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感想を聞くまでが映画鑑賞です:「永い言い訳」を観た後、ずっと長い言い訳を続けてる。

子どもの頃、先生によく言われた。
「家に帰るまでが遠足ですよ」と。

大人になった私は思っている。
「ほかの人の感想を聞くまでが映画鑑賞だ」と。

そう思うようになったきっかけは、映画「永い言い訳」(西川美和監督)の鑑賞体験があったからだ。

この映画は、主人公・衣笠幸夫(本木雅弘さん)が、妻を事故で亡くすところから始まる。
幸夫は、自意識過剰で劣等感の塊で、端的に言ってしまうと本当にダメな人として描かれている。
妻(深津絵里さん)に対しても卑屈そのもの。妻からもらった愛情に対して素直に愛情で返せていない。妻が亡くなった事故のさなかも、不倫相手とのおうちデート中だった。
こんな調子だから、妻が亡くなったというのに涙も流さない。相変わらず、自分が周りからどう見られているかばかり気にしている。

もう一人の主要人物が、同じ事故で同じように妻を亡くした、大宮陽一(竹原ピストルさん)。主人公・幸夫と同じ立場でありながら、こちらは妻の声が残った留守録がなかなか消せなかったり、妻恋しさのあまり詐欺にあいそうになるなど、ものすごくまっとうに悲しんでいる。幸夫とは対照的。

幸夫はそんな陽一に向かって、あるときこんなことを言ってしまう。

僕はね、夏子(=妻)が死んだとき、他の女の人と寝てたんだよ。(中略)
君とは全然違うんだよ!

脚本・監督:西川美和「永い言い訳」(2016)

このシーンを観て、私は涙が出た。幸夫が自分自身とあまりに重なり、つらかったからだ。

というのも、この映画を観たとき、私もまた家族(父)を亡くしたばかりだった。
父が亡くなって悲しい、さみしい。そういう思いももちろんあった。
でもそれはある意味、想定内だった。
想定外だったのは、とんでもない自己嫌悪に襲われたことだった。

亡くなる直前の父に対して、私はいつも自分本位だった。

例えば、父が自宅で療養していた時期。友達から「飲みに行こうよ」と連絡が入るとする。
―飲みに行っている間に、父の体調が悪くなったら?
―酒臭い状態で帰宅するなんて、ひどくないか?
とか考えて、誘いを断る。断ると決めたのは自分なのに、「あーあ」とため息をついている自分もいた。
父のことは大切だった。でも、正直に言うと、「父が元気だったらこんな我慢しなくて済むのに。もっと自由なのに」などと、父を疎ましく思っていた自分もいた(「我慢」とか思っちゃってるあたりがもう・・・)。

一事が万事、この調子だった。そのことに、なんでか、父が亡くなってから、いちどきに気づいた瞬間があった。
父は自分を大切に育ててくれた。それなのに、そんな父の最期の最期に恩を仇で返していた自分。
街中で、カラスがつついたゴミ袋から、生ゴミが飛び出して散らばっているのを見かけることがある。あれを見たときのような、思わず顔をしかめるような嫌悪感に襲われた。

「こんなに自分を嫌いになったことはない」というくらい自分を嫌いになり、つらかった。

そして、さみしさや悲しさよりも自己嫌悪に心を支配されていることに気付いて、そのこと自体、自分本位であることに気付き、また自己嫌悪・・・の悪循環。

もらった愛情に愛情で返せず、どこまでいっても自分本位だった私は、スクリーンの中の主人公・幸夫を見て「これは自分だ」と思った。

でも、私の鑑賞体験はここで終わらなかった。
映画を観終えて、ふと、ほかの人の感想を検索してみた。

するとどうだろう、「主人公が自分と重なった」「自分にも、主人公のような部分がある」と言っている人が、チラホラではあるが、確かにいたのだ!

「なんだ、自分だけじゃないんだ」と思った。
そう思って、少しだけ、楽になれた。

同じ作品を観た、顔も名前も知らない人たちの言葉に救われる。エンドロールが流れ終わった後にも、映画は続いていることを知った。

「あんな風にダメなのは、私だけじゃないんだし」「幸夫だって、ラストでは、少しだけだけど、成長しているんだし(スタートラインに立てた程度かもしれないけれど)、私もいつかきっと・・・」ブツブツ。

自己嫌悪が完全に消えたわけではないけれど、「永い言い訳」と「永い言い訳」を観た人たちの感想のおかげで、私はなんとか生き続けることができている。「バナナはおやつには入らないもん」みたいなしょうもない言い訳を、ぼちぼちといつまでも続けながら。

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