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デジタルコンテンツの質、”フリーインターネット”の行方。 #日々短文随筆

ユビキタスコンピューティングの恩恵を受け、インターネットに誰しもが、いつでも容易にアクセス可能になり、ありとあらゆる分野での情報を得られるようになった。

今では YouTube などのプラットフォームをはじめとして、各方面のプロフェッショナルの方々が制作した学習コンテンツも公開されるようになり、従来の学習・教育のあり方も見直されてきている。

生徒が一人一台のパソコンを持つ時代

先日機会があって母校の高校で授業のTAをしてきたのだが、オンラインで参加することができ、また生徒は一人一台ノートパソコンを所有していた。授業の内容は生徒がグループでおこなっている探求学習の中間発表というものであったが、スライドの作成から発表までパソコンを使いこなしていた。自分が在学していた時を思い出してみると、パソコン室にデクストップパソコンが1クラス分ほどあり、パソコンを使う授業(ほとんどなかったが)がある時にはクラスで移動して授業を受けていた。在学時には自分は理系研究部に所属しており、部活動で使いたいということを言ったら親にノートパソコンを買ってもらえたので学校に持って行ったりしていたのだが、部活動で使う周りの友人たち以外にはそんなことをしている人はいなかった。当時は学生もほぼ全員がスマホを持っていたので持ってきている人はいたのだが、一人一台パソコンを持つ時代になったのだということに少し感動した。

これはひとえにコロナによる影響で登校ができない状況で重要になった”リモート授業”のためであった。

このリモート授業というのは、学生にとどまるものではない。

オンラインでの新たな学習方法

現在、社会人や大学生の新たな学習方法として、MOOCs(ムークス)の普及が世界的に進んでいる。MOOCs(ムークス)とは、世界のトップと呼ばれる大学がオンライン学習講座を提供している教育プラットフォームのことで、Massive Open Online Coursesの略である。日本語では大規模公開オンライン講座とも呼ばれている。

MOOCs(ムークス)の1つであり、普及の先駆けともなった「Coursera(コーセラ)」は、2012年の4月に、スタンフォード大学のアンドリュー・エン准教授とダフニー・コラー教授の2人によって設立された。

Courseraは現在196の大学・企業と提携し3,751の講座と16の学位を提供している。スタンフォード大学、イェール大学、ミシガン大学など世界的に有名な大学や、GoogleやIBM、SAPといった大規模なIT企業が講座を提供している。

Courseraは授業を受けることでその証明書を発行することができ、それは大学の学位と同様な効力を持つ。そのため、大学に通うまではできないが専門的なことを学びキャリアチェンジをしたいと考える社会人などが盛んに利用していたりする。

また、自分が専攻している分野のより高度な講義を受けたいという思いから、所属する大学の授業と並行してCourseraを利用し海外の大学の授業を受けてりしている人もいたりする。これはいってしまえば、授業単位で海外の大学に留学しているようなものである。

友人の一人に、海外の大学に留学する予定であったのが、パンデミックの影響で実際に現地に行くことはできなかったが全てオンラインで現地の授業に参加する形で”リモート留学”をしたという人がいる。友人曰く留学先の授業は全てzoomでリアルタイムで行われたとのことで、時差もあって大変だったらしい。海外で生活する、現地でコミュニケーションをとるという醍醐味を味わうことはできないが、Couseraのようなサービスを利用すれば、授業を受けるという目的での留学は達成できる。

パンデミックが与えた影響

前述した母校の高校の事例も一例として、インターネットに接続できるデバイスの普及とインフラ整備の進展に伴い、あらゆる情報を検索し、獲得できるようになった。旧来のメディアがこのような時代の変化による打撃を受け始めてからもう長い時間が経つのだが、ここ数年のパンデミックを受け、デジタルコンテンツに対するリテラシーが社会全体として向上し、また新たな変化が生まれたのではないのかと考える。

それは、デジタルコンテンツの「質」が改めて問われるようになったことだと考える。

玉石混交のインターネットの情報網から、本当に価値のある情報を識別する必要が生まれた。誰しもが文章、映像、音声を気軽に上げられるようになることで、加速度的に情報量は増加している。そんな中で、様々なプラットフォームは有用なコンテンツを「守る」役割を重要視していると考えられる。

「情報の質」を守るアプローチ

この「守る」アプローチには、プラットフォームの開放性ごとに2つのモデルがあると考えられる。

1つ目は、コンテンツのランク付けを行い、表示の優先順位を決定するというモデルである。誰しもがコンテンツを検索・視聴・投稿することができるオープンなプラットフォームについては、レコメンドアルゴリズムが活躍している。Googleの検索エンジンはWebページの引用・被引用関係などからそのページの重要性を評価して表示のランクを決定していたりする。YouTubeやTiktokなどは誰しもが投稿できるプラットフォームであることにより引き起こされるコンテンツの質の低下を、高度なレコメンドアルゴリズムを裏で動かすことにより防いでいる。

2つ目は、質の高い情報のやり取りが展開されることを前提として、閉鎖的なコミュニティを作るモデルである。一般的なサブスクリプションサービスは、対価を支払うことでそれにアクセスすることができるようにする例である。Courseraは講義ごとに料金を支払いうことで、大学教育レベルの学習コンテンツを視聴することが可能になる。WiredやNewsPicksなどのデジタルメディアは質の高い情報を提供する対価としてサブスクリプション制を導入している。また、最近著名人たちが参入している個人運営のサロンも、似通ったシステムだ。著名人にとって質の高い情報というのは閉鎖的なコミュニティでのみ共有したいパーソナルな情報である。パーソナルな情報というのは個人の思想なども含まれ、例えばTwitterなどで気軽に発信してしまうと想いもよらぬ炎上を招いたりするものであったりする。このような事態を招かないようにするためのリスクヘッジとして、閉鎖的なコミュニティの必要性が増してきたこともその背景だと考える。

Clubhouseが提示した”閉鎖的”なインターネット

Clubhouseは招待制という閉鎖的な形でサービスの提供を始めた(今では招待制を廃止した)。

招待制を取ったのは、自分だけが取り残されているのではないかという焦燥感を駆り立てるという戦略のためということもあった。これはSNS界において、「FOMO(the Fear Of Missing Out)」という言葉で表現される現象だ。一秒でも早く追いつきたい、誰でもいいから招待してほしいと人々が訴えるたびに、Clubhouseの認知は拡大していく。

単にユーザーを限定して早い段階でサービスをリリースして機能改善をしていきながら最終的に全ユーザーに開放するという計画であったのかもしれないが、今までになかった音声を取り扱ったSNSであっただけでなく、"閉鎖的なSNS"という新しいインターネットのあり方を提示したという点でClubhouseは革新的であった。

閉鎖的であるから、門外不出の今まではなかなか聞くことができない議論が交わされた。ユーザー名は本名で登録することが推奨された。誰しもが本名というフラットな状況にあったことで、興味深いコラボが成立した。

だが一方で、”閉鎖的”であるというのは危険を孕む。閉鎖的だということは、外部のものを受け入れようとしないということだ。


フリーンターネットの行方

フリーインターネットの象徴として捉えていたPodcastも今ではサブスクリプション制を取り入れるようになった。YouTubeがパートナーシップ制度を取り入れた経緯に似ている。

質の高い情報を提供する者にはその対価を支払う、という構造が成立したことで、インターネット上での情報発信者にとって、マネタイズというのが今や大きなインセンティブである。

Clubhouseも投げ銭機能を追加したし、Twitterも有料フォローで限定コンテンツを見られる「Super Follow」機能を検討している。


フリーインターネットはどこに残されているのか。これからのフリーインターネットはどこに向かうのか。興味深い問題である。









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