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『ぼっち・ざ・ろっく!』の描く努力と成長/喜多郁代ちゃんへの祈り

「努力は おしまない ダイスキは 裏切らない」

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私の好きな言葉だ。
「努力は裏切らない」という言葉は巷でよく言われるフレーズだが、私は信じていない。たとえば優劣をつけられるようなコンクールや勝ち負けのある大会で、落ちた方が負けた方が努力が足りていなかったなんて思わないからだ。

でもこの言葉を聞くと、「努力をしようと思ったきっかけは、原動力は、ダイスキは、裏切らないかもしれない」と思える。
努力の結果として辿り着く場所は、努力だけではない偶然の運や好き嫌いが左右されて正しく評価されなかったり、自分の思ったようにいかなかったりしても、ダイスキだけは形を変えて救われるのかもしれないと思える。

「今作には『何かに打ち込み、努力を重ねれば、理想の形で報われる事は少なくても、必ず何らかの形で自分の力の一つになる』という思いを込めています」

「エレキギター まだまだ魅力」、朝日新聞、2023年3月20日日刊

これは、はまじあき先生のインタビュー記事の一文である。私が『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きな理由はこの文章に詰まっていると思った。

『ぼっち・ざ・ろっく!』は、主人公・後藤ひとりが「バンドは陰キャでも輝ける」と耳にしてギターを手に取り、ちやほやされることを夢見る。しかし、簡単にはいかない。夢見ていたバンド活動をいざ始められても彼女の想像する陽キャには結局程遠く、アルバイトを始めても笑顔で接客することはできない。でも、彼女は物語の中で確かに成長していく、変わっていく。

その丁寧で繊細な描写が好きだ。それは、はまじあき先生の作品に込めた思いがあったのだと思う。
このnoteは、漫画『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想文であり、朝日新聞 2023年3月20日日刊の感想文であり、そして、まんがタイムきららMAX 2023年5月号の展開を踏まえた喜多郁代への祈りの文である。

後藤ひとりの努力と成長

後藤ひとりにとっての「はじめの一歩」、努力観

作中全編を通して後藤ひとりの努力と成長が描かれている作品ではあるが、中でも印象に残っているシーンとして、アルバイト初日のシーンを挙げる。

1巻39-40ページでライブハウスSTARRYではじめてのアルバイトをし、頑張ってお客さんの目を見て接客をした後、伊地知虹夏が「ぼっちちゃんも一歩前進だね!」と言ったのに対して「一歩!?!?千歩くらい進んだつもりだったんだけど…」と内心ショックを受けるという場面。
第三者からは一歩に見えることが後藤ひとりにとっては千歩ほど遠くまで歩いたように思う。「ちゃんと人の目を見て接客する」という行動一つとっても、後藤ひとりがどれだけの勇気を振り絞っていたのか、努力したのかが痛切に感じられるモノローグである。

喜多郁代とのかかわり

さらに、後藤ひとりの努力に対する思想が垣間見えるシーンとして、喜多郁代との関わりがある。

1巻56-57ページで「結束バンドには入れない」と話す喜多郁代に対して、「努力の才能は人一倍あるから大丈夫です…」と答える場面。
喜多郁代はギターが弾けないためライブ当日になって結束バンドから逃げ出した、と話しているにも関わらず、ギターが弾けないという努力の結果に関わらず、指の先の皮が硬くなっているほど練習している喜多郁代の努力そのものを後藤ひとりは肯定するのである。

また、3巻71-73ページでは普通じゃない道を歩く人生に憧れて結束バンドに加入し頑張っていても、山田リョウや伊地知虹夏たち先輩のような音楽の下積みも、後藤ひとりのような情熱や才能もない、自分には何もない、と吐露する喜多郁代に対して、「私たち意外と共通点ありますよね」「喜多さんも私もバンドを通して自分を変えたいって思って音楽やってる所」「私にとってその感情が共有できれば歌ってもらう理由は十分だと思う」と答える場面。
この場面においても、自分には何もないと思っている喜多郁代が今何を持っているのか、努力の結果ではなくて、変わりたいと音楽をしている努力そのものを肯定しているのである。
たった一歩に見える行動も千歩に感じられる後藤ひとりだからこそのまっすぐな言葉であり、だからこそ喜多郁代に届くのだと思う。

”陽キャ”にはなれない後藤ひとり

そうして努力していく後藤ひとりではあるが、先述したように簡単に変わることはできない。

結局のところ現時点で後藤ひとりは思い描いていたようなバンドマンにはなれないし、彼女の望む本当の意味でのギターヒーローにはなれていない。陰キャで根暗でコミュ障な後藤ひとりのままだ。
でもそれでいい、陰キャな後藤ひとりのままで良いのだと私は思う。
変わりたいという気持ちのまま歩き続けていたら、その先で出会った誰かに救われたり、誰かを救ったりすることがあるのだとするのが本作であると感じる。

(特にアニメ版が顕著に描かれているシーンではあるが)2巻で行われる文化祭ライブは、後藤ひとりが何度も何度も脳内で行っていた妄想と実際に広がった目の前の現実は違う。
現実では想像と違ってアクシデントに見舞われるが、自分を応援しに来てくれた家族やファン、先輩やクラスメイトがいて、隣には結束バンドの仲間がいて、一人ではないと気づく。
4巻で終了を迎える未確認ライオットでは、結束バンドは当初掲げた目標には届かないものの、バンドとしてかけがえのないものを手に入れる。

努力の結果は何かとして報われるのだと改めて思う。理想の形ではなくても、「君に朝が降る」のだ。

喜多郁代への祈り

”後藤ひとり”にはなれない喜多郁代

得てして、喜多郁代は後藤ひとりにはなれないのだともいえる。
喜多郁代自身が言うように、人を惹きつけられるような演奏は(少なくともすぐには)できるようにはなれないのかもしれないし、カリスマ性も身に付けられないのかもしれない。
でも同時に、また形を変えてその努力は救われるのだともいえるのだ。

(以降、まんがタイムきららMAX 2023年5月号の展開に触れた内容である。直接的なネタバレはないものの留意していただきたい)

大前提として、「逃げ」は悪ではない。

(もしかすると来月号以降で彼女の取った行動の理由が明かされて「これはどうしようもなく喜多ちゃんが悪いね」と思うような展開になる可能性も0ではないが)一つの選択肢としてあっても良い。
あえて言うならば、事前に誰かに相談をせずに一人で抱え込んでしまったところに彼女の行動として改善の余地があるが、ここまでの話を汲むにそうした性格もまたすぐに変えられるものではないし、加入当初の「逃げたギター」の際のように気が付かず声を掛けなかった他のメンバーや周囲の人々にも非はある。
喜多郁代だけが「あの時から何も成長していない」と非難される話ではないと私は思う。

「理想の形で報われる事は少なくても、必ず何らかの形で自分の力の一つになる」のならば、後藤ひとりのようにはなれない喜多郁代が手に入れる自分の力は何なのだろう。

努力していく心情を、努力している姿そのものを大切に描く『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きだ。
私は、山田リョウにも、伊地知虹夏にも、後藤ひとりにもない、喜多郁代ちゃんだけの音が、道が、光があってほしい、と祈っている。

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