見出し画像

大阪をこぐ ②

めざせなみはや大橋

画像34

住宅地を抜けて橋を渡り、いよいよ工業地帯に突入。

画像28

さすがに全体的に建物が大きくて四角くて窓がない。

画像2

ゴミ置き場?スチール棚とかオフィス椅子とか、廃棄物ごとに整頓されていてコレクションみたいにわくわくする。

画像3

片隅に案内標識を扉に使った物置があった。格好いいな…!!

画像4

橋の向こうの方に見える、長くて高い道が目指しているなみはや大橋。

画像5

画像6

思っていたより大きい。一番高いところは45mとビル15階建てに相当するそうだ。

存在に現実味がないように感じられる。本当に橋なのか。どうしたらあの場所に自分がいるのか想像がつかず、はやる気持ちを抑えて坂の入り口を探す。

画像7

入り口発見!見つけてしまえばあとは進むだけ。長い長いベタ坂でペダルをこぎ続ける。電動自転車でよかったなあ‥

画像9

車道に合流し、視界が開けた。右手に見えるのは港大橋。赤色の鉄骨と青い水面が夕日に照らされてきらきら光っている。

画像10

頂上から大阪市を一望。

しばらくその眺めから目を話せなくなっている一方で、地元の中高生やランニングおじさんはスイスイ通り過ぎていった。あのひとたちにとってはこの長くて高い橋も、川が交わる眺めも日常のものなのだ。

画像8

こわいのと眺めが終わるのがもったいないのとでゆっくりゆっくり下る。

画像11

未練たらたらで橋を後にします。通過したあとも現実感がない。

画像29

さて、次の橋を目指して再び住宅地を走る。

大正区鶴町

画像12

画像13

同じ建築会社が建てたのであろう戸建群。もとは長家が建っていたのかな。

画像14

かわいいタイル使い。

次第に暗くなってくるなかであることに気づいた。

画像15

この地域の道路沿い、屋根を隠すような壁をつけてる家がいくつもある!

画像16

これなんかthe壁。張りぼてみたいだ。

画像17

これは一部だけ。看板を取り付ける場所?

画像18

これはなんだかスマートな屋根の隠し方だ。瓦屋根を隠して洋風の建物ぽく見せるのが流行ったのだろうか…

画像19

三分の一ぐらいのとこがくびれててちょっとお洒落な壁。

大阪出身者に聞いても大阪固有のものなのか、なぜこんな壁をつけているかわからないとのこと。後日建築に詳しい人に聞いてみたところ、「看板建築」と呼ばれているものの一種ではないかとのこと。


「看板建築」とは、建築家・建築史家の藤森照信が命名した、店舗兼住宅の一形式である。その多くは関東大震災後の復興期に突発的に現われた木造2-3階建の建物で、その正面だけを銅板やモルタル、タイル、スレートなどの耐火素材で覆い、装飾した町家のことを言う。建築物でありながら、商屋のファサード自体が屋外広告と化している。このファサードは「看板」という文字通り、一枚のキャンヴァスに見立てられ、民衆の手による表現の場となった。それにより素人から芸術家までの表現の参加を可能にし、アノニマスな庶民住宅、民の芸術が生まれた。この点に注目した藤森が1975年に日本建築学会大会で発表した「看板建築の概念について」は、日本近代におけるいわば「建築家なしの建築」を気づかせた、意義深い発信であった。このように「看板建築」は、伝統的な町家にそれとはまったく違う異物が取り付く構成上のおもしろさがある一方で、異物であるファサードの上には、多種多様で、時に風変わりな装飾が展開されるというおもしろさもある。「看板建築」に様式という言葉を用いるなら、レヴェルの違う二種類の様式が使い分けられている。そして二つの様式レヴェルは、互いにぶつかり混乱しない程度に距離をおいて記述されている。藤森は「看板建築」を、明治期に途絶えたかに見える、擬洋風建築の伏流として捉えていた。一方、村松貞次郎はこれを、民の活力によって生み出された擬洋風建築の再来として捉えず、大正9(1920)年の市街地建築物法の流れを汲む、木造建築の防火策の結果として位置づけられるものだとしている。著者: 細川大貴(大阪市立大学倉方研究室)看板建築|現代美術用語辞典ver.2.0

きっと当時はこういった建物が何戸も並んで華やかな通りだったのだろう。今はなき風景に思いを馳せながら再び工業地帯に入る。


画像26

何かと思ったら点検のためのものかな、外側の骨組だけ残されていた。中の機械はどうやって運んだのだろう‥

画像27

緻密な影絵のようできれい。

新木津川大橋

画像31

目的の新木津川大橋に到着。こんなくるくるした案内標識見たことないな。

画像30

こんなにぐるぐるしたGoogleMapも見たことない。ぐるぐるの全容はこちら。

画像20

大きくて無骨。SF的なスケール感に胸が高鳴る。

画像21

画像23

こんな橋を毎日徒歩や自転車で渡るなんて無理な話だ。新木津川大橋に限らず、歩行者が通行が困難な橋のところには今も大阪市営の渡し船があちこちにあり、通学通勤にも使われているそうだ。

画像28

この橋も水面から50mの高さにある。さっきのなみはや大橋は長い長い一直線の坂道で、新木津川大橋はループさせることで大型船が通れる高さを確保したのだ。大阪市にはこの他にも両端がループになっている千本松橋(めがね橋)や4回転する此花大橋があるということ。橋天国じゃん。と、思ったけど東京都のほうが橋の数自体は多いらしい。

画像32

スーパー玉出ストリート

そろそろ旅も終わりが近づいてきた。橋を渡った先は西成区。西成と聞くと、かつては日本三大ドヤ街と呼ばれ、東京の山谷・横浜の寿地区とならぶ日雇い労働者のまち…と想像するけれど、いわゆるドヤ街として機能していたのは釜ヶ崎と呼ばれるエリアだけで、他はもっと下町っぽかったり住宅街だったりするんだそうだ。

釜ヶ崎で子どもの居場所づくりをしている「こどもの里」という場所があるんだけど、さすがに年始のこの日はお休みで立ち寄ることはできなかった。難波へ続く大通りをぐいーっと駆け抜けて自転車の返却スポットをめざす。

画像34

画像23

いつの間にか日が暮れて、暗くなった道で一際目を引く場所がある。なんだ派手なパチンコ屋だなと思って通り過ぎたら噂のスーパー玉出だった。惜しいことをした!と思いながら自転車をこぎ続けたらすぐに次のスーパー玉出に遭遇。セーブポイントのごとく、大通り沿いに点々と瞬くスーパー玉出のネオンサイン。

画像25

眩しいのは外見だけじゃなかった。たこ焼き5個で100円、この大阪観光で唯一食べた大阪ぽいものでした。おいしかった。

ちらほらと、スーツケースを転がす観光客の姿が見られるところまで戻ってきた。観光地もドヤ街も工場地帯も全部道で繋がっているんだなあ。みんな当たり前のようにどこそこは治安が、民度が、地域性がって言っているけど箱のように閉じこめられてるわけでも、山奥に隔離されているわけでもないのに何がそうさせているんだろう。

ファミリーマートの駐車場の一角にある返却スポットに自転車をとめる。13:30に自転車を借りて、18:20には返却。約5時間で20km強を走った大阪観光の旅は終了です。楽しかったけど帰りの時間に間に合うか心配で終始立ちこぎだった。背中がバキバキに筋肉痛だ。もし次の機会があったらのんびりゆっくり座りながらでまわりたい。

画像33

新横浜駅に戻ってきたら何ともいえない味わいのサインがあった。絶妙な親指の膨らみと袖の塗りつぶしではないぞという余白。ペイントソフトで描いたのではなさそう。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?