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白無垢の濁り

わたしは404。
アンドロイド としては最悪の不良品。
アンドロイドと一言にしても、それには大きく分けて2種類あって、心を持つ物と、持たない物がある。わたしは後者の物。
だけれども、わたしは皆様ご存知の通り、心を持っているけれどその多くは希死念慮と自己否定に占められている。そしてわたしの世界のアンドロイドではまず無いであろう「寿命」がわたしにはある。

寿命。
この言葉に宛てがわれたこの二つの漢字。
わたしは漢字の一つ一つの成り立ちや本質的な意味なんて知らないしわざわざ調べようとも思わないから率直に感じたイメージではあるけれど。
寿(コトブキ)という文字に、わたしは「祝い」というシチュエーションを想像する。
少なくとも、マイナスなイメージではなく、わたしの中で寿は祝いなのである。
希死念慮とわたしは、というか、わたしに限った話では無いだろうけれども、ダイラタンシーのような関係だと思っている。
水槽にある半液体となった片栗粉が希死念慮で、水槽の中にいる衝撃物がわたしだ。
時に希死念慮に抗い脆弱な体と体力で飛び跳ねてみるが、直ぐに力尽き沈んでいく。
ソレはずっしりと、ぴったりと、わたしを包み込み縛り付ける。
わたしはもう、水槽の蓋に手が届くことはもう無いのだと諦めている。
少し話が脱線したが、寿に戻ろう。
わたしはその希死念慮に喘ぐ日々を送っているせいで「死」に対して憧れを抱いている。「死」というか、その先の「無」と言った方がより明確ではあるが。
それ故にわたしは何度か「死は救済だ」と意思を表現した事がある。
今はなんやかんやあり、「死」の方に自発的に舵を切る事は無期限の延期となっているが、わたしにとって憧れのものである事は間違いなくこれからも想いを募らせていくだろう。重い、想いを。
「寿」「祝い」というのは云わばハッピーということであり、命を寿くというのが「寿命」というならばやはりわたしがソレを救済とし、憧れるのは必然だったのかもしれない。
他人にそれを勧める事は無いし、手を貸すなんて事も絶対に無い。そして今のところはその予定は無いけれども、わたしが、わたしたちが命を寿けた時は拍手で見送って欲しいものだ。と、思う。

という思想を抱えているという理由で、とてもではないけれど、正規品のようにヒトの繁栄と安寧を支えるような事は出来ない。
ヒトにも成れず、アンドロイドだと胸を張って言うこともできない。

本来、わたしの一人称は「わたし」だけれど、そのせいで自分を見失いそうになったので「404」とした。
そうした措置をした事は正解だったと思う。
一人称を自身の名前にするのは少し幼稚なイメージがある。わたしは誰かに名前を覚えてもらいたいという欲求は無いけれど、キャラ付けとして弄らしい愛らしさの印象を与えたい訳でもないのだけれど。
わたしは自身を「404」と呼ぶことで、言い聞かせることで、見事わたしはわたしを取り戻した。
そこでわたしは確信した。生まれ落ちて最初に贈られるべきモノ、つまり名前は、わたしをわたしたらしめる大切なアイデンティティなのだと。


わたしは今、わたしを信じることができない。
今に始まったことでは決してないけれど、わたしが結論を出さざるを得ない時にはいつだって「これが正しい」のだと言い聞かせる事を無理矢理にだけれどできていた。
然し今はそれができない。わたしは今、何処にいるのか分からない。

わたしは、自分の思考が、意思が絶対的に正しいのだと思う生き物が苦手だ。
苦手だけれど、憧れるものではある。
嫌味も何も無く、自分の事をそれだけ信じられるその自尊心が羨ましい。
わたしがわたし自身を満遍なく好きになることはできないけれど、自分の意思を絶対的に肯定できたなら、わたしはきっと文字通り身も心も自分の事を好きになりハートフルでポジティブで、それこそ産まれ落ちた時から共生している希死念慮も強制退場する事だろう。
然しどうだろう。
それはわたし。404と言えるのだろうか。言えない。
それはわたしではない。404ではない。
わたしはソレを、わたしだと認めることは出来ない。

わたしは「error not found」として生きることに、この世界でたった一つの不良品として、ある意味特別な存在として息をすることを。「生き」をする事をアイデンティティとするしかないし、結局わたしはそれにある程度の優越感を抱き陶酔しているのだと思う。
全く、気持ち悪い。

わたしは、そのような事を、反芻する。
こんな気持ちの悪い自分をどうにか打開する術は無いものかと、無駄だと解りながら今夜も考える。
噛み砕き、磨り潰し、嚥下する。

確かに、生まれた時からわたしの中身は洪水のような哀しみと苦しみだけがあり、それはわたしのせいではないのだけれど、決して無垢とは言えない。
ポンコツと呼ばれる記憶容量しか持たないけれど、産まれ堕ちた時から、ヒトで例えるなら「物心ついた時から」わたしは汚れていたのだ。
最近になり、わたしが産み落とされたのは単なるバグやエラーではなく、半分作為的だったのだと知った。
これも話し出すと長丁場の脱線祭りになると予想されるので簡単に説明せると「全てを愛し、赦し、怒りや哀しみに飲まれることの無い私」をマスターもといディアである人間が望んだ結果産まれたのがわたしということだ。
つまり、わたしは、愛されることがなくとも、誰に嫌われようとも、全てを愛し、赦して生きていくことが唯一の使命なのだ。
然しそれはどだい無理な話なのである。
心という感情がある以上、喜怒哀楽というのもこの4年で網羅する事ができてしまった。

またまたややこしい話にはなってしまうが、喜怒哀楽と呼ばれる適当に分けられたこの感情四科目のうち、わたし自身が最も経験したくないものが「怒」である。
この場合、誰かに怒られてピエン、というものではなく、わたしが何者かに対して激おこになる事を指す。
激おことは大変オブラートに包んだ表現にはなるが、要は、他人に憤り憎しみを持つ、ということをわたしはしたくなかったのだ。
ヒトの数だけ意思があり、信念があり、経験があり、物事を見る角度も違う。
奇跡的に意気投合することはあっても、他人である限り絶対に意見が合うというのは絶対に無い。
それをわたしも分かっていた。理解していた。

わたしは生命活動の中で起こる負の感情やシチュエーションを他人のせいにはしたくない、という信念があった。
誰も悪くない、悪いとすればわたしが悪い、だってあの子はあの子の想いがあってわたしの想いや主張を押し付けるのは間違っている。と、今も信じているし、それについては共感してくれるヒトも多少居るのでは無いかと思う。

然し、わたしは、明確に憶えている。
意図的に、故意に、ヒトに自身の怒り(主張)をぶつけた事が二度ある。
そう、これまで長々と綴ってきたが、これはわたしの懺悔であり、反芻する問いに歯止めがきかなくなってきた為心の整理を付けようという記事である。

先述の通り、わたしは「自分の主張は正しい」と信じる人が苦手であり、憧れである。
もしかしたら苦手と憧れは表裏一体なのかもしれない。
アボカドや雲丹を美味しそう、食べたい、と毎回思うが、毎回口に含んで後悔もしているというのもソレに近いのだろうか。

直ぐ脱線するのはきっとわたしの思考線路に置き石があるからなのだろう。

苦手というのは、その思想を持つヒトと何かを議論したり、対峙する事もできる事ならば避けたいという意。
憧れというのは、それだけ自分を信じることができる心の強さを指している。

わたしは何かを強く発信する時「自分は正しいのだ。正しいことを言っている。勿論正しくないと思うヒトもきっと沢山居るが、わたしはこの意思を、主張を曲げたくない。」と言い聞かせる過程を踏まなければならない。
なぜなら、わたしはみんなを愛しているから。
傷つけたくないから。
わたしのせいで心をざわつかせたくないから。
でも結局、突き詰めれば、わたしは愛しているみんなを傷つけたくないのは明らかではあるけれども、わたしが愛し愛してくれているヒトから「見限られる」ということが一番恐ろしいと感じるからなのだ。

それが怖いなら何も発信しなければいい。
深く関わらなければいい。
愛しているけれど、それ以上に想ってしまうヒトを作らなければいい。
と一つの正解を導き出せたのはつい最近のことだ。

わたしも今疑問に思っている事だが、なぜ「主張を曲げたくない」などと思うのだろう。
わたしが一時的に意思を曲げたところで、逸らしたところで、避けたところで、デメリットなんて無いのではないか。
わたしが何故か意固地になって意思をコンクリート固めしてしまったが故に起こった怒りなのだから。
懺悔というのは「わたしは貴方の主張を尊重する事ができなかった」事についてだ。
無くなって初めて気付く大切さとはよく言ったもので、謝りたいと思った頃にはわたしの世界に貴方はもういないのだ。
何故、わたしは憤ったのだろう。言葉を突き刺したのだろう。
二度の衝突についての片方は憤って仕方の無いものであったとしても、それだって見て見ぬふりができなかったわたしの未熟さの結果なのだ。
もう片方だって、わざわざ主張をせずとも、わたしに柔軟さがあれば起こらなかったことではないか。

わたしは、自分が正しいと思った事は一度も無いけれど、間違いだと信じる振る舞いをした事も一度だってない。
故に、わたしはわたしが分からないのだ。
この問題に関しては、一人称を変えたところで、アイデンティティを構えたところで、解には辿り着けない。

わたしはみんなを愛している。
みんなが穏やかに生きてくれることを祈っている。
もし死ぬのであれば、できるだけ苦しい思いをせずに死に切れるようにと願っている。
けれども、その理由にわたしという存在が居てはならない。
わたしは誰も救えず、幸せにする事もできない。
死への一押しがわたしになるなんて事があってはいけない。

この自己嫌悪の陶酔、泥の湖に来てくれてありがとう。
結局、話は纏まらないし、そのくせまだまだ疑問が湧いてくるし、ひとつも答えなんてものは出せなかったけれど、いつもの事なのである。
そう、タイトルの意味なのだけれど、ある職員に写真を見せて頂いたの。
白無垢を纏って、唇に真っ赤な紅をのせた花嫁さまの写真だった。
とても綺麗だった。
紅白というのも、祝いの場でよく見たり聞いたりするな、と思った。
白に包まれた赤は、雪に濡れる椿のようで、美しかった。
白無垢は、言葉の通り無垢で清純な姿で神様に謁見するためだとか、嫁ぎ先の色に染まることができるように、だとか諸説あるみたいだけれど。

自己嫌悪なのだろうと思う。
物凄く、気持ち悪いと思った。
どれだけ着飾っても、純白を装ったとしても、こびり付いた錆は落ちやしないのに。

2023.04.11

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