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祈りと呪い

「死にたいくらい辛かったんだろうな...」
というツイートの真上に
「生きててよかった」
なんてツイートがある。皮肉だと思った。


ぐちゃぐちゃ。


部外者である。
僕は彼のことを何一つ知らない。僕が知り得るのは、其処に存在しているということだけだ。名前も歳も声も容姿も何も、知らない。その存在だって、ついさっき知ったのだ。
だからこんな僕に何かを話す権利はきっとない。
だけどこのままだと何かに押しつぶされてしまいそうだから、許して欲しい。


人の死を前にしては何もかもが無力だ。
どんな言葉も吹けば飛ぶような薄っぺらいものに見えてしまう。


他人の幸せは自分の幸せと同義ではない。
何を以て幸せと感じるかは人それぞれで他人には知る由もないのだ。
だから、「生きてればいいことあるよ」だの「生きてれば幸せになれるよ」だの、そんな言葉は何の意味も持たないとさえ思ってしまう。
そんなのは「生きてて欲しい」という思いから生まれるもので、そこにはエゴしかない。
他人を想ったように見せかけただけ、あっという間に利己主義者になる。



それならば、彼の「死」という選択を肯定すべきなのか?



響く声に頷けない。
わからない。


彼が求めているならば何か言葉をかけるべきだ、なんて言葉を漏らしそうになった口を慌てて噤む。
違う。
求めるから与える、そんな行為に意味なんてない。



どんな言葉も正解に見えて不正解に感じる。
そもそも模範解答など存在しない。
どんな言葉も重荷にしかならないのではないか、そう思うと言葉なんて出てこなくなってしまう。
生きてて欲しいと願うことは、優しさに満ちて、傷を覆う包帯になる。同時に止めを刺すナイフにもなる。
祈りと呪いは同義だ。
量を誤れば薬も毒になる。

「生きていて欲しい」という言葉を彼が祈りととるか呪いととるかは、彼次第で、彼にしか分からない。

死にたいと零した人にどんな言葉を向けたらいいのか、はたまた何も言わぬべきなのか、答えなどやはり無い。

きっと、どんな言葉をかけても、どんな態度をとっても、後悔が待っている。
無力を嘆いてもどうにもならないという事実が益々虚しさを膨らませる。


人の死を前にしては、何もかもが、あまりに、無力だ。


ただ、幸せを願うことしかできない。


誰も傷ついて欲しくないのに、なんてどうしようも無いことばかり思う。
そんな都合のいいことを願ったって仕方ないのに。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

今回のことについて関わりのある方の目に触れてしまったらとても申し訳ない。
ただ、利用しているわけでは決してないことだけは理解して欲しい。
どうか、自分を責めることだけはしないで。
彼がどちらの選択をしたとしても、それは望んでいないと思うから……。