見出し画像

卒業旅行と卒論執筆を一度に済ませるには青のライトエース・バンが適任だった話

就職が決まって卒業を待つばかり、だが卒論が書けていない・・・
難しい本を読むのも難儀だし、それを論文にコンバートするなんて私の大脳はきっと受付ない・・・・
もっとわかりやすく興味を持って取り組める課題はないものか?

私のゼミはマーケティング、先生は後の白鵬大学・学長となられた原田教授。これまで実例をトレースしながら商品展開やマーケティング戦略を研究してきたので、その延長線上に浮かんだのが自動車販売店のマーケティングというテーマ。それも全国を縦断して都道府県別の志向と特徴を炙り出そうという、壮大な計画。

なあに、各県のディーラーを回って取材結果を比較、レポートすりゃあいい訳だ。
それより、愛車のライトエース・バンで車中泊が可能と分かったのでその魅力を最大限発揮しようという目論見。スタートは横浜市、真夜中の国道1号線を一路静岡に向かう。
出発は12月初旬、高速に乗らずとも静岡の手前、三保の松原あたりには暗いうちに到着。駐車場所を探して仮眠する。

最初に訪れたのは静岡市内のトヨタオート店(当時)、ライトエースの販売店だ。いち学生の分際で、アポもなく偉そうにインタビューを申し込むとトヨタ店での取材を勧められた。なるほど、系列店では最も歴史が長くノウハウも多いはず。取り扱い車種が限られているキライもなくはないが素直に従い、以降は各県のトヨタ店に赴くことに。

生意気ないち学生のわがままを快くお許しいただき、静岡での日程を順調にこなして名古屋方面へと1号国道を急ぐ。夕方のラジオニュースの時間だった。ニューヨークのマンションに居住するジョン・レノンが死去したという速報。熱狂的なファンを名乗る男が至近距離で発砲したのだった。あのビートルズのメンバーが40歳という若さで・・・・・その夜の深夜放送は軒並み急遽レノン追悼特集。レコード店は大慌てで何処もレノンのアルバムを積み上げたそうだ。

名古屋では新聞社に勤める先輩を訪問し、色々役立つ苦労話を聞かせてもらった。私も春を迎えれば業界の人。先輩の示唆に富んだ話は実に有益でその後の取材ノウハウとしても役立たせてもらった。車中泊の予定が思わぬ低温に見舞われそうなのでユースホステルを利用。九州への貧乏旅行で散々活用した施設だ。これもアポなし・・・・シーズンを外れていたので断られることもなく・・・・・

名古屋から関西を目指すには岐阜を経由する関ヶ原ルートの他に三重、奈良を回る名阪国道ルートが選べる。名阪国道は国道26号線に並行して建設された高速道路規格の道。本来なら有料道となるはずが、地元住民との協議の結果無料のバイパスルートに!実際名阪間を往復するドライバーの大半がこちらを利用するとか。知らずに名神を進むより、はるかに安上がり。奈良から北上すれば京都を含めて大阪入りできる・・・・・
奈良でもトヨタ店取材の後、ユースに投宿して氷点下の夜をやり過ごす。道中風邪でも引いたら計画は台無しだ。奈良トヨタで聞いた話は実に興味深いものだった。案に相違して各県でこれほどまでに購買志向に個性がでるものか!我ながらいい企画だと自画自賛。
宵の口、淀川の河岸から大阪の先輩宅に電話して投宿を決める。日曜日は休み、として同級生や兄妹を呼び出し、門限ギリギリまで連れ回して遊んだのも懐かしい思い出・・・・・

翌、月曜からはまた「業務」に戻る。兵庫を回った後は山陽道を経ずにフェリーで高松港へ、四国路を大分へ向けて進むつもりである。四国を東西に貫く構造線に沿ったコース、その東側は加太や和歌山を貫いてはるか渥美半島の方まで伸びている。高松、松山と回った後は佐田岬の先端へ。狭い山道をフェリーの時間に間に合わせるべく、2時間近い全力疾走だった。当時の四国はまだ橋で本州と繋がる前、何処かでフェリーに乗らねばならなかった。神戸の南端から乗ったフェリーから眺める須磨海岸を当時最新鋭の快速電車117系が走るのが見える。そうか、関東にはない車両が走っているのか!と認識を新たに。似たような顔立ちの185系が翌年には新幹線リレー特急としてデビューする事になる。

愛媛、松山では八幡浜のフェリー乗り場で車中泊。意外にユース利用が多かった道中だが寒さもひと段落したのかこの辺りからは自由気ままな行程に。出舟入船を眺めながらきく、ボズ・スキャッグスと山下達郎・・・・今も当時の曲を聞けば脳裏に港の夜景が鮮やかに蘇る。

1時間ほどの船旅でいよいよ大分、九州入りだ。マイカーで大分は初めての経験。深夜の国道10号線をひた走る。博多こそルートに含めなかったものの九州は九州で、また違ったマーケティングが展開されていて興味深かった。卒論のネタに事欠かず、これまた大収穫。最終目的地、宮崎はもうすぐだ。
延岡の町外れで野宿したあとは宮崎市内へ。そして帰路は豪勢に長距離フェリーの旅。日向・川崎の航路がまだあった時代で20時間ほどで帰宅できてしまうのだ。時間が許せば、通過sなかった山陽・山陰や北陸を帰路に含める事も興味深かったが授業を休んでいる手前贅沢は言えず、日程的にも限界だった。

もちろん帰宅後に膨大な量の卒論を一気に書き上げ、無事卒業につながったことは言うまでもない。トヨタ店各社には本当にお世話になりました。十分ななお礼もせず失礼千万な学生でしたが、多少は売り上げにも貢献させていただいたので、まあいいか。と勝手に納得
このあと、引越しの大役を果たし雪国へと旅立つ時にももちろんライトエースのハンドルを握りながら、だった。BGMに竹内まりやを聞きながら・・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?