歳差運動2-⑯

これで彼女の管理職としての力量、校長になるまでの経緯が理解できた。苦労人でもなければキャリア組でもないことが判明した。暗くて深い川を自力で泳いできたのではなく、安全な船旅を選んできたのだ。それも豪華なクルーズ船なんかでなく大衆向けの寄り合い船。その中の名もなき乗客の一人が彼女という訳である。

天見校長は先ほどの会議の席上で、我々職員にも読書の必要性を訴えた。自分でもそうして学んできたといわんばかりだった。けれども、そのようなたしなみが彼女にあるのかどうか大きな疑問符がついた。管理職として法規をしっかり学んでいればあのような法令を無視した発言はできないはず。無視というより視野にさえ入っていない感じだった。学校教育も法規の上に立って運営されていることを認識していないお粗末な管理職としての学校長。

それが分かっただけでもこの会議に収穫があった。

まあ、実際、言行不一致や朝令暮改や自己矛盾を抱えた人間を数多く見てきた。    そのような人間が職場の上司になると非常に厄介である。学びのない者が組織の上に立つと、同工異曲の果てにパワハラだのセクハラだのの問題が生じてくる。これには法則性が間違いなくある。            だから、学びのない上司は公の席上では自説を表明すべきではない。人の上に立てば立つほど、学びが少なければ少ないほど。他人の立派な言説をそのまま拝借するのも同じ。必ず自己矛盾に陥る。           結果、自己の経営理念が破綻する。

たとえばこうだ。

我々はよく“人権感覚をもちなさい”と指導される。学校でよく起こるいじめや体罰への処方箋のひとつだろう。          ところが、ほとんどの学校現場では放課後の様々な会議が勤務時間を大きく越えて平然と行われている。しかも毎日のように。それはその運営を統括管理している者の無自覚による。我々労働者としての権利を蹂躙していることに全く気づいていない。       自分自身が人権感覚を持ち合わせていないことを…

気が滅入ってきた。このまま会議を続けるのが馬鹿らしくなってきた。どうせ全部決まっていることなんだろうよ!だからみんな何も言わないのか。             自分の意見を、考えを…         自分の意見が採り上げられたり、議論されたりしなければ誰も意見なんて言わなくなるんじゃないのか!             教室の授業も一緒だろうよ!


窓の方を振り返って校庭を見た。広い校庭の周りに植えられている桜の木の花びらはもうほとんどなくなっている。        少し風が出てきた…雷の予感がする。   そしたら花びらはすっかりなくなってしまうだろう。                薄暗くなった。             職員室の天井に近い高いところにある時計を見た。勤務時間を越えようとしている。  提案者の声だけがむなしく響く。とても静かだった…だがまどろみの静けさではない。 沈黙だ!

耳元で聞き覚えのある歌詞が暗いメロディとともに流れてきた。

“オトコとオンナの間には…深くて暗いカワがある…ダレも渡れぬカワなれど…エンヤコラ 今夜もフネを出す…”


第2章終わり~