくい「大友」の文字がとても暖かく蓮二の目映った。
「大友さん」
 蓮二は口を動かしてみた。
ゆっくりと丁寧に小さく唇を動かした。
右側の頭がずきんと痛む。
彼女の口が動いた。わずか二秒か三秒だった。まだ元通りにならない意識のなかで、蓮二は、あれっと思った。
大友さんの声がほとんど聴こえない。水で満たされた洗面器に耳までひたして人の声を聴くように、曖昧で、くぐもり、何十メートルも遠くから話しかけられているような感じだ。
病室は沈黙を守り続け、空気は張りつめていた。一ミリも隙間がない濃密な密度を保っていた。
蓮二は掌を広げてトントンとかたちだけ右の耳を叩く真似をした。大友さんは制止する姿勢をとった。
 曖昧な風景からは、ことごとく音が消えていた。
蓮二を取り囲むすべてのものが黙りこくり、蓮二を置き去りにしていた。
音が消えると時間までもどこかに隠れてしまったような気がした。何もないぽっかりと開いた穴のような場所で蓮二の心は固定され、冷たく凍り付いていた。
 大友さんがベッドの傍の丸椅子に座ると、それが合図であったかのように、扉があき、白衣を着た看護師が病室に入ってきた。
新しい点滴の袋と長方形の小さなホワイトボードを持っていた。
看護師は、無表情で極めて事務的に点滴を交換した。交換の作業が終わると、ホワイトボードにマーカーで文字を書くと蓮二の方にホワイトボードを示した。『ご気分はいかがですか。できれば、一時間後に脳の精密検査を行いたいのですが』
聴力が衰えていることを想定してホワトボードを彼女は持ってきたのだ。
 蓮二はそのホワイトボードに書かれた文字を見ていた。
『脳』という文字が奇妙に生々しく迫ってくる。『脳』の文字の肉月がとても細かった。横にかかるふたつの線がほとんど認識できない。
蓮二は貧弱な『肉月』を備えた『脳』という文字をじっと見ていると、小石原さんの顔がぼんやりと浮かんできた。乾いた夜の空に月が慎ましく浮かんでいるように、小石原さんは思慮深く蓮二の前で静かに微笑んでいた。
彼はどうなったのだろう。
その疑問を蓮二は口に出してみた。大友さんは唇をまったく動かさず顔を横に二度左右に振った。
 看護師はホワイトボードに書いてあった文字を消してマーカーで新しい文字を書き始めた。『いかがですか?受診することができますか?』蓮二はひとつ緩慢に肯いた。
 蓮二の脳裏は小石原さんの顔がいっぱいに占拠し続けていた。
『現金輸送車が狙われる確率は極めて低いんです。毎日運転して交通事故に遭う確率の方が何十倍、いや何百倍も高いんです』
とても低い確率に蓮二たちは遭遇してしまった。確立が低いなんて、本当にそんな統計があったのだろうか。かりにあったとしても、勤務しながら小石原さんは本当にそのように信じていたのだろうか。襲撃が行われた後では虚しい統計だけれども。
小石原さんがいなくなった今となっては自分の仕事がやけに無意味で、はかないもののように思えてならなかった。
大友さんはじっと見通しの悪い外の風景を見ていた。
でも彼女がこの病室にどうしているのだろう。
事件からどのくらいの時間が経過しているのだろう。
蓮二は口を動かしてみた。彼女は『事件の翌日の午後』と看護師が置いていったホワイトボードに書いた。でも、なぜ彼女がこの病室にいるのかは書かなかった。
蓮二は現実に戻り、身の回りのことを考えようと思った。
作之助はひとりで大丈夫だろうか。
孝司はこのことを知っているのだろうか。
いろいろなことに思いを巡らそうとした。しかし巡らすたびに頭のなかのあちこちが順番に悲鳴を上げた。

医師によると、ヘルメットを被っていたが、かなりの力で強打されたのが原因で、重い難聴になったのでしばらく入院して治療をするが、場合によっては手術をするという診断だった。
入院中、作之助の面倒を含め、警備会社の庶務や経理の社員が実家の食事、洗濯、掃除などをしばらく順番で行うことになった。
入院して三日目に孝司が病室に現れた。
孝司自身の症状はいっこうに回復の兆しをみせていなかった。
蓮二が寝ている頭の上の壁に立てかけてあるホワイトボードをとって孝司に渡した。少し大きいホワイトボードに取り換えられていた。
蓮二は耳が聴こえない。孝司は口をきくことができない。
ホワイトボードは蓮二たちにとって必需品だった。孝司はボードにマーカーで丁寧に書いている。ふたりがこのまま症状が回復しなかったら、ホワイトボードをずっと使用しなければならない。
ふたりが外で会う時は、いちいち持ち運ぶのは厄介に違いない。そんなことを思いながら孝司が書く文字を見ていた。
『お見舞いに来るのが遅れちゃって、ごめんなさい。僕はテレビとか新聞はほとんど読まないし、インターネットも最近はひらかないから、兄さんが事件に遭ったことなんか全然しらなかった。たまたま、スーパーに買い物に行ったあと、料理を作る気が起きなくて、定食屋に入って料理が来るのを待ちながら店のテレビを見ていたんだ。そうしたらニュースで事件の続報というのをやっていて』
 蓮二の目の動きをじっと見ていた孝司は、蓮二が肯くとホワイトボードの文章を消して、また書き始めた。
『それでニュースの途中、兄さんの名前がでてきた。本当に驚いたよ。それで、警備会社の場所を調べて直接行ってみた。電話で話すことができないから。それで入院した病院を教えてもらって』
 そこまで孝司は書くと、ふと何かに気持ちが運ばれたように視線を浮かせ物思いに耽るような顔をした。
「俺が孝司に連絡しなければいけなかった」
 蓮二は、自分の声がどれほどの大きさか判断できなかったので、できるだけ声を落とし孝司の表情を窺いながら話した。
彼の表情の変化で声の音量を調整しようと思った。
孝司はボードに続きを書いた。
『兄さん、具合はどう』孝司の顔は弱々しかった。
襲撃事件に遭った蓮二よりもはるかに身体的にも精神的にも限界点に達している。
蓮二は大丈夫というように頭を縦に強く振った。
『美伽がマンションの家賃を振り込まなくなった。当然だけどね。それで大家がでていってくれって。もうほとんど銀行の貯金がなくなってきた』
孝司のマーカーを握る右手が止まった。
動く気配はない。
蓮二は、精一杯手を伸ばし、孝司の手を握ろうとした。
丸椅子に座り、だらりと腕を垂らした孝司の左手首を手繰り寄せ、掌を開き、蓮二は孝司の手をしっかり握った。
冷たかった孝司の掌がしだいに蓮二の体温で温められていくのがわかった。
「あのさ、心配するなよ。家に帰ってくれんばいいんだから。じいさんはあんな状態だけど前の状況とは違う。孝司が出ていった時とは全然」。
孝司は新しい生活に彼なりの献身の姿を賭けていたんだと思う。
 孝司は蓮二が握った手を離さなかった。
蓮二は孝司のぬくもりから感じる波動を確かなものに感じた。
ホワイトボードが蓮二の足の付近に投げ出され、ボードに書かれた文字たちが静かにつつましく、ひっそりと待っていた。
孝司の書いた文字たちはとても謙虚だった。彼と同じように自分の運命を静かに受け入れているように見えた。
もう一度、帰ってくればいいよと言葉に出してみたかったが、言葉が喉に詰まってしまい、出てこなかった。
『そろそろ帰る』
孝司は一行だけ書いた。
書きながら孝司は握った左手を離さなかった。蓮二から握っていた右手を離した。孝司は俯きながら立ち上がった。
扉に向かっていた孝司は振り返り、一歩戻りボードを手にとった。
『また来る。かならず』
 孝司は蓮二にボードを渡すと身体に奇妙に力を入れて歩き、扉を開けて出ていった。蓮二は、白いカバーがかかる蒲団の上にボードを置いて孝司が書いた文字を見ていた。
角がなく柔らかい文字だった。左右均衡でどちらにも傾いていなかった。『かならず』のところを蓮二は何度も指の腹で触った。『かならず』はしだいに形を崩し、白いボードに溶け込んでいった。

 頭蓋骨にひびが入っていたが、脳の中身は取り立てて不具合はなかった。ただ聴覚はいつまでも回復しなかった。耳の一番奥のところで、蝉の鳴き声のようなジーという音が絶えず聴こえていた。
 病院の中庭の中央に円形の花壇があった。ピンクや紫の花弁が肩を寄せ合うように咲き乱れていた。その姿は入院しているものを慰めているようにも葬送する装飾のようにも見えた。
花壇の脇に一本の樹木が屹立していた。その樹に鳥たちが時々やってきて骨を休めていた。花壇に作業服を着た病院の職員が水をやっている。陽光に照らされ、細かい粒になった水滴は輝きを誇るように周囲に静かに語りかけていた。樹木で休憩する鳥たちの声や水滴がピンクや紫の花の内側に落ちていくかすかな音が蓮二には聴こえていた。聴力が豊かだった時に聴き取ることができない音だ。
消去された世界は意外にも魅力的な世界を連れて来た。
失うことは止まることではない。傷を負えばかさぶたができるように新たな準備は常に行われている。

 孝司は二カ月近い入院に三度見舞いにきた。
大友さんは一週間に一度、必ず金曜日の夕方の面会時間にやって来た。
 大友さんの声は聴こえなかったけれど、息を切らしながらやってきて、病室の丸椅子に座ると、ため息をひとつつく。その音が耳の中で再生される。その行いは決まりごとのように一週間に一度の周期で金曜日の夕方繰り返される。
彼女はいつも見舞い品を持ってきた。最初は桃やバナナやりんごなどの果物をスーパーの半透明の袋に入れてきた。果物が二回続いた後、次は和菓子にかわった。病院の近くの和菓子屋で買ってきたらしく、ウグイス色の包み紙にこの辺りの町名が印刷されていた。お萩や豆大福や桜餅が三段重ねになっていた。二度目に病院に見舞いに来た時、ちらりとサイドテーブルに見て落胆した顔をした。そこには先週の桃とりんごが乗っていたからだ。四回目は和菓子と花になった、花と言っても鉢に植わっているオレンジ色の花だった。小学校の校舎の花壇に植わっている、いかにも低学年が栽培しやすいような緑の葉が鮮やかな背丈の低いものだ。
『いつもなくなっちゃうお見舞い品ばかりだから』と大友さんは少し首を傾げながら恥ずかしそうにホワイトボードに書いた。
「この花は大きくなるの?」
蓮二は思いついた質問をそのまま言葉に出した。
大友さんは困った顔をしてしばらく俯いていた。
 大友さんは会社が終わり、どたばたと帰社するらしくいつもショートコートの下は紺色の地味な制服を着ていた。相変わらず右胸の『大友』という見なれた筆跡のネームプレートが安全ピンで制服に食い込み、よじれながらついていた。気温の変化や天候具合に関係なく彼女は左右不均衡の『大友』をつけていた。
『たぶん、このままの大きさだと思う。よくわからないけど。花は散るけど、季節がくればまた咲くと思う』彼女はボードに素早く書いた。
「また花が咲くまで、この病院にいたくはないのですが…」
彼女の表情の雲行きが怪しくなり、今にも崩れそうに見えた。
『そういうつもりで書いたんじゃなくて』
大友さんは震える手でいつもより乱れた文字で書いた。
 蓮二は桜餅を口に入れて落ち着こうと思った。こし餡が思いのほか甘かった。もぐもぐと口を動かしていると、扉が開き、孝司の顔が覗いた。彼は一瞬ぴくりと上体を動かした。蓮二の顔と大友さんの顔を見比べ、病室に入ってよいのか、蓮二の顔をじっと見つめた。
蓮二は微笑えもうとしたが、どこかぎこちなかったようだ。大友さんも蓮二の顔の変化を見ていた。
「早く入れよ」
蓮二の声はかなり大きかったようだ。
 孝司は軽く大友さんに頭を下げた。
丸椅子に座っていた大友さんは腰を浮かしたが孝司は手で制し、大友さんの上体は宙ぶらりんになった。
蓮二は弟ですと彼女をしっかり見て紹介した。こんにちはと大友さんの唇は動いた。
彼女は笑顔で立ち上がった。蓮二は大友さんに孝司が失声症であることを説明した。彼女の顔は少し曇ったが、すぐに持ってきた和菓子を孝司に勧めた。
 しばらく三人の間に沈黙が続いた。
その宿命的な沈黙を破るのは大友さんしかいない。
蓮二は米粒ほどの音の欠片も聴き取ることができない。
孝司は口から露ほどの言葉も滴ることはない。
大友さんが病室にいることがとても望ましいことのように思えた。大友さんは数秒後、にこりと顔を和らげ、印鑑を押すように義務的にゆっくりと肯いた。
「孝司、会社でお世話になった人だ」
蓮二は大友さんが和らいだ表情で沈黙のカーテンを揺らしてくれたことに感謝しながら彼女を紹介した。孝司もまたぺこりと頭を下げた。
大友さんはすぐにホワイトボードを取り、何か書き込み、ショートコートを着るとくるりと背を向けた。
『また来ます。お大事に』
 残されたボードの文字は、簡潔であったけれど冷たさはなかった。
 彼女は一度も振り返えらずに病室をでて行った。毎朝、タイムカードをレコーダーに差し込む社員の様子をじっと見ている姿に似ていた。
大友さんが出て行った後、孝司は丸椅子に座った。面会時間終了までの時間はそれほど残っていなかった。
 孝司はホワイトボードに顔を付けるように、黙々と文字を書き始めた。いつもよりスピードが速いように見えた。
『もう金がないし、マンションも大家から出て行くようにいわれたから先週、家に戻ったよ。じいさんから金を貰って買い物をし、料理をつくり、掃除をして、洗濯をしている。兄さんの会社の人がじいさんの世話に来たけれど断ったよ。自分がみますからと伝えた。申し訳ないけど、また家にいさせて貰う。いろいろ心配かけた』
蓮二は大きく肯いた。
孝司はしばらく俯いていた。
面会時間はあとわずかになっていた。窓の外はすっかり闇が下り、中庭の木々や花壇の花や、そこを根城にする昆虫や鳥たちは夜を迎える準備をしていた。
蓮二は孝司の顔を眺めたが、ひどく距離が離れた場所に彼の顔があるように見えた。
頭のなかが軋んで痛んだ。ひびが入った頭蓋骨が、それぞれの領域を主張するように烈しくせめぎ合っているような気がした。
蓮二は孝司に訊きたいことが山ほどあったが、どのような順序で訊ねればよいかわからなかった。逃げて行った彼女のこと。子供のこと。そして蓮二たちが生まれる前の血の継承や切断についてのこと。
時間だけが生真面目に過ぎていった。
ふたりは執行を待つ死刑囚のようだと蓮二はふと思った。
 病室に備え付けられているスピーカーから面会時間終了のアナウンスが流れた気配が孝司の様子から伝わった。
孝司は黙って丸椅子から立ち上がった。彼は一礼すると背を向けた。
扉からでてゆく孝司の背中は大友さんとは明らかに違っていた。硬い甲羅が背中に貼り付き、その重みに背中が歪んでいるように見えた。

 蓮二の聴力はなかなか元に戻らなかった。
 病院にいた時よりも幾分快方に向かっているような気がしたが、相変わらず蝉がジーと鳴くような音が間断なく聴こえていた。まるで耳底に昆虫を飼育しているようだった。誰かが何かについて怒る声や底なしの笑い声。哀しみが混じった声。人が感情の極限を声にしていることは認識できるものの細部の言葉は輪郭をなさなかった。
蓮二は難聴が理由で休職を強いられていた。
でもいつ完治するかわからない社員をいつまでも警備会社は、おいておくわけにはいかない。その上、今回の事件で、現金輸送車に乗務する者が、無能な若者と老人の警備員であったことについて、取引先の金融機関から信用を失い、マスコミは非難報道を展開していた。
コスト削減を第一義とする警備会社が社員採用基準や警備体制を刷新したため、身体がある程度回復しても警備会社に戻れる場所はない。
蓮二は家で静養するしかなかった。孝司と一緒に暮らし始め、蓮二と孝司は手話を覚えることに決めた。
蓮二は、自分の意志は言葉で伝えることができるが、相手の声に代わる聴き取る手段が必要だった。逆に孝司は相手の要求は把握できるが、自分の意志は言葉で伝達できない。  
二人に共通の伝達手段が不可欠だった。
先に失声症になった孝司は生活の様々な場面を想定して自主的にかなりの単語を覚え始めていた。
蓮二の耳が不自由になったため、手話が家のなかで本格的に威力を発揮することになった。蓮二は、まず手始めに『NHKみんなの手話』という週一回(再放送一回)を見るようにした。
慣らし期間というか、いきなり詰め込んでしまうと嫌になってしまう予感がしたからだ。(この辺のところは孝司のアドバイスもあった)そして、『手話ニュース』という聴覚障害者向けのニュース番組も欠かさず見るようにした。
蓮二は学生の時から英語が極めて苦手だった。手話も英語と同じように難儀するのかなと不安を抱えながらテレビ番組を見ていた。どうやら、手話の表現は語源があるようで、それと一緒に記憶すると単語もうまく頭に刻み込まれるのを知った。それでも繰り返しやらないとなかなか記憶として定着しなかった。
練習相手の孝司が身近にいたので、学習したばかりの表現をすぐに使うようにした。英語の学習と違い、手話が人とのコミュニケーションと生活をうまく進めていくための手段として重要なものだった。
手話の全体像を摑み始めると地域で開かれる『手話講習会』有料の『手話教室』そしてEコマースで『手話単語事典』を購入し、『手話通信教育講座』も申し込んだ。
実力レベルは急速に孝司に近付いていった。
孝司は作之助の面倒や家事全般を行っていたので、手話習得に割く時間は限られていた。
手話で大切なのは、手ぶりで単語を単に表現することではなかった。相手の目をしっかり見て、気持ちを込めて自分の言いたいことを表現する。それが手話において重要なことだった。
ふたりの表現は機械的であり、手旗信号のようで、伝える内容を包含する感情に欠けていた。連二と孝司は母の咲子が残していった鏡台の前に並び、顔面の筋肉と両手を動かしながら大袈裟な表情を作った。
家のなかでふたりが手話で会話をするときは特別な停滞はなく、ゆったりしたペースながら相手の意図することは十分に把握できた。ただ、『手話教室』などで、聴覚の不自由な人たちとの会話ではどうしても豊かな表情を作ることができない。
二人は、それぞれ大事な器官の機能を喪失してしまったことで、相互に求め合い、譲歩し、相手を気遣う感情が芽生えていた。
子供の頃にふたりが寝起きしていた和室で、時間の許す限り向かい合った。長い時間を経て二人はまた同じ場所に戻ってきたのだ。蓮二と孝司は互いの目線を外さないようにして、両手を繰り返し動かした。まだ体得していない単語を表現したい場合や言い回しの表現がわからない時は、一端会話を中断し、横においてある『手話単語事典』や『手話通信教育講座』のテキストを見ながら確認した。
その日、いつものように向かい合って手話の訓練をしている時、蓮二は、入院中から思っていたことを手話で表現しよう試みた。特段手話で伝える必要はないが、事前に単語を調べ、前の晩、天井を見ながらひとりで練習した。蓮二にとっては挑戦だった。
『僕は、会社を辞めようと思う。会社ではもう使い物にならないし。僕を受け入れてくれる場所は会社のどこにもない』
孝司は少し考えるような素振りをした。
『それでどうするの?』 
『この写真館をやろうと思う。おやじの仕事を見てきたし、カメラは子供の時から興味があったし。少し勉強すれば』
孝司はえっという顔をした。
『じいさんは時々スタジオで、何かごそごそやっている』
 孝司は両手でいつもより大袈裟に表現した。そして、作之助の様子を詳細に再現するため、立ち上がり上体を傾けたり、両手を回転させたりした。
『じいさんは写真館の仕事は無理だ』孝司は手話をするのも、もどかしいかのように顔を縦に強く動かした。
『写真家だったころが蘇っているらしい。何かを撮影しているけど、何を撮っているのかわからない。夢の中で昔の姿を追っているみたいだ』
『奪うことになるのかな?』
 孝司が廊下の様子を窺っていた。孝司の耳に階下から音が聴こえているようだ。その音を孝司は気にしながら手話の表現を頭のなかで組み立てた。
『じいさんの勝手にさせておいていいと思う。木梨写真館の名前で仕事をしているわけじゃない。写真機を動かし、ごそごそやっているだけだ。兄さんは兄さんで、この写真館の名前で仕事をすれば』
 孝司は先ほどと同じように『ごそごそ』というところを強調した。
『それで孝司に頼みがある』
 蓮二は手話でなく、はっきりとした声で孝司に言った。
 蓮二と孝司は欠損したものを補える相手だった。
聴覚能力をほとんど失った蓮二が単独で写真館の仕事を行っていくことは不可能だ。スタジオ撮影で相手の希望を訊くこと。駄々を捏ねる子供が何を要求しているのか。入学式の記念撮影で関係者の要求を訊くこと。DPEの受付でのお客さんとのやり取り。
何をとっても蓮二ひとりではできないのだ。

 蓮二は写真学校の『プロカメラマン一年コース・週三回』に孝司と一緒に通うことにした。
講義やアドバイスを孝司が聴きとり、手話で蓮二に伝える。その共同作業に学校は最初よい顔はしなかった。カメラノウハウをふたりに教えることになるので二人分の授業料が必要だと言われた。こういう時は身体的不利を有利な方に導いてゆくしかない。写真学校は入学者の減少で、ひとりでも多くの授業料を欲しがった。交渉の末、一・五人分の授業料で折り合った。
警備会社から支払われた見舞い金と退職金と保険金を足し上げ、当分の生活費と学校の授業料に充当した。
作之助は相変わらずごそごそやっていた。
写真機を磨いたり、写真館の外に出て、通りを行く女性をよろけながらシャッターをきっていた。若い頃、その当時は珍しかった女性専門のカメラマンをやっていたことが甦ってきたのだろう。
蓮二は週三回、孝司と休むことなく写真学校に通っていた。たいして役に立ちそうな授業内容ではなかったが、写真館を再開するにつき、写真学校卒業の証明書だけは残しておきたかった。

その日は朝から雨が降り続いていた。空気に紛れ込む霧雨だった。初秋としては冷たい雨だった。空はどんよりと重たい灰色の雲が低くたれこめていた。
蓮二と孝司は写真学校の授業が終わり、駅のホームのベンチに座って電車を待っていた。風がしだいに強くなり、霧雨が蓮二と孝司が座るホーム中央のベンチまで吹き寄せていた。
線路をはさんだ建物の上に設置されている大型屋外モニターからリアルタイムでテレビ番組が流れていた。夕方のニュースが始まるところだった。液晶画面には大きなターミナル駅が映し出されていた。その駅はJRと地下鉄と私鉄が連絡していた。
上空のヘリコプターの映像が霧雨に煙る駅を俯瞰で捉え、しだいにカメラはフォーカスを絞り込んでいった。画面が切り変わり、駅の改札に続くコンコースが映し出された。
数人の警察官がひとりの人間を取り込んでいた。その人間は床に座っていた。警察官に囲まれ、顔が暗い影に覆われていた。取り囲む警察官は丈が短い雨具を着て雨に濡れ光っていた。その滑るように光る雨具と雨具から滴り落ちる水滴は、外から急行した様子をリアルに表していた。
その時、警察官の足元から少し離れた地点がアップになった。赤黒い塊が床の上に所々濃淡をかえて円形に広がっていた。カメラがアングルを振ると公衆トイレの入り口が表われた。
テレビモニターの画面は事件の異常性を示していた。
孝司は霧雨の壁の向こうに山並みを見るように目を細めてテレビモニターを見ていた。モニター画面は駅のコンコースを出て、雨に濡れる駅前にカメラが移動していくのを映し出していた。駅前のアスファルトにはいくつもの血だまりが生々しく残っていた。蓮二は息を呑みながらモニターを見上げた。
ライブ映像の画面は、警察官が取り囲んでいた人間の腕をつかみ、引き上げる様子を映し出した。その人間はなされるままにだらりと項垂れながら立ち上がった。
影に沈んでいたその人間の顔が現れ、画面一杯にアップになった。
ホームに電車が滑り込んでくる気配が伝わった。
モニター画面は警察官に囲まれていた人間が、老人であり、蓮二、孝司と住まいを同じにする男であることを証明していた。
霧雨を弾き飛ばしながら、電車がホームに滑り込んできた。モニター画面は電車に視界を塞がれた。
蓮二は声を出した。何を言ったのか蓮二は覚えていない。
孝司は画面に表われたものが現実のことには思えなかった。
作之助が劇中の役を演じているように思えた。
電車がホームから去ってもニ人は無言でベンチに座っていた。すでに屋外テレビモニター画面は別な番組を流していた。
空気はつむじ風になり、ふたりに細かい雨粒を撒き散らした。ふたりは動くことができなかった。でも次の行動を起こさなければならい。蓮二と孝司は、空き地の土管のなかで雨が止むのを待つ子犬のようにじっとホームのベンチに坐っていた。

蓮二と孝司は何本か電車をやり過ごし、やっと現実に戻りかけた時、やって来た電車に飛び乗り、屋外テレビモニターに映っていたターミナル駅に向かった。
駅のコンコースや駅前の広場にはロープが張られ、数人の警察官が立っていた。そのロープのなかには血だまりが残り、鑑識が膝を折り作業をしていた。公衆トイレの入り口は私服の刑事や鑑識が慌ただしく出入りしていた。
蓮二はロープの前の警察官に声をかけた。事情を説明し、警察官が回答した言葉を孝司が手話で蓮二に伝えた。
駅ターミナルから近い警察署に作之助は連行されていた。
作之助の取り調べは続いていた。
蓮二と孝司は、取り調べ室のような暗く、湿った狭い部屋で待たされた。
地下一階の部屋はどんよりした空気が籠っていた。二人は手話で会話を交わすこともなく、夜のニワトリのように肩を寄せ合いじっと坐っていた。部屋の扉がそろりと開き、額に皺が刻みこまれた四角い顔の中年の男とすらりと高い若い男、そして、制服を着た女性警察官が入室した。
四角い顔の男は、隣にいる背の高い男が、担当の刑事であることを説明した。その説明の間、制服姿の女性警察官が手話を操り、二人に翻訳した。
刑事が状況を説明し、女性警察官が手話で表現した。
「非常に困っております」
中年の刑事は額の皺を更に深くし、眉間に皺を寄せた。
「取り調べは、年齢のことを考慮し、休憩に入っております。休みを多く取りながらこれからも行うことになるでしょう」
 刑事の唇がわずかに開き、ふうと息を吐いたように見えた。
三人の警察官は立ったままだった。四角い顔の刑事は両手を後ろ手にして蓮二と孝司に背を向けた。
「ご高齢ですし、気持ちが混乱していると思うのですが…供述する様子が少し変わっていまして…まあ、言い方は失礼かとは思うのですが…」
女性警察官は丁寧にゆっくり手話で説明した。
耳が聴こえる孝司は彼女の手話で不足している言葉を追加した。
「申し訳ないですが、そもそも事件の概要というか、どうしてこうなったのかわからないのです」
蓮二は、声に出して言った。
「わかりました。どうしてこうなったのかは私共の方が知りたいくらいですが、今まで判明し、お話できる範囲で状況を説明しましょう」
 中年の刑事は向かいの椅子に辛そうな表情で坐った。ほかの二人は立ったままだった。
「事件が起きた場所はご存じの通り、駅とデパートが一緒になっている複合ビルです。デパートの店舗街から駅のコンコースに向かう角の場所にある公衆トイレで事件は起きました」
 女性警察官はゆっくり自分の両手の表現を確かめるように手話を表現した。
蓮二や孝司よりも明らかに未熟だった。孝司はその動きにじれたように、中年刑事の言葉を先に手話で蓮二に伝えた。
「あなたがたのおじいさんである、ええと…木梨…木梨作之助さんですね。失礼しました。作之助さんが公衆トレイで人を刺しました」
蓮二と孝司は説明を始めた中年刑事から視線を外すことはなかった。
「用を足していた七十九歳の老人の背中をいきなり持っていたナイフでひと突きしました。蹲ったその老人の身体を起こして、二、三回腹のあたりを突きました。それから持っていた傘の先を、ナイフで突き刺したところにぐりぐりとよろけながらめり込ませたようです。トイレにいた高校生が証言しています」
女性警察官は幾分顔をしかめ、どのように言葉を表現してよいか戸惑っていた。孝司の手話は淀みなく続いていた。
「まあ、かなりのご高齢ですから、身体がいうことをきかなくなると思うのですが、倒れながらも入ってきた中年の男性にも切りつけたんです。トイレにいた高校生は、その奇怪な表情にすくんでしまい、身体が動かなかったそうです」
中年の刑事は両腕を組んで天井に顔を向け両目を閉じた。
「それから、その高校生によると、何かわけのわからないことというか、異常な声をあげながら、刺していたそうです」
「どんなことを言っていたのですか」
蓮二は声を出して訊ねた。
「『おまえがいたから、おかしくなった』とか『かえせ、かえせ』とか言っていたらしい。トイレで刺された老人はトイレから這いながら逃れてきたのですが、そこで意識が途絶えました。残念ながらその方は亡くなられたので、先ほど遺族の方に被疑者を見てもらいましたが、亡くなられた方とは恐らく知り合いではないだろうとおっしゃっていました」
蓮二は作之助とスタジオの中で二人だけで話したことを思い出していた。
孝司は淀みなく続いていた手話が途切れ途切れになっている。
「それから……」
中年の刑事は立ち上がり、話の続きをしようとした。蓮二と孝司は伏せていた顔を刑事に同時に向けた。
「ふたりを刺した後…被疑者は女子トイレに向かいました。男子トイレの隣に女子トイレはあります。這うようにして辿りついた被疑者はちょうど鏡の前で化粧を直していたデパートの女性店員に背後から叫んだそうです」
刑事は少し間を持たせた。
「『俺はフリーのカメラマンだ』『おねえさん、どんな写真も撮ってあげるよ』『裸の写真も得意なんだから』って叫んだそうです。声は野太く、よく通る声だったそうです。振り返ると老人が這いつくばっていたので、その若い店員は叫び声をだしたそうです。そうしたら、持っていた血のついたナイフで腰のあたりを刺され、必死で人通りが多い駅前の広場にふらつきながら懸命に逃げました」
 そこで刑事がふうと息を吐いたのが蓮二に聴こえそうな気がした。
若い女性警察官は、頬を赤らめ、少し興奮しているように見えた。手話の動作はせずに中年刑事の話に聴き入っていた。
孝司は時々手を止めながらも、蓮二の方をちらちら見ながら話の内容を伝えようとした。
「七十九歳の男性が亡くなりました。そしてサラリーマンとデパートに勤務する若い女性が重傷を負いました」
中年の刑事は壁際をしばらくうろうろした後、再び椅子に坐った。
「こういう事件は社会不安を起こすんです。ですから予防も重要ですし、被疑者にはきっちり責任をとって貰わなければならない。当然のことです」
中年の刑事は、右手の五本の指を広げ、机の上で小気味よくトントンと二回鳴らした。孝司の手話がおわると、蓮二は刑事の顔をまじまじと見た。
「でも今回は被疑者が高齢です。取り調べで何ひとつ事件の供述がえられない。要領を得ないんですよ。『俺の写真の腕は凄い』とか『俺の娘を返してくれ』だとか『なぜ警察は俺の女房を助けなかったんだ』とかね。調べさせて頂きましたが、写真館をおやりになっていたそうですね。いろいろご事情はあるでしょうが…ご兄弟で身体がご不自由ですし、何かと大変かと思いますがね……」
『俺の娘を返してくれ』という言葉を手話に直しながら、その後孝司は『どういうこと兄さん』と両手を動かした。
蓮二は頭を振った。
今は、そうするしかない。
「鑑定が必要になってくるでしょうなあ。これで責任が問えないとなったら、亡くなられた方が浮かばれませんが」
刑事は立ち上がり、若い刑事と途中から手話の仕事を放棄した女性警察官に顎先で合図して部屋を最初に出た。
若い刑事が出る間際に、当分は被疑者には面会できないこと。捜査協力の依頼を二人に伝えて出ていった。
孝司に何から話せばよいかわからなかった。でもいつまでも黙っているわけにはいかないことを蓮二は充分承知していた。
暗く湿った部屋に残された蓮二と孝司は、世の中から隔離された存在のように思えた。もうひとりこの同じ警察署の建物のどこかの部屋で、完全に壊れ、操縦不能になった作之助がいる。
隣で壁をぼんやり見ていた孝司の肩を右手でゆっくり軽くたたいた。
この先どのような運命が待ち構えていたとしても生きていかなければならないのだ。

蓮二と孝司は写真学校の過程を終了する前に写真館の仕事を始めることにした。
デジカメのプリントの焼き付けがほとんどだったけれど、それなりに仕事があることは励みになった。
作之助の事件が写真館の仕事に影響を及ぼすかと思ったが杞憂だった。
商店街の人たち。久雄が写真館を取り仕切っていた時の馴染みの客。区役所の福祉関係の職員の協力で思ったよりも写真館に訪れる客が多かった。
作之助は鑑定を受け、弁護側は彼には責任能力がないと裁判で主張をしていた。
蓮二と孝司は仕事をする時はいつも一緒だった。区の記念館で行われる結婚式。結婚披露宴の撮影。子供の誕生日会の記念撮影。ヤクザの顔役の襲名披露。頼まれれば、相手の予算額に関係なく引き受けた。
ふたりには選択肢はなかった。
生活のためでもあったが、仕事をすることにふたりは飢えていた。
プリント関係のお客さんが写真館に来ると、孝司が客の要望を訊き、手話で蓮二に伝え、出来上がりの時間などを蓮二がお客さんに言葉で伝える。
出張の記念撮影も披露宴も写真館のスタジオで行う七・五・三の撮影も要領は一緒だった。
蓮二と孝司はふたりでひとつ仕事を完遂させていた。

 しだいに写真館が軌道に乗り出した春の日。中学校の入学式の記念撮影の仕事を終え、写真館に戻ったのは午後二時頃だった。
写真館に近付くとひとりの女性が入り口の前に立っていた。小石を蹴るようにウグイス色の靴の先を時々上に向けていた。彼女は横に置いてある幾分旧式のキャリーバックに手を掛けていた。
蓮二と孝司が近付くと、蹴っていた靴の先を止め、ふたりに顔を向けた。スプリングコートの裾が春風にひらりと舞い、靴より少し濃い目の緑色のスカートが覗いた。
「大友さん」蓮二は彼女の名前を当選番号を読み上げるように、丁寧に一語一語丁寧に言った。
人の名前を言うのは久しぶりのような気がした。
大友さんはふたりが近付くと、ほっとした表情を浮かべ、にこっと柔らかく笑った。
『こんにちは』大友さんは手話で挨拶した。
もう一度彼女は笑った。
『手話を習い始めたんです。まだぎこちないですけど』
 大友さんの両手の動きは本当にぎこちなかった。
でも両手を動かす時の表情は生きいきと躍動していた。手話を使い始めた期間が長い蓮二と孝司よりも、よほど相手に伝達する意志が強いように感じた。
彼女は、タイムレコーダーの隣に座っている無表情な顔つきとは明らかに違っていた。
『どうして手話を覚え始めたんですか?』蓮二が言うと孝司は強引に二人を家の中に引き込んだ。
三人は自宅の入り口ではなく写真館のドアから入った。
大友さんは、写真館に入ると受付カウンターの付近で立ち止まり、引いていたキャリーバックから手を放した。カウンター付近からわずかに見えるスタジオの中を首を曲げて覗いた。
『床や壁に染み込む古木の匂いですね。わたし、とてもこの匂いが好きなんです。何だか足元からだんだん溶けてゆくような感じがします』大友さんは喋りながら同時に手話で表現した。
『地下鉄の匂いとかも好きなんです。子供の頃その匂いが好きで、学校からの帰り道、駅の改札口の辺りとか、地上に開いている隙間とかにずっといて匂いを嗅いでいました。駅員に不審がられて自宅に帰されると、その駅はやめて、他の地下鉄の駅にするんです』
 大友さんは両目を閉じた。彼女の目蓋の裏側には何が映っているのだろう。
『でも営団地下鉄じゃないとダメなんです。都営地下鉄の匂いじゃない。この間、大阪に行ったんですけど…大阪の地下鉄も違う。この匂いじゃないって感じた』大友さんはスタスタと先頭に立ってスタジオに入っていった。
キャリーバックも右手で引いていた。二人も引率されるように彼女についていった。
『ぐっと濃いですね』彼女は喋りながら両手で表現した。
 大友さんはスタジオの隅にある撮影用の椅子に近付き、スプリングコートを脱ぎ、肘掛けに掛けた。胸には『大友』という見馴れたネームプレートはなかった。さっぱりした白いブラウスを着ていた。
『突然お邪魔してすいません』手話をしながら蓮二と孝司の目を順番にしっかりと見た。
『会社辞めたんです』ネームプレートがない彼女はとても新鮮で魅力的だった。
『あのような事件があると、責任がどうだこうだ。犯人にその日の巡回ルートを君が教えたんじゃないか。もしかして、報酬なんて貰っていないだろうねとか。会社の偉い人たちが何度もしつこく、いつまでも訊くんです。警察に聴取されるのは当然なんですけれど、もう会社中、疑心暗鬼の塊みたいになっちゃって』大友さんはスタジオの壁を食い入るように見ていた。
『迷惑かけて申し訳ありません』蓮二は言葉を口に出して謝罪した。
『そんなことないですよ』大友さんは頭を下げて両手を素早く横に振った後手話に翻訳した。
大友さんは瞳を大きくして蓮二を見た。
『地下鉄の匂いがたまらなく好きなわたしとタイムレコーダーの音に目を閉じる木梨さんは何となく、どこかで似ているような気がして……直感ですけど』真っ暗な口から赤い舌の先をちらっと出した。
『何度もお見舞いにいくうちに手話を覚えようと思ったんです。うまく言えないけれど。余計なことが全然なくて。言葉がない世界はとても居心地がいい。わたしいつも喋っていると大袈裟になったり、自然と嘘ついたり、どうでもいいことを長々喋っていることに気がついて…』
『木梨さんに悪いと思うんですけど、事件があって新しい世界が見えて扉をたたいたんです。もうあの会社にいる気がしなくて…手話も講座で始めて…』彼女は次の言葉を探していた。
『木梨さんたちと一緒に暮らせれば…』大友さんの手話が中断した。
手品師がしくじってしまい、途方に暮れたような感じだった。
両手をどのような軌道にもっていこうか、困惑した姿に見えた。蓮二と孝司は顔を見合わせた。
『…無理にと言っていません。下宿人がひとり増えたと扱っていただければ……もちろん下宿代は支払うつもりです』大友さんの希望は蓮二には少しも意外なことには思えなかった。
『ネームプレートをまた付けなくてもいいように……』
 蓮二が気持ちのままを話し始めた時、孝司が感情を込めた手話をみせた。そして最後に右の人差指を上に二回突き上げた。
『そうだね。奥の部屋を使ってもらえばいいね』蓮二ははっきりとした声で言った。
『もう、わざとネームプレートをひねくれたように胸の制服にしなくてすみます』大友さんはにこりと今度は唇をわずかにあけて笑った。
とても自然で素直な笑い顔だと蓮二は思った。
『わざとひねくれたようにつけていたんですか?』
『木梨さんはわたしの制服の右胸にいつも視線を合わせていたから、多分、ねじ曲がったわたしの心まで見透かされてしまっているような気がして、いつもドキドキしていたんです』
 孝司が先頭に立って写真館の扉を出て、自宅の入り口から二階に続く階段を上り始めた。蓮二は大友さんのキャリーバックを両手で身体の前に持ち、階段を慎重に上がった。
孝司は奥の部屋に入り、閉め切っていた窓を開けた。
少しかび臭かった部屋の中に春らしい柔らかく気が抜けるようなそよ風が流れ込んだ。三人は黙って新鮮な空気を味わいながら黙っていた。
大友さんはじっと目を閉じていた。
『僕が使っている部屋だけど、よかったら使って下さい。以前は両親が使っていた部屋です。後で掃除しますから』と孝司は表現した。
そして丸められたティーシャッを足で部屋の隅に寄せ、ポテトチップの空の袋を拾い上げてズボンのポケットに突っ込んだ。
『気にしないで下さい。掃除はわたしがやりますから。あなたはどうするんですか?』
『一番手前の部屋が空いています。子供の頃兄と使っていた部屋です。子供の頃はずっと同じ部屋だった。今、兄の部屋は真ん中です』蓮二は孝司の顔を見た。
『スタジオで記念撮影でもしませんか』孝司は、ウキウキしながら弾むような手つきで手話で大友さんに伝えた。
とても自然な姿だった。孝司の人生でこのような表情はどのくらいあったのだろう。
大友さんが言ったように扉をトントンとたたいて扉が開いたのだ。
 今度は蓮二が先頭に立って階段を下りた。ふたりはすぐについてくるかと思ったが、振り返ってもふたりの姿は見えなかった。
蓮二は先にスタジオに入り、写真機の位置や照明や椅子をセッティングした。
 孝司と大友さんはしばらくして手話をしながらスタジオに入ってきた。
孝司は今まで見たこともない豊かな表情で大友さんと手話を交わしていた。スタジオに蓮二がいないかのようにふたりは話し込んでいた。
 椅子を中央に置き、そこに大友さんに坐って貰うことにした。彼女の後ろの左右に蓮二と孝司が立つことにした。右が蓮二で左に立つのが孝司になった。
 大友さんはネームプレートがない白いブラウスをあちこち触ったり、スカートの裾あたりを整えたりしていた。蓮二と孝司は中学校の入学式の記念撮影から帰ったばかりなので、スーツとネクタイという格好だった。大友さんはふたりのスーツ姿と自分の服装が不釣り合いではないかと心配した。孝司が表情豊かに彼女を説得すると微笑みながら椅子に腰かけた。
 オートシャッターで二回記念撮影をした。
皆『記念撮影』と呼ぶことで自分たちのどこかに新しい出発を刻み込んでゆきたいと思っていたからだろう。
 スタジオの隅にチェストが置かれていた。黒のフェルト地の布が埃を被って白くなっていた。どうみても長年誰にも触れられることがなかった証だった。チェストの抽斗には円形の鉄の把手がついていた。大友さんはそのがっちりした古風のチェストが気になったようだ。円形の把手を握り、上下に揺すった。
彼女の手の動きを見ていると、多分チェストと把手が触れ合う音がスタジオのなかで鈍く鳴っているんだろうと蓮二は思った。その音は思慮深く、暗示を感じさせる音であった筈だ。
蓮二は目を閉じ、チェストと把手が弾け合う音を想像にしてみた。目蓋を上げると大友さんがチェストの一番上の抽斗を開けていた。隣で孝司が抽斗に手を入れてごそごそとやっている。
 孝司が両手を身体の近くに引き寄せると唐草模様の表紙の分厚いアルバムが出てきた。
それは写真館の仕事で使われていたというよりも、行き場がなく、たまたまそこに寝かされているかのように見えた。形の不揃いなプリントが唐草模様の表紙から半分はみだしたりしていた。孝司は白くなったフェルト地の布を掌でさっと払うとアルバムをチェストの上に置いた。照明の光度が低いチェストの回りでも、埃が灰のように舞っているのが見えた。
孝司は振り返り、蓮二を見ると、唇の間から舌をペロッと出した。
 孝司は分厚いアルバムの真中あたりを開いた。
 いくつもの写真が弾かれたようにページの間から飛び出してきた。そのほとんどが、複数の人物が映っている写真だった。孝司は一枚一枚をゆっくりそこにいる人を確認するように眺めていた。
 蓮二はしばらく孝司と大友さんの背後にいたけれど、近寄ってアルバムに貼られたり、挟み込まれていたスナップを孝司の肩越しから覗いた。
 孝司が右手でつかんでいた写真にこの写真館で暮らしていた人たちが写っていた。ある者は集団の塊からはずれ、レンズを向かずにそっぽを向いていたり、被写体になることに無関心を装う人間もいた。およそ写真館の家族の記念撮影の図柄とは思えないものだった。
 人物の背景には客船のような豪華船が横たわっていて、その船首が人間たちの上で威厳を見せていた。
 こんな場所に行ったことがあっただろうか。蓮二は記憶を辿ってみるが、どこにもこの風景を見つけることができない。
 一番前の列の左に眩しそうに顔を歪めているのは蓮二だ。三歳前後だろう。そうすると母の咲子に抱きかかえられているのは孝司ということになる。
祖父の作之助は後ろの列で顔を背けるように豪華客船の船首の方を関心なさそうに見ている。その隣で祖母のトミ子が作之助の腕にもたれるように身体を寄せ、和服の襟に手をやっている。父の久雄は照れるような表情で右手を頭の後ろに持ってきて、口をほころばせている。とても写真館の主人には見えない。母の咲子は孝司を抱きながら、久雄の身体に半分隠れ、いつものように輪郭が曖昧な翳になり孝司を覗きこんでいる。そのとなりで泰造がジャイアンツの野球帽をかぶり背筋をのばしている。
 ここに写っていない家族がいたことを蓮二は作之助から聴かされていた。
この写真に写るちぐはぐな家族から今、蓮二と孝司がこの家に残っている。
そして、蓮二と孝司と大友さんが記念撮影をして、家族ではないけれど新しいユニットとしてひとつの家に住もうとしている。こういう形態を世の中ではどのように言うのだろうか。
ひとつひとつは凡庸な欠片だけれど、三つ合成すると見違えるような輝きを発する。そんな具合に三人は暮らし始めようとしている。
岸壁に立つ家族の写真を見ながら、聴覚をほとんど失った蓮二の耳に汽笛のような音が聴こえてきた。その、もやっとしたものは、音の輪郭を整えながら大きくなり、蓮二の耳の一番深いところに定着した。
音楽。
なんという曲だっただろうか。久しく聴くことがなかった曲が耳に届き、しばらく音に慣れていなかった蓮二は、どのように応じたらよいか戸惑った。
神経を集中して聴き入ってみる。
『ピーシーズ・オブ・エイプリル』
 四月のかけら。
 その時から写真の裏側から音楽が聴こえてくるようになった。
それぞれの写真に登場する人物が抱えて来た想いが音楽になる。
写真に写る人の気憶が音になって立ち昇る。
聴覚を失った蓮二は扉をたたいた。
向こう側の世界は、静謐な音楽に満ちていた。
耳が聴こえていた時よりも、しっかりと音が聴こえるような気がした。
 蓮二は新しい世界に遭遇したのだ。
 大友さんが手話の世界の扉をたたいたように。
                                   (了)
                           
                           
 
 

 
 

 
 
 

 

 
 
 
 
 


 

 


 
 
 

 


 
 
 

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