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1955〜1956、国産車復活の狼煙は最初のクラウンと消えたメルセデス…

昭和30年代幕開けの年、自民と社会という二大政党が政権を争う構図が出来上がります。以後平成が始まるまでの自民党政権がスタート。その自民党からやがて立候補するのが、この年の代表作である小説「太陽の季節」を描いて社会に旋風を巻き起こした石原慎太郎だった。
その年の正月、トヨタが乗用車の本命、クラウンと営業車向け車種マスターを世に送り出します。
この時点で国産メーカーのほとんどは外国車のノックダウン生産に甘んじるか,軽3輪トラックやスクーターを主戦力にするか、でした。

トラックメーカーとしての実績を背景に日野は既に仏ルノーの大衆車、ルノー4CVを国産化、小型タクシー市場では一定の支持を得ていました。
やはりトラックを得意としたいすゞは英国ルーツ社との提携でヒルマンを国内生産、これが1956年はヒルマン・ミンクスにモデルチェンジ。ほぼクラウンと同サイズ,同じマーケットで覇を競う仲となったのです。
同じイギリスでもオースチン社と提携した日産はオースチン・ケンブリッジを国産化し多くを学んでいました。こちらはいかにも英国然とした黒のボディ、ヒルマンはお洒落な2トーンカラーが主流で玄関前のカーポートに収まった和製英国車の姿をみかけたものでした。

このカーポートに収まるべく5ナンバー1500cc(当時)の枠ほぼ一杯にあつらえられたのが純国産車のクラウンと営業車向けのマスターでした。このうちマスターの方は耐久性を重んじた板バネ式前後サスにコストの安い平面ガラスを使用。一方、ハイヤー需要や法人向けも担うクラウンは前輪に独立式サアスペンション、窓ガラスは大きくラウンドしたリアウィンドウにお抱え運転手が後部ドアを開け易いといわれた観音開き式の4ドアを大きな特徴としていました。のちの改良では1900ccエンジンに増強,テールランプも先のとがった大型のものにデザインし直され,アメリカ車風のテールフィンをイメージさせました。

プリンス自動車も独自開発した国産乗用車をクラウンとほぼ同じマーケットに投入します.後にスカイラインと命名される4ドアサルーンはクラウンより更に良い乗り心地を求めて後輪足回りに独立式を採用するなどルーツたる飛行機野郎たちの気概を感じられるものでした。元はと言えば同じ中島飛行機の流れを汲む富士重工でも群馬の本社では1500ccクラスの乗用車を開発中でしたがこの計画は実を結びませんでした。スバルが画期的な4輪軽乗用車で世間をあっと云わせるのは更に数年のちのこと。

他方で小さな3輪トラックを足掛かりに大きく飛躍したのがダイハツと言う大阪の会社。ミゼットと呼ばれる軽3輪より以前には4ナンバーサイズの3輪トラックが主戦力でした。昭和30年代の物流,それも戸口輸送で絶大なシェアを誇っていたのがマツダとダイハツの3輪トラックで、ここにクサビを打ち込んだのがトヨタのトヨエースでした。3輪トラックとほぼ変わらぬ値段で勝負します.のちにはいすゞのエルフも加わって,やがて2トン以下の3輪トラックは4輪車によって淘汰されてしまいます。当時の軽商用の6ナンバー、乗用車の8ナンバーに挟まれた3輪車用の7ナンバーがその名残りでした。


その頃、トヨタ同様に三河・遠州の地で自動織機の開発・生産から発展したスズキが前輪駆動の斬新な軽自動車=スズライトを開発します。ミゼットと違い4輪車で、4人が乗る事も出来る2ボックスFFの元祖の様な存在です。実際にスズキの軽が売れ行きを伸ばすのはエンジンをリアに置いた3気筒フロンテからですが,この時代に果敢にも前輪駆動車にチャレンジしたマインドはホンダにも負けず劣らずのものだったのではないでしょうか?

中村メイコがうたう「田舎のバスはオンボロ・・・」が1位に輝くヒットをとばしたのがこの年。庶民からはまだまだ遠い場所でしたが,昭和のクルマは確実に未来へ向けて走り続けていました。雑誌モーターマガジンが創刊されたのもこの年8月号から。表紙を飾るのはクラウンではなくダットサン110。グラビアページを飾る憧れのクルマは欧米の最新モデル。日本では政権が国産車の使用を奨励し外国車の流入をなんとか制限しようと画策した事が記されています。販売の大半は貨物車と営業車。マイカー時代が到来するのは随分先の話に感じられる誌面でした。

大陸の向こうイタリアでは、57年チンクェチェント登場に先駆けて原型とも言うべき600が登場。2ボックスのリアエンジンスタイルは日本車にも大きく影響を与える存在で、スバルRー2も特徴を良く捉えているし、三菱500もあるいは参考としていたかも知れない。

その600から派生したムルティプラはユニークな成り立ちで前輪上に運転席を置いたキャブオーバー式に600の後半部を繋いで、中間にもシートを並べた三列シートの元祖的存在。VWにはタイプ2と言うワンボックスが存在していたが、こちらは遥かにコンパクトで、スバルのワンボックス車ドミンゴの遠い祖先の様なものだった。

隣国のパリサリンではシトロエンの発表したDSが話題をさらったのも1955年のこと

世界中のどのクルマにも似ていないそのクルマはドリームボートとも呼ばれ宇宙船が舞い降りた様とも形容される。4本のタイヤは油圧で上下しバネの代わりをするのは金属の球に封じ込められた窒素ガスなのでエアサスペンションと言う事になる。シフトレバーの動きもブレーキも油圧に助けられてことごとく軽く操作出来たのだ。

15年以上も生き延びてCXに生まれ変わったほかGSやBXにも油圧システムは受け継がれ、コンピューター制御で動くアクティブサスペンションはウィリアムズルノーチームとマンセルをチャンピオンの座まで運んだのだった。

英国に数多あるスポーツカーの弱小メーカーはバックヤードビルダーとも称されブランド数も多く対米輸出の尖兵でもあった。戦前からの人気モデルで古めかしいウィングタイプのフロント・フェンダーを改めて近代的なスタイルに改まったのがMGA。日本にも導入されスポーツカーの魅力を広めた一台となる。

夏の祭典ルマン24時間ではブレーキング中のジャガーに追突したメルセデスがグランドスタンドに跳ね上がる大事故が発生。翌年からワークスベンツの姿をレースで見ることは無くなったのでした。


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