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早智子という人

 今日、おばあちゃんが死んだ。
 認知症で施設に入っていて、93歳だった。

 夕方、LINEで「早智子さんの心臓が止まりました。葬儀は参加できなければ結構です。」と伯父から母へ連絡があった。
 義理ではあるが家族なのだから、こういう連絡は電話でするのが普通ではないかと思うが、伯父はこういう人なのだ。淡白で無駄がない。

 早智子さん、祖母は岡山県新見市の山の中の家で生まれ育った。現在でもびっくりするほど田舎だが、当時はひどく山ばかりの田舎だったと思う。小さい頃は何時間もかけて山を登ったり下りたりして学校へ通っていたのだとよく言っていた。山道を楽しそうにはしゃぎ回る少女が目に浮かぶ。
 祖母は成績優秀だったらしく、岡山市の女子師範学校へ進学した。当時で言えば、まるで留学である。赤毛のアンの様な活発で好奇心旺盛な少女には、それはとても大きな出来事だった。
 第二次世界大戦のさなか、師範学校を空襲が襲った。祖母は川に飛び込んで難を逃れ、焼け野原になった岡山市から新見へ戻ることとなった。地主であった実家では近所の人や退役兵に炊き出しやお米を上げる手伝いをしたそうだ。

 戦後、祖母は地元の小学校の先生になった。これが彼女のキャリアのスタートである。
 岡山県内の小学校を転々とし、やがて同僚で身寄りのなかった祖父と結婚。祖父は昇進を譲って、祖母が岡山県初の女性校長となった。当時の、特に閉鎖的習慣の根強い岡山県にあってこの職が続けられたのは、傑物と言わんばかりの彼女の手腕と、物静かな祖父の無言の支えがあってこそであろう。
 何校かの校長を務めあげた祖母は、退職後は岡山市の人権相談委員として人助けに奔走した。私が小学校の頃、学校の掲示板に貼ってある人権相談のポスターに祖母の自宅の電話番号が書かれていた時には驚いた。今ではありえないことに違いない。
 またその当時、昼夜を問わずかかってくる相談の電話について、彼女の稀有な才能を垣間見たことがある。ある夜、いつものように居間のソファで寝こけていた祖母のもとで電話が鳴った。すると、何事も無いかのように電話をとり、相談を聴き始めた。「ほうほう。はあ~、は~。そりゃあ、大変じゃったなぁ。。。」と相槌を打つ祖母。しかしよく見ると、眠っている。寝ながら電話相談を受けていたのだ!不誠実極まりない!(笑)
(だが、祖母の相談対応はとても評判がよかったことも付け加えておく。)

 人権相談委員を辞めた後、県の行政相談委員も務め、その傍ら教育と人権についての講演で各地を飛び回っていた。
 彼女の功績は勲章を授与された。愛国心の強い彼女にとって、この叙勲の喜びもひとしおで、この上なく誇らしい様子だった。私にもお祝いにと、菊の御紋の入った品をいくつかもらったが、どうしていいか分からなかった。

 脂ののった70代後半、そんな彼女を認知症がむしばみ始めた。どんな困難も自分で打ち破ってきた彼女にとって、それはとても辛いことだったと思う。仕事を徐々に減らし、講演を断るのも、自尊心の塊のような祖母には相当キツかったことに違いない。
 ちょうど同じころ、祖父が亡くなった。認知症は進行を続け、家族のたまの介護だけでは生活できなくなっていき、あれよあれよと施設入所に至った。

 話しを現在に戻そう。
 こうして祖母の訃報を聞いた母は、とてもショックを受けたようだ。父と離婚してからも、祖母を大切に想っていた母だったが、コロナ以降一度も会いに行けていなかった。母にとっては、早智子さんという人は、岡山県の女性のキャリアアップを推し進めてきた人でもあり、辛かった結婚生活の中で大変お世話になった人でもあり、大切な家族だった。悲しみも大きい。
 私にはまだ悲しみは追いかけてこない。いつ来るだろうか。
 伯父には、葬儀参加の旨を伝え、今日は床に就こうと思う。
 
 いつか、悲しみが追いかけてきたときのために。


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