![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47947019/rectangle_large_type_2_93ead568d776cfe025128d884a93975a.png?width=800)
「輝いてる」と言わないで
人は、誰でも自分のフレームからしか人を見ることができない。当たり前だ。私も自分のフレームと格闘するしかないのだけど、誰かの狭いフレームに入れられるとたまらなくなる時がある。
小さい頃は、「大人の指示に従うべき存在」として見られるのが嫌だったし、学校に行けば「勉強しに来ている存在」として見られるのが嫌だった。小さい私はちゃんと自分の意見を持っていたし、学校には友人に会いに通っていたに過ぎなかったのに。。。
大人になれば、このフレームはどんどん増える。—それに、合わせないといけない場面もどんどん増える。
「若い」 「女性らしい」 「かわいい」 「きれい」 「明るい」 「優しい」 「献身的」 「活発」 「頭がいい」 「すごい」 「えらい」 「頑張ってる」...「輝いている」
誉め言葉っぽいけど、私にとっては、自分に向けられたら嫌な言葉ばかりだ。
若さが私の長所ではないし、それはもうすぐ失うものだ。容姿や所作を褒められるのは好きじゃない。その言葉は、自分が”女性”として見られているという現実を私に突きつける。私は、自分を女性とは思っていないので、これはとてもキツイ。(私の顔の造形が単にとても好みな友人を除いて。)
優しさも、献身も、明るさも、活発さも、頭の良さも、その他の言葉も、ことごとく私にはプレッシャーになる。それらは私の特性の一部ではあるけど、限界のあるものでもある。そして、言われた後に、下心が見えることが少なくない。
それは私ではない。相手が私に求めているモノなのだ。
私はわたしの好きに生きているだけ。相手に見えているのは、その小さなフレームから見た私のほんの一部分だけかもしれない。
頼むから、自分のフレームでジャッジしないでくれ。
私が「輝いている」のは、わたしと神様だけが分かっていればいいことなんだ。
n
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?