公共交通の障害者対応について国際比較するときに注意すべきこと

 車椅子族にとって、公共交通の「乗れる・乗れない」問題は重大です。特に鉄道は、代替手段が事実上存在しない場合もあり、「乗れると思っていたのに乗れない」となると深刻な問題になりえます。

 バリアフリー化を推進するにあたって、国際比較には意義があります。というわけで、「欧米では」「外国では」「条約では」といった話と反発になりがちです。はたして、日本は進んでいるのか、それとも遅れているのか。国際的な責務を果たしているのか、それとも果たしていないのか。

 国際比較は、実は相当の難題なのですが、避けて通ることはできません。というわけで、注意すべきことを述べてみます。

まず国連障害者権利条約から見ていく理由

 現在なら、国連障害者権利条約(2006年採択)の締結状況から各国の国内法や制度や運用へと見ていくのが妥当でしょう。世界の国々のうち181ヶ国が締結しており、日本も2014年に締結しています。「原文を正確に理解したいけど英語はちょっと」という方は、川島聡=長瀬修 仮訳(2008年5月30日付)をどうぞ。以下、引用はこの仮訳から行います。

条約のどこが関係しているか

 国連障害者権利条約のうち、交通バリアフリーに直接関係しているのは、前文、第一条(目的)、第二条(定義)、第九条(アクセシビリティ)あたりです。大した分量じゃありません。障害者と公共交通について何か言いたい方は、まず読んでくださいね。

 なお、第二条のこのあたりは揉めどころになりがち。

「障害に基づく差別」とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする目的又は効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、合理的配慮を行わないことを含むあらゆる形態の差別を含む。
「合理的配慮」とは、障害のある人が他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を享有し又は行使することを確保するための必要かつ適切な変更及び調整であって、特定の場合に必要とされるものであり、かつ、不釣合いな又は過重な負担を課さないものをいう。

 各国や各国民が独自のオレオレ解釈をする余地は、なくはありません。人も社会も誤る可能性があるし、キワキワの場面では簡単に解釈できないこともあります。そういう時に国際社会に判断してもらう仕組みとして、条約の選択議定書が存在します。

条約は最初から全部を締結しなくていい

 条約を締結する際、全部を同時に締結する必要はありません。各国には、「ここは当面、守るふりをするのも無理」という事情がありえます。そういう時は、「第◯条を留保して締結」という形で、現在は締結しない内容を明らかにすることができます。日本は、留保なしに全てを締結しています。

条約の選択議定書も大切

 条約の締結は「この条約を守ります」という宣言ですが、言うのは簡単。このことは国にも当てはまります。どうにでも取れる国内法を「整備した」ということにして条約を締結してカッコつけることを確信犯として選択する国もあります。

 人権に関する条約では、多くの場合は「守れるようにしてもらいます」という宣言である選択議定書がセットになっています。選択議定書を締結した国は、個別の紛争について住民から国連の条約委員会に直接訴えられて介入されても文句言えなくなります。言い換えれば、そこまで本気で「守ります」ということです。

条約の締結条約の国際比較

 世界地図の形での一覧は、国連のこちらのページにあります。

 国連障害者権利条約を選択議定書とともに締結している国(赤)、条約を締結したけれど選択議定書はまだ締結していない国(青)、条約を認めたけれども締結していない国(クリーム色)が一目でわかります。

 見ればEU諸国の中でも、「北欧」とひとくくりにされやすい諸国の中でも、相当の温度差があることがわかります。

 また、意外な国が条約を締結していなかったりします。たとえば米国。米国は、国連障害者権利条約そのものに大きな影響を与えた国ですが、自分自身は締結していません。

条約の実施状況の国際比較

 さらに話がややこしいのは、条約の締結状況と実施状況がまた別であるということです。

 たとえば米国は、この条約を締結していません。しかし、「だから米国のバリアフリー化は遅れている」というわけではありません。公共交通に関しては、1990年の米国障害者法で、かなり強制力の強い形でバリアフリー化が義務付けられています。いきなり全部は無理ですし、現在もニューヨークの地下鉄など古い路線を中心に、バリアフリー化されていない駅が存在します。でも、新設する時や車両を入れ替える時にバリアフリー化していくことを30年間続けてきたわけですから、現在は「まだの駅もある」という感覚です。

 選択議定書とともに締結し、やる気をみなぎらせている国だからといって、実施できているとは限りません。ただし、「現在は実施状況に問題が多くて、車椅子族(例)の自分は困ってる」というとき、国連の条約委員会に「なんとかして!!」と訴えて、政府はじめ行政機関に介入してもらうという可能性が開かれています。たとえばフィンランドが、この状態にあります。

住民向けサービスと非住民向けサービス

 新型コロナ以前は車椅子の出張族だった私、出張先の外国のどこかで「非バリアフリーで困った」という経験はありません。しかしながら、住民として事前に登録しておかなくては利用できないサービスもあります。

 たとえば日本に来る外国人障害者は、日本の障害者手帳を持っていませんから、日本の障害者割引等を利用できません。といっても、その国の障害者証明書を持っていない外国人に対する障害者向けサービスの適用には「絶対ダメ」から「ま、いいじゃない」まで温度差があります。国や交通機関が全般的に、現場裁量の幅を広く認めている場合、「ま、いいじゃない」傾向が強くなります。

 その国で障害者と認められていない人に対する障害者サービスは、日常の足に近いものほど適用されにくくなります。たとえば、地下鉄に乗れない人のために用意されている乗り合いタクシーとか。外国人でも住民なら適用される可能性が高いのですけれど、行きずりの観光客なら難しいことが多いでしょう。

そこに地域等の差が重なる

 そもそも、これだけややこしいところに、地域や各事業体の違いが重なります。さらに外国から訪れる障害者は、障害者どうしの国際的なつながりの機会を通して、行きやすいところに行き、住みやすいところに住む傾向があります。「行きにくく住みにくい地域を含めて我が国、全体をなんとかしなきゃ」という意識を持ち続け、地道に物事を動かし続けていくのは、やはり地元の障害者たちでしょう。

運用の徹底状況の違いも

 そこに、たとえば「駅のエレベータの可用性はどうなんだ」という問題も。

 日本は、「◯駅にエレベータが1台ある」という場合にエレベータが利用できることを当てにしてよい、かなり稀有な国です。駅の営業時間内は、あらかじめ予告された保守時間等を除いてエレベータが利用できる状況にあるのなら、「可用性100%」です。この点においては、良い意味で「日本の常識は世界の非常識」です。

 さて。エレベータが動かないとき、どうなるのか。乗ることを断念しなくてはならないのか。エスカレータに車椅子運転モードがあって、それを利用できるのか。それとも、他の手段が用意されているのか。それとも……? 良くも悪くも、お国ぶりが現れやすい場面です。

国土面積、人口密度のバラツキなどの事情も

 人とお金が集まりやすい大都市部とそれ以外で、どうしても公共交通機関のバリアフリー化に温度差が現れやすいことは、どうしようもない事実です。

 たとえば沖縄県那覇市を走っている路線バスは、ほんの数年前まで、ほぼ車椅子では乗れないものでした。昭和レトロのかほりが漂う車両が走っていたりしましたから。それは「お金がなくて車両の入れ替えができなかった」ということです。

 出身地自慢で恐縮ですが、福岡県の西鉄バスは(少なくとも福岡市周辺では)、もともとバリアフリーではない車両を含めて、2007年以前に全車両がスロープを装備していたようです。西鉄の独自判断だったと聞いています。素晴らしいことですが、「福岡市が中心のバス会社だからやれた」という側面は否定できません。福岡市は、九州ほぼ全域の人とカネが集まっているような地域ですから。

 経営状況が危なっかしい公共交通企業に完全な交通バリアフリー化を求めるのは、「どう考えても無理」な場面が多々あります。

各国の国内法や制度の「スペック」を見ただけでは分からない

 各国の国内法を調べることは、言語の壁さえ突破できれば何とかなります。公共交通の事業体が明文化している規定についても、同様でしょう。しかし実際には、現場裁量の余地など明文化されていない部分が大きいもの。他法や他施策との関連も無視できません。

 国際比較は、実は大変な難題なのです。

実施責任はどこの誰にあるのか

 ここで、国連障害者権利条約に戻ります。

 条約が求めているのは、障害があってもなくても同様に生きて暮らすことができる社会の実現です。その責任は、各国政府にあります。

 たとえば、障害者各人に対して丁寧なアセスメントが行われ、その国のどこでも(場合によっては外国でも)困らないように介助が提供され、介助の中で公共交通機関の利用が保障されるという方向性もあります。現在ただちに100%のバリアフリーは無理という場合、実際にバリアがないのと同じように公共交通が利用できる状況を、なるべく実現するためにどうすればよいのか。

 条約を締結した各国政府は、条約を締結した以上、「やりません」「出来ません」とはいきません。しかしながら、手段の検討や提供を工夫する余地が与えられています。「A国の障害者の鉄道利用は、日本より厳しい条件が課せられている」という時、考えるべき可能性は「日本の障害者はわがままで甘えており、他国の制度をつまみ食いして紹介している」ということではありません。

 もしも、形の上でA国の公共交通を見た時に障害者差別だらけであり、しかもA国が選択議定書を締結しているのであれば、A国から国連の条約委員会に「なんとかして」という申立ての嵐になるはず。そういう事実があれば、狭い障害者の世界の中で、数年のうちには自分の目にも入っているはず(筆者はいくつかの障害者向け国際情報共有や専門メディアを購読しています)。でも「特にA国の評判が悪いという事実はないなあ」というとき、考慮すべきことは、A国の障害者がわきまえている可能性(まあ、めったにない)ではなく、「それでも困らない何かがあるんだろう」ということです。こんど国際会議で当事者に会ったら聞いてみようっと。

まとめ:「障害者もいる社会での平等を実現する」という目標の共有から

 公共交通のバリアフリー化を必要としていたり、あれば格段に便利だったりするのは、障害者だけではありません。一時的に杖や車椅子を必要とする場面は、負傷や病気などで誰にでも起こりえます。家族にとっては、「家族の車椅子を押す」という場面になります。また育児にあたっても、利用する駅の「階段かエスカレーターか、はたまたエレベータか」問題は重要でしょう。

 みんな平等に不便な社会と、みんな平等に便利な社会を比べれば、もちろん「平等に便利」な方が好ましいはず。

 現在ただちに実現できず「便利な人と不便な人がいる」という時、「不便な人は社会に差別されている」という事実くらい認めてもバチは当たらないでしょう。

 今すぐ、誰かが差別されている社会であることを止めるのは、現実的には無理かもしれません。でも、誰も差別されない社会に向かうことは、可能であるはずです。障害があることによって差別されない社会を目指すということを、日本は国連障害者権利条約によって世界に約束しています。

 日本の人々が、日本政府が約束を守ることを助けると、国や社会はトクばかり。損はしません。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。