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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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2020年12月の記事一覧

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(後編)。

 この「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」のシリーズは、これまで約2ヶ月をかけて、3回にわたって、「コロナはただのカゼと主張する人たち」 「見えにくい政策」 「自粛警察はどこにいるのか」を書いてきました。  さらに4回目の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)では、「 新型コロナウイルス感染の可能性への直接的な不安と恐怖への対応」と、「感染者になってしまった場合の予測もつかない変化への不安。そして、差別と排除の恐怖への対応」を考えてみま

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(中編)。

 これまで3回にわたって、「コロナはただのカゼと主張する人たち」 「見えにくい政策」 「自粛警察はどこにいるのか」を書いてきました。  さらに4回目の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)では、「 新型コロナウイルス感染の可能性への直接的な不安と恐怖への対応」と、「感染者になってしまった場合の予測もつかない変化への不安。そして、差別と排除の恐怖への対応」を考えてみました。  今回の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(中編)では、「 医療崩壊への不安と恐怖への対

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)。

 このシリーズで3回にわたり、「コロナはただの風邪という人たち」「見えにくい政策」 「自粛警察は、どこにいるのか?」を(リンクあり)考えてきました。それぞれ、今の時点で、社会の片隅で感染を恐れて息を潜めるように生きている人間からは、どう見えるかを書いたので、それを読んでいただければ、それぞれのことを改めて少しでも考える材料になるかと思います。  よろしかったら、もちろん、これまでの3回分を読んでいただきたいのですが、その前提がなくても、今回は、やはり感染拡大になってしまった

「向いている」や「向いていない」を、考える。(後編)。

「向いている」や「向いていない」という言葉が強い意味を持つ場所や、「向いている」や「向いていない」という言葉が、どれだけの効力があるのかどうかを、前編(リンクあり)では、考えてきた。  その一応の結論として、その人があることに本当に「向いているか」どうかは、分からない。やってみないと分からないし、ある程度続けないと、わからない、ということに辿り着いた。  ただ、これだと、あまりにも素朴すぎる感じだし、「自分は、この仕事に向いているのだろうか」と悩む人が、もしいたとしたら、

「向いている」や「向いていない」を、考える。(前編)。

 ある時期に、とても強く響き、すごく気になる言葉があるのに、年齢が高くなるほど、その感じを忘れてしまうことを、小説を読んで、思い出した。それは、仕事などに「向いている」か、「向いていないか」という言葉だった。 「しんせかい」 山下澄人 この小説は、演劇を学ぶために、遠く人里離れた場所で集団生活をする、という話なのだけど、主人公の、この場所への微妙な心理的な距離感の遠さなども面白く、それでも、まだ何にもなっていないけど、何かになろうとする人たちの、いろいろな切実な気持ちの動き

「東京ドーム○○個分」という「広さの表現方法」について。

 テレビを見ていたりすると、広い場所を映す映像とともに、「ここは東京ドーム〇〇個分」という表現はいまだにあって、聞くたびに微妙な違和感がある。 違和感の種類  一つは、関東ならまだしも、関西以西の広い場所についても、「東京ドーム」が使われるのだけど、でも、それは「甲子園」や、九州ならば「福岡ドーム」(正式名称は、変わることもあるので、表記に迷いますが)といった施設名を使ったほうがいいのではないか、といった違和感を抱いてしまう。  もう一つは、それと似ているのだけど、アフリ

職場の「心理的安全性」を考える

 すでに何年前かも覚えていないが、職場に関して「心理的安全性」という言葉を初めて聞いたのは、世界的に活躍しているというビジネスパーソンが、どこかの壇上で話している時だった。  ビジネスに関連して聞いたのは、それまで記憶になかったが、心理的安全性という言葉はイメージしやすく、そのビジネスパーソンが、つぶやくように言った内容とともに記憶に残った。  日本は世界でも、会社組織の中での心理的安全性が、すごく低いのではないか。  驚くというよりは、それを聞いた時に、納得感とともに

「川の流れのように」の歌詞の不思議

 たぶん誰もが知っている美空ひばりの代表曲のうちの1曲で、今でも聞く機会が多い。  昔、飛行機の機内で、イヤホンをして聞いた時に、最後の「川の流れのように」の言葉が流れてくると、音符と音符の間にも無限に近い音符があるかのように、ものすごくスムーズに響いてきた。それは膨大な水の粒が集まって大きな流れのようになるようにさえ感じ、美空ひばりというシンガーの技術のとんでもない凄さを、改めて思い知らされたのを覚えている。自分の無知も分からされたような気もした。  そういう時は、歌の

「目的」と「手段」の関係について、改めて確認したいこと。

 自分の無力も自覚しながらも、改めて確認したいことがあります。  それは、「目的」と「手段」の関係について、です。  世の中のいろいろな(本来ならなくてもいい)理不尽は、それを間違えたりすることから始まることが多いような気がしていますが、改めて、その関係性を振り返ったり、見直したりしても、何かがすぐに変わるわけでもありません。  それでも、これを読んでくれた人が、ここから先の考えを広げてくれたり、豊かにしてもらえたら、ありがたいと思っています。 「ルール」は「手段」