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ニコンがF3だった昭和60年のあの日とD7500の今

1985年8月の中旬以降、どのメディアも日航機墜落のニュースが大半を占めた日々が続く。
それから37年が経ち12日を迎えるとやはり社会面の大きなスペースを慰霊行事関連のニュースが占めている。それ程に人々の心に大きな衝撃を与えたニュースだった。

37年も経つというのに、現場の上野村には在京各テレビ局の衛星中継車が例年のように皆勤賞でスタンバイし、新聞各社も地元支局員に東京本社社会部の援軍が加わって、慰霊登山する遺族たちとマンツーマンでペアが組めるかも?と思うくらいの人と車両でごった返す。

洞爺丸の沈没事故現場でも。雫石町の全日空機空中衝突事故の現場でもお目にかかったことのない様な光景が今年も御巣鷹の尾根を中心に繰り広げられている。なぜこの事故だけが大きく取り上げられ続けるのか?

もちろん事故の特異性では他に比するものがない。しかしそれだけではなくお盆休みを控えたこの数日、国内には大きなニュースネタが希薄なのも一因であろう。事実今年の紙面を見渡しても上野村を除いては平穏無事の様子である。

100年余も前の朝日新聞社がこうした夏枯れ事態打開のために企画したのが全国中学野球大会、今の甲子園大会である。御巣鷹の悲報を伝えるニュースに割り込む形でPL学園の桑田・清原の活躍とどちらを生中継で伝えるべきか悩まされ続けた当時のNHK編成の苦労が目に浮かぶ。

昭和60年といえば携帯電話の前身、自動車電話に携帯可搬型が初登場し、ようやく限られたユーザーが月3万円の基本料金を支払っていたとはいえ、上野村の大半は圏外だった。衛星で個人が通話できる手段もまだ存在しない。通信手段を持たない記者たちは、集落まで降りては民家の固定電話を拝借し、本社で口述筆記を繰り返す・・・の連続だった。

自衛隊のヘリが仮設のヘリポートに接地しながら、ホバリングで遺体を収容した場所には今、昇魂の碑と名付けられた石碑が立ち、その周囲の緩やかな斜面には前夜からテントを張り陣取っている各社の記者たちが衛星に向けて端末から書き下ろしたばかりの原稿や写真を送稿している。そんな彼らの殆どは37年前には生まれてもいないし、このような現場のリアル経験がない。
女性記者がこのところ目に見えて増えてきたのも隔世の感がある。使用する機材もフィルムカメラは前世紀でとっくに消滅し、ニコン一桁どころか、まんま民生品といった趣のD7500を支給されたりしている。支給品があればいい方だ。みんなが読んでるはずの大手新聞社は自腹でキャノンという記者も珍しくはない。

茶褐色一色だった現場の風景も緑が濃くなり、凄惨な事故現場を物語っていた焼け爛れた巨木の切り株もとうとう見つけられなくなった。
それより何より、事故当時を知る記者たちは既に現場を離れており、当時を知らない若者ばかりが取材を任される時代になってしまったのだ。ニュースの速報性は確かに飛躍的に向上したものの時系列に則った時の流れを語れるのは、遺族と取材記者obたちだけになってしまったのだ。

航空機事故も多数取り上げた作家の柳田邦男さんも当時を語れる数少ないお一人。今年も灯籠流しの慰霊行事から、ご家族のサポートの助けを借りてこの慰霊登山にも赴いておられる。参考までに所管の国交省現職大臣で慰霊登山に赴いたのは前原誠司さんただ一人だと記憶している.政権が自民党におかれた間で自民閣僚では聞いた試しがない。もしもこの記憶が謝りであればご指摘いただこう。

メディアの人間が引き揚げた今日13日には取材のない静かな環境下で乗務員の遺族らが登山を予定している。彼らがメディアの目に触れず一日遅れの登山を続けるのはそうした理由からでもある。

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