11年前と今と世界は、繋がっているということ

今年の3月11日は金曜日でしたね。
11年前の3月11日も、金曜日だったんですね。
あの日のことを綴ってみます。
これまでもTwitterなどで毎年あの日のことは呟いてたけど、今年は、これまで書いていなかったことを加えて。


3.11。
11年前のあの日は、長男がお腹にいて、
ひどい悪阻でベッドで寝ていて、揺れに驚いて、
気持ち悪くてほとんど見てなかったテレビをつけた。
夫はかなり離れたところで仕事をしていたけど、
自転車で行っていたので何事もなく帰宅出来たことを覚えている。

原発事故のニュースを見てすぐ避難を考えた。
たぶん、テレビで避難のことを言い始めるよりも先に。

私は東京に住んでいるけれど、
お腹の子への影響を心配して恐ろしくてたまらなかった。
疎開することを考えた。


私の祖母は、長崎出身の被爆者だ。
家族の会話の中に、戦争や原爆、原発のことが自然にあった。そんな家庭で育った。
放射能、放射性物質は、私が幼い頃からよく聞いていた単語だった。
祖母を原爆症で苦しめ、友人と親戚を殺した原子爆弾の影響は計り知れない。
原爆投下から70年経っても、まだ正体不明の影響を抱えているという、怖い怖い化学物質。
当時の私の認識はそうだった。

事故のあと、改めて色々と放射能や放射性物質についてニュースや新聞に取り上げられたり本が出版され、自分にできる範囲で調べたけれど、怖いものであるという認識は当然変わらない。

初めての子どもがお腹にいる。
わたしは、どうするべきか。
ものすごく迷った。
夫ともたくさん話し合い、家族親戚とも話し合って、結局、私も夫も、東京に残ることを決めた。
東京で出産することを決意した。

しかし事故の影響はずっと心配だった。
お腹の子どもを無事に産めるのか、産んでも、元気に育ってくれるのか、本気で心配していた。
あの頃から、TwitterというSNSを毎日眺めることが習慣になった。
全国のママさんたちと情報を共有し、顔の見えない、会ったこともない、でもたしかに同じ地に生活して同じ状況で同じように心配しながら生きている女性たちと、励まし合いながら生活していた。

10年経った今も、不安や危機感は変わらない。
震災は、終わっていない。
人々の心に、体に、人生に大きな痕を残し、それは今も続いている。


ロシアがウクライナに攻め入り、1ヶ月。
原発とその周辺を占拠、攻撃し、先日解放されたというニュースがあったが、ロシア兵たちが高レベルの放射線を浴びた可能性があるという。
令和の時代に、チェルノブイリの名前をニュースで聞くことになるとは思ってもみなかった。

原発は、動かしたら最後、止めても廃炉にしても、ずっと人が面倒を見てやらなければならない。
ずっとお金を、労力を、時間を、安全を、与え続けなければならない。
途方もない搾取を続けるモンスター。
日本には、それが54基以上ある。

「強力なミサイルが着弾すれば被害を呼ぶ。対策は放射性物質のすべてを地中深くに埋める以外、難しい」
「放射性物質がまき散らされることが懸念される。現在の設備で避けられるとは考えていない」
「すぐに取れる対策は事実上ない」
まさにこの3月11日の、原子力規制委員会委員長さんの言葉だ。


世界も、日本の311も、続いている。続いていく。

もう見ぬふりは出来ないところに来ている。

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