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【小説】明日、カンの日だから

「ほら、ご飯出来たから座ってないで早く運んで」
「はーい」
気の抜けるような返事をしてマサキは立ち上がった。尻の形に沈み込んでいたソファーがゆっくりと元に戻っていく。
暖色系の照明が木製のおぼんを照らす。マサキはおぼんを持ってダイニングテーブルに持って行った。
ホラ、これも必要でしょ、と海香がマサキの箸を手渡す。
最近買ったばかりのお揃いの箸は、海香がお気に入りの雑貨屋でお揃いのマグカップと共に購入したものだった。
白いテーブルに色とりどりの料理が並ぶ。絵の具のパレットのようだ。
「おー、今日もすげえな」
率直な感想なのに思ったよりも感情が乗らない。
「まあね」
感情を乗せるのが下手ということを理解してくれている海香が満更でもなさそうに答えた。
あ、そうだ、と呟いた意味のない言葉には想像以上に感情が乗る。
マサキは思い立ったように立ち上がり冷蔵庫から冷たいビールを2本取り出し、パレットに金色を足した。
「これで完成」
「すでに完成してたけどね」
また余計なことを言ってしまったと後から気づく。
「ごめんごめん、冷めないうちに食べよ」
「それは私の台詞だから。いただきます」
「いただきます」
プルタブを開ける音が部屋に2回響いた。暗闇で花火が開いたときのような爽快な音だった。
「新しい門出にかんぱい」
やたらと明るい声で海香が声をあげた。
「いいよ、わざわざそんなことしなくても」
マサキと海香は缶ビールをぶつけ合った。
真っ先に向かうのは彼女の手料理だと分かっていながら、ビールを口にした。麦の香りが鼻から抜けて清々しい。
「あぁーうまい…」
丁寧に切りそろえられた具材が乗った冷やし中華は目にも鮮やかで食欲をそそる。静かに咀嚼する海香と、冷やし中華よりも先に枝豆をつまみながらビールを飲むマサキの間には長年付き添った夫婦のような沈黙が流れていた。
なんだかその空気感が気恥ずかしくなって、マサキはテレビをつけた。
テレビに写ったのは、視聴者からの投稿を映像化した恒例のホラー番組だった。
「あ、懐かしい。こういう番組、昔よく見てたんだよね」
海香は冷奴を崩しながら言った。
「へぇー、そうなんだ」
海香は手のひらにじんわりと汗をかいた。
「そういえばマサキってホラー苦手だよね」
「え?そう?そんなことないけど」
マサキは冷しゃぶサラダを食べながら何事もないように答える。
「昔お化け屋敷に入ったときにさ、めちゃくちゃ怖がってたじゃん。お化け役の人、ちょっと引いてたよ」 
思い出した。ウォークスルー型のお化け屋敷で、待ち時間に海香からここにはホンモノがいると話されたのだ。お化け屋敷を出たあとで実はウソだとバラされた。
「あー、あの時ね。あれは海香が変なこと言うからじゃん」
そういうしょーもないことはしっかり覚えてるんだから、と睨むように見つめる。
「覚えてるよ、お化け屋敷を出たあと何事なかったようにしてたのが、逆にめちゃくちゃ面白かったからね」
海香は堪らず笑い出す。
マサキは顔が熱くなるのを感じた。
「でもさ、海香も似たようなことあったよね」
「私が?ないよ、そんなのない」
「ジェットコースターに乗ってるときにさ、肩にカナブンが止まっちゃって大騒ぎしてたじゃん」
「あれは誰だって嫌でしょ!虫は生理的に無理なの」
「あの時の慌てふためいた顔と言ったら…」とマサキは思い出したように笑った。
海香が怒っているのが分かった。何とか機嫌を取り戻さなければと、焦って出した質問が最悪だった。
「もしかして髪切った?」
「え、いまさら?気づくの遅!」
いつもロングヘアーだった海香がここまで髪を切ったマサキを見るのは初めてだった。
まだ見慣れなくて、どこか気恥ずかしい。
「ふーん、長い髪も可愛かったよ」
マサキとしては、「も」の部分に今も前も変わらずに良いという気持ちを込めたつもりだったのに、海香には上手く伝わり切らず、「長い髪」の部分が気になっていたようだった。
素直に口にするのが恥ずかしくて、わざと遠回りしてしまい、その上一番大切なところの「可愛かった」は口ごもる。情けなくなってビールを飲んで誤魔化した。
「なんでそんなこと言うの?デリカシーがないなぁ」
海香はどこか諦めたように答える。
「マサキのそういうところ、本当直した方がいいよ、いつか大事なものを失うよ」
海香の口調が比較的穏やかなことと、アルコールが相まって、何を言われても冗談のように感じてしまう。
「そんなん言われなくたって分かってるよ」
「分かってないから言ってるの」
拗ねる子どもと、子をあやすような母のようなかけ合い。付き合いが長くなっていくにつれ、相手のことを異性ではなく大きな子どもだと感じる瞬間が2人にはあった。けれど、マサキはあの瞬間が嫌いではなかった。嫌いじゃなかったからこそ、そこに甘えてしまうダメなところもあった。
「あ、海香、口に何かついてるよ」
「え?どこ?」
「横だよ、右、もっと右」
海香はそれを取ろうとティッシュで口に拭った。
「今とってあげるから待ってて」
ん、と言って止まる海香を、マサキはティッシュで拭うかわりに頬にキスをした。
「うっわ、きったねぇ」
予想外の行動をとったせいか、予想外の言葉を言われる。
「汚いってなんだよ」
海香はごめんと言いながら大きい声で笑った。互いを罵りあっても飲み込めるのは、そこに悪意はないと分かるからだ。2人にしか分からない、言葉のなかにある裏腹な感情が愛おしい。
海香は笑い過ぎたのか、目から涙が出てるのをぬぐいながら、冷蔵庫に向かい、ビールとレモンサワーを持ってテーブルに戻った。
プルタブを引いてまた乾杯をする。なんでもない日常なはずなのに、幸福の真っ只中にいるように感じた。マサキは酒に弱かった。
「いくらなんでも笑いすぎだろ」
マサキはボソッと愚痴を呟いてからビールを口に含む。海香に笑われるのは嫌いじゃなかった。どんな理由であれ、海香が笑ってくれるならそれで良いと思っていた。
それから2人はホラー番組の存在を隅に追いやって、笑いあった。
昨日の朝ごはんの話、苦手な同僚の話、明日の天気の話といろんな話をした。
この居心地が良さが愛しさの証拠だった。繰り返しの日常を共にできることは幸せなことなんだと、マサキは今になって、やっと気がついた。
「そうだ、明日はカンの日だからちゃんと出しておいてね」
何気にない幸せはゴミ出しの予定に邪魔されて幕を閉じた。先週忘れてたでしょ、と刺されたクギが痛い。

海香から少し遅れて、支度を済ませたマサキが寝室に入った。
「あれ、思ったより早かったね」
コルクボードに貼り付けられている写真を眺めていた海香が、ドアノブを開けた音に気がついて振り向いた。
「うん。洗い物も少なかったからね」
ダブルベッドの上には独特の静けさが漂っていた。先ほどまでテレビについていたホラー番組を思い出す。大事な場面の前は可笑しいほどに静かだ。マサキの耳にはまだシャワーの音が頭に響いていて、静か過ぎるこの部屋と温度差を感じる。
部屋中に満ちた沈黙が気まずい。
長年の付き添った夫婦のような2人にはこんな時は多々あったはずなのに、何を話したら良いのか分からず困惑する。悩んでいるうちに空気がどんどんと重くなっていく。
エアコンいれる?
そろそろシャンプー買い換えなきゃね
ちょーウケる話しようか。
沈黙が続けば続くほど、そんな気軽なことが言えなくなる。なぜか逃げたい気持ちになったマサキと対照的に、口を開いたのは海香だった。
「…今日で最後だね」
いつもよりもワントーン明るい声だった。彼女はカーテンの閉められた窓を眺めていた。
「うん、そうだね。あっという間だった」
再び重い沈黙が訪れる。
「いつ向こうに戻るの?」
「うーん、明日には戻るかな。新幹線のチケット、まだ取ってないんだけどね」
もう深夜なのに、空気の読めない蝉が1匹だけ鳴き出した。
「ほんと海香は変なところ無計画だよね、別れる、部屋を出る、引越しの準備をするまではものすごーーく早かったのに」
冗談に聞こえるように戯けた声で言う。
「そう?マサキが遅かっただけじゃない?」
海香が反射的に答えた。
「そんだけすぐに皮肉が言えるなら新しい職場でも安心だね!」
明るく努める。
「私はマサキが心配だよ、ほんとに1人で大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、大丈夫に決まってるじゃん。大人なんだから」
ちょっと年下だからって馬鹿にしないでよ、とマサキは付け足した。
「バンドで食べていくって本当にほんっとーに難しいんだよ?ちゃんと分かってる?」
「こんなときにそんな話しないでよ、母ちゃんかよ」
マサキは反抗期の子どものような横暴な態度で突っぱねた。
「バンドだけじゃなくて、早くいい人見つけなよ、1人じゃ洗濯もロクに出来ないんだから」
以前に海香が買ったニットの干し方を誤って、1.5倍くらいにさせてしまった例を挙げた海香にマサキはうるさいなぁと言い返す。
少し大きくなった返事が部屋のなかで響いて、また静かになる。
「そういえば、親父さんの体調はどうなの?」
また空気が重たくなり過ぎる前にマサキは無理やり話題を変えた。
「うん、調子はあんまり…。まだしばらくは退院できないみたい」
「そっかぁ…心配だね、早く良くなるといいけど」
「まあ、現実的に早く良くなってもらわないと困るんだけどね。妹は大学進学も考えてるみたいだし。お母さんも妹を1人にするのはって心配してたけど、パート増やすって言ってた」
マサキは必死になって頭にある適切な言葉を探した。けれど、どの引き出しを開けても丁度いい形の言葉は出てこない。海香に比べて人生経験が浅いことを初めて後悔した。
「そうなんだ。でも海香ならなんとか出来るよ。だってすごいもん」
無理やり絞り出した答えはイビツで根拠もなく、薄っぺらい言葉だった。
「最後まで適当だなぁ」
海香は、はぁーとため息を吐き出した。マズいと思って顔をチラリと覗いたけれど、悲しそうな顔はしておらず、呆れたように笑っていた。
マサキはふと壁掛け時計に目をやった。
夜として括られる時間はとっくに過ぎていて、だましだまし無理やり引き伸ばしてたような夜にも限界があることを悟った。
「きっとさ」
マサキは呟くように言う。
ん?と振り返る海香からシャンプーの匂いがふわりと香ってくる。このシャンプーもちょうど買い換え時だなとマサキは我に返る。
「なにごとも、過ぎは良くないんだ。飲み過ぎもそうでしょう?きっと幸せ過ぎもダメなんだよ。きっと。足りないくらいがちょうどいい。」
ふふっと気の抜けるような笑い方が聞こえた。マサキは声のする方向を向くことができなかった。
無理やり明るく振舞っていることがこっちにも分かるのが辛かった。
そうだね、とポツリと返す言葉が震えていて涙腺に水が溜まる。込み上げてくる感情を押し殺して、部屋の電気を消した。
いつのまにか外は白けはじめていた。
「明日、もう今日だけど。朝早いんでしょ。そろそろ寝なよ」
彼女は外の明るさと、反比例する声のトーンでうん、と答えた。
2人はベッドに横たわる。
先ほどの蝉の声はいつのまにか止んでいて、名前も分からない鳥が鳴いていた。
眠るときには必ず左側を向くのがクセの海香を、後ろから抱きしめる形で目を閉じる。海香の背中が震えているのが分かった。その震えを止めてあげたいけれど、マサキにはその止め方が分からなかった。

「マサキ?」
「なあに」
子どもを相手にするときのような柔らかい声で話しをする。

「ありがとうね」

「大好きだったよ」
こちらを向かずに放たれた言葉に俺もだよ、と答えた。海香は何も言わなかった。
胸のなかにある柔らかくて温かい気持ちをなんとかして伝えようとして海香の頭を優しく撫でる。
相変わらず部屋のなかは静かだった。
こちらの愛情が伝わったのか、震えていた背中は少しずつ穏やかになった。
「やり直せないかな…」
永遠とも感じられた沈黙の後でマサキは馬鹿らしいほどか弱い声で、バカみたいなことを言った。
なんとなく、デパートでオモチャを買ってもらえなくて駄々をこねた幼少期を思い出した。
おぼろげな記憶に、テレビや映画で見た映像を足されて、どこまでが正しい自分の記憶か分からない。どれだけ必死に駄々をこねても欲しかったオモチャは手に入らなかった。
静かだった背中はいつのまにか一定のリズムで僅かに揺れていた。それに気がついたマサキは困ったような笑顔で海香の顔を覗き込んだ。
どうにかしてしまいたいぐらい、心の隙間を埋めてくれる表情。
子どもじゃないんだから、話くらい最後まで聞いてよと心の中で愚痴を吐いているうちにマサキも眠ってしまった。

居酒屋にあるテレビでは天気予報が写されていた。黄色い字幕で、真夏のピークが終わったとテレビのニュースキャスターが話す。
マサキはライブを終えた後の打ち上げをしていた。自分のバンドのメンバー、対バンしたバンドのメンバー、さらには数人の客を巻き込んで安い居酒屋での打ち上げ。
100人くらいしか入らない小さなライブハウスだったけれど、課せられていたチケットのノルマは全て売り切った。ワンマンライブではなかったけれど、こちらの演奏にちゃんとお客さんが答えてくれた。
大成功をしたライブの打ち上げには、宴会という言葉が相応しかった。
全員が思い思いに騒ぎに騒いで、メンバーは客として来ていた女性を口説き、対バンしてくれた先輩は道端で粗相する。
マサキは二次会には参加せず1人で帰った。
冷蔵庫からビールを取り出す。
歩きながらプルタブを開け、ベランダに出る。

テレビでは真夏のピークが去ったと言っていたけれど、ムシムシとした空気は依然として残っていた。
近所の公園には花火をしている男女グループの姿。マサキはグビッと喉を鳴らしてビールを飲む。芳醇な風味が口いっぱいに広がった。
1人で飲んだって、宴会で飲んだって、ビールの味は変わらないはずなのに、どうしても2人で飲んでいた時の味は忘れられなかった。

どうにか別れずに済む道もあったんじゃないだろうか。
キャッキャッとはしゃぐ女子の声がする。
こうすれば、ああすれば、これを辞めれば、バイトを増やせば、と数分の間に必死になって様々な可能性を考えていたけれど、悟ったように止めた。
これで良かったんだ。

あの時に感じていた生々しい感情が、火を掛けた湯ように溢れ出し、吹きこぼれる。
あの日見た新しい髪型は、とても似合っていた。
直視すれば引き留めてしまうとも分かっていた。そうすれば、海香が困ることも。
2人きりになると何故か、少し冷たく接してしまっていた。あれは一体なんでだったんだろう。
それなのに、土壇場で見せた自分の情けなさを思い出して、ため息が出そうになる。
この後悔はいつか消えてくれるだろうか。
心のどこかで消えてほしくないと願う。
泣きたい気持ちでいっぱいなのに、上手く泣きだせない。
打ち上げ花火の音がしたような気がした。
彼女の笑った顔を思い出して、静かに、一滴だけ涙が溢れた。そこからは早かった。海香との楽しかった日々を鮮明に思い出し、彼女にしてしまった酷いことも思い出して、マサキは子供のようにワンワンと泣いた。
台所には空になったビールとレモンサワーの空き缶が置かれたままだった。

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