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新橋乳児遺棄事件の実名報道は、ムカつくから止めてほしい件

 ここしばらく、「しかたないかもしれない。だけど、イヤだな」と唸っていることがあります。新橋の公園に乳児の遺体が遺棄された事件で、その乳児を産んだ女性(敢えて母親とは書かない)の実名が報道されていることです。

実名報道で、性差別が強化されるばかりですけど?

 正直なところ、実名報道する目的が理解できません。
 女性はすでに逮捕されています。今後、おそらく起訴されてそれなりの刑に処せられ、刑務所で数年を過ごして出所するのでしょう。少なくとも刑務所にいる間は、罪を重ねる可能性はありません。子ども虐待をする親がそのまま放置されていたり(よくある)、虐待していた子どもの成人後に都合の悪い事実を子どもごと揉み消そうとしている親が放置されている(これもよくある)状況とは、全く違います。
 女性が1人だけ罪に問われることも、納得できません。処女懐胎したわけはあるまいし、性行為をして精子を提供した男性が必ずいるはずです。親としての責任は、その男性も等しく問われるべきでしょう。
 もしも、女性の実名報道の目的が「亡くなった赤ちゃんと女性のDNAから、父親というか精子の提供者を突き止めて逮捕して責任を問うため」であるのなら、まだ分かります。女性の実名が報道されれば、性行為をもった可能性のある男性が浮上するでしょうから。

 でも、そんなことはありえません。女性を妊娠させた男性が、親としての責任を果たさなかった罪を問われることはありません。法律に定められていない罪によって、誰かを逮捕することはできません。従って、亡くなった赤ちゃんの遺伝的な父親である男性が罪に問われることはないのです。社会的制裁を受けるとしても、女性の受ける法的制裁や社会的制裁に比べれば無に等しいほど軽いものでしょう。あーっ、ムカつく!

亡くなった赤ちゃんにだけ優しい社会?

 女性は、赤ちゃんを産む前に妊娠に気づいており、産婦人科も受診していました。望まない妊娠をしてしまった場合に取れる選択肢を、自ら調べることもできたはずです。客観的に「ベストを尽くした」と言える状況ではありません。

 なぜ、誰にも相談しなかったのでしょうか。当時は大学生だったのですから、大学の学生相談室という選択肢があったはずです。大学の医務室や学生相談室にとって、女子学生の望まない妊娠は、「ときどきある」というものでしょう。

 なぜ、情報を充分に収集しなかったのでしょうか。スマホもパソコンも使いこなせたはずなのに。

 なぜ、各種ホットラインに相談しなかったのでしょうか。望まない妊娠をした人の出産までをサポートし、赤ちゃんを責任ある人のもとに託す団体は、全国各地にあります。

 第三者目線では、いくらでもツッコミどころを探せます。でも「選択肢がある」ということは、必ず「その選択肢を実際に選べる」という結果につながるとは限りません。女性は実際に、どの選択肢も選べなかったわけです。選べなかった背景が何かあるはず。

 亡くなった赤ちゃんに対する同情と死なせた女性への非難がこんなに盛り上がる日本社会で、なぜ、「ベビーカーで電車に乗るな」「新幹線で子どもがうるさいのはイヤ」といった主張が恥ずかしげもなくされるのでしょうか? なぜ、保育園入所や学童保育利用に「保活」が必要な状況が長年にわたって放置されているのでしょうか? なぜ、「マタハラ」「育休ハラ」がまかり通るのでしょうか? 

 結局のところ、妊娠・出産ができる身体を持っている女性にも、生まれた子どもにも、子どもを育てる親たち(特に母親)にも優しくない日本社会を温存している人々が、まったく罪のない立場からの「上から目線」で、赤ちゃんを死なせた女性に非難を浴びせかけるとは。電車の中で泣き止まない赤ちゃんを抱えて呆然としているお母さんを非難する人々が、亡くなった赤ちゃんに同情するとは(そりゃ、死んだ赤ちゃんは泣きませんけどね)。あーっ、ムカつく!

実名報道は当然か?

 私の知る限り、すべてのメディアが女性を実名報道しています。刑事事件の容疑者が心神喪失状態でも心神耗弱状態でもなく、したがって法的に完全責任能力がある以上、実名報道するのが自然ではあります。

 しかしながら、各メディアの判断で、実名報道を避けることは可能です。たとえば2019年1月、千葉県で発生した小4女児の虐待死事件に際しては、母親の出身地の沖縄県のメディアのうち1つが「刑期満了後、沖縄に戻ってくるかもしれない母親のその後を妨げないように」という判断から、実名報道を避けてました。この姿勢は、他メディアにもある程度は伝わったようで、「匿名にします」という明確な判断ではなくても、たとえば母親の実名を避ける形での記事化が数多く見られました。最初の一歩を踏み出すメディアがあれば、「横並び」や「後追い」をしたいメディアは必ず現れます。

 今回の事件に関しては、まだ、最初のメディアが現れていません。あーっ、ムカつく!

話題として消費する人たちに、実名は必要なのか?

 ムカつきまくっている私ですが、こんな大きな社会的背景を含んだ事件に対して、即効性のある何かを用意できるわけじゃありません。電車の中でギャン泣きしている赤ちゃんやダダをこねている幼児を抱えて困惑している親御さん(たいていは母親)に、「泣くのが仕事ですもんね。泣かなくておとなしすぎたら大変ですよね」とか話しかけて緊張を解くのが精一杯です。

 私を含めて、この事件に対する感情、特に女性への怒りや赤ちゃんへの同情を示している方々の多くは、この事件を一時の話題として消費することしかできません。誠実に関心を向け続けていたいと思っても、人間の持てる関心の総量には限界があります。どうしても、一過性の関心にならざるを得ないのが現実です。

 この事件の報道は、概ね、ニュースの消費者でいることしかできない人々に消費されて終わる運命にあります。少しくらいは、記憶のどこかにとどまるかもしれません。その蓄積は、長い長い時間をかけて世の中を変えるかもしれません。でも、消費されて終わる宿命の話題に、女性がこの後生きている限りつきまとう「当時の実名」まで、セットにする必要があるのでしょうか?

 メディアには、女性を実名報道することで失うものはありません。でも、実名報道された女性は、今後の生涯にわたって、一方的に多くを失います。それは、犯した罪に対して妥当なことかもしれません。しかし、亡くなった赤ちゃんの遺伝上の父親である男性は、何のお咎めも受けないのです。この状況で、女性が一人で責められ一人で多くを失うことが、私はどうしても釈然としないのです。あーっ、ムカつく!

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。