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オンラインイベント「2020年から2050年へ。『図書館』(仮称)をリ・デザインする!」へのお誘い

 毎年秋に横浜で行われているイベント「図書館総合展」、今年はオンライン開催です。そして明日、2020年11月3日の13時から、同じくオンラインイベントとして、
「2020年から2050年へ。『図書館』(仮称)をリ・デザインする!」
が開催されます。開催主体は、私も参加している「図書館(仮称) リ・デザイン会議」です。

図書館の「中の人」、図書館ヘビーユーザー”ではない”方々、ぜひご参加を

 私が特にご参加をお勧めしたいのは、図書館の「中の人」ではない方、図書館ヘビーユーザーではない方々です。

 図書館は、周辺のすべての人々に何らかの影響を及ぼしています。存在すれば、内容や予算規模によって。存在しなければ、存在しないことがもたらす何らかの不利益によって。このことは、公営であれ民営であれ、大規模であれ小規模であれ、総合的でれ専門的であれ、独立した図書館であれ大学等の機関に付属した図書館であれ、すべての図書館に共通しています。

 図書館、あるいは美術館や博物館や公民館などの社会教育施設に勤務する「中の人」にとって、図書館がどのようであるかということは、自分自身の職業と収入に直結した重大な課題です。存在価値を認められ続けていなければ、その職業で就労を継続できる可能性は薄くなっていくわけです。実際に存在するのは、「存在価値は認められており、スキルアップも期待されているけれども、収入や雇用条件は悪化するばかり」という残念な現実です。そのことは、図書館等の施設の「外」ともつながっています。

 図書館のヘビーユーザーにとっては、図書館の重要性は言うまでもないこと。でも、図書館にかかわる経費削減が地方議会で話題になるとき、「利用者は住民の一部」いう主張が、「必ず」といってよいほど出てきます。直接の利用者以外の人々にとっても何らかの利益がありそうなものですが、「足を運んでその場に滞在して資料を借りる人は少ない」と言われたとき、「いや皆さんに利益が」という主張を、説得力のある形で行うことはできるでしょうか? けっこう難しいと思います。

図書館は天から降ってこないはず

 いずれにしても、「中の人」は図書館をめぐる動向や政策に敏感です。ヘビーユーザーも、そうかもしれません。しかし、「中の人」でもヘビーユーザーでもない人にとって、地域の図書館の話題は、しばしば、突然降ってくるものです。

 たとえば、高知県四万十町の元町会議員・西原真衣氏のブログ「風力発電と蠢く町政」を見ると、同町で現在進行中の文化施設に関する計画は、少なくとも書かれたご本人にとっては突然、透明性のないプロセスを経て降ってきた、不信感いっぱいの計画であるようです。

 2020年3月20日付のエントリーから、まず、受託したアカデミック・リソース・ガイド株式会社の岡本真氏について。

ARGの岡本氏も一朝一夕で自治体事業の受託に漕ぎつけた訳ではないだろう。なんせ先述のNPOと違って全国レースであるので、並み居る競争相手を常に出し抜かなくてはならないのである。図書館に特化したコンサルタントは今までいなかったので占有状態が続いているもかもしれない。ニッチな分野を嗅覚で嗅ぎつけたのだろう。
取り合えずアドバイザーを呼んでみた教育委員会職員は、岡本氏の自信たっぷりな振舞いとその学識に救世主を見た思いで、ついついそそくさと委託契約を結んでしまったのである。なんだか結婚詐欺に似ていると思うのは私だけであろうか。
 岡本氏は行政コンサルタントになる当たって、行政応答アルゴリズムをほぼ完璧に習得している。さすがヤフー知恵袋の開発者だけのことはある。

 その見方が当たっているかどうかはともかく、アカデミック・リソース・ガイド(株)は、単年度の受託を行った業者です。四万十町が選ばなければ、受託することはありませんでした。根源は、四万十町への不信感にあるようです。

「何でも知っている男、頼られたら、いつでも相談に乗ってくれ、そうすればいいのかを伝授してくれる男」が、役場内に存在しない以上は、ついつい岡本さんを頼ってしまう周辺の女性たちを責めるわけにもいかないのだろう

 たとえ、市民参加型という形態を取っていても。もしかして、それが見た目だけではなく内実を伴っていても。

私は、「文化施設と育つ会」発足の情報を得た時から、今まで、生涯学習課管理職男性たちによる図書館現場職員(副館長の森山氏以外は全員女性)の知見の収集や活用の意図など微塵も感知できないで来た私としては、「何を今さらコンサルタントの飯の種にされっぱなしでこんなこと持ち出して」としか正直思えなかったのである。

 行政の営みはすべて、誰かが反対し、誰かが理解していないところで進められる宿命にあります。反対や無理解の背景には、積もり積もった積年の土地の怨念のようなものがある場合もあります。それを解きほぐそうとする試みは、反発や恨みつらみなどネガティブな感情が根付いている上に行われる宿命にあります。

図書館が「降ってくる」時、入り込めない人は? マイノリティは?

 市民参加型ワークショップで素晴らしい施設が作られ、住民にとって真に有益であることが年々確信されていく事例は多数あります。しかし、もともと意見を言わずに埋没しがちな傾向にある人は、そういう場に自ら出ていかないでしょう。周辺化されやすい人々にとって、モノを言うのはときに恐ろしいことです。たとえば、自分の区域の有力者の意見に全面賛成しなかった復讐が、数年後にわかりにくい形で、しかし致命的に自分を襲うのかもしれないし。

 私は障害者です。障害者が出ていかなければ拾われない声は、必ずあります。障害者が声をあげなければ、障害者に対する公共施設の合理的配慮や障害者サービス(合理的配慮の一部であり、別に障害者優遇ではないのですが)は、障害者にとっていつまでも「得られるかもしれない恩恵」「感謝以外はしちゃいけない」という位置にとどまることでしょう。

 でも、たとえばそういうワークショップの場に出ていって声をあげることは、事実上不可能です。公共をより好ましいものにする集まりには、善意の人、福祉的な考え方や職業の人が必ず来ます。その人々は多くの場合、「障害者に対して思いやりや配慮ができる自分」はアピールしたいようです。障害者の代弁は、頼んでなくても、そんなことは思っていなくても喜んで行ったりすることがあります。しかし、障害者自身が声をあげ、意見を述べ、意思を表明することは、望まれていません。それでも私は声をあげます。ときには、「自分が怒鳴ったりトラブルを起こしたりしていなくても、自分が事実上の出禁になる」といった復讐が待っていますけれども。

 そうこうしているうちに、障害者の居場所は失われつつあります。このコロナ禍で。

営利企業の論理に任せれば失われる”居場所”

 コロナ禍は、経済のあらゆる側面に概ね、好ましくない影響を与えています。

 飲食店は、感染対策の側面から、通常より席数を減らしての営業を求められています。このことが意味するのは、ふだんより少ない客が、もしかすると客自身の懐具合の悪化によって少ない客単価で店舗を利用するということです。

 ファストフードやコーヒーショップやファミレスなどのチェーンには、より小さな店舗面積と少ない席数で、テイクアウトの比重を増やす形態への転身が見られます。車椅子族の私にとって、店舗が広く通路も広く客密度が少ない分だけ他の客とのトラブルの確立が少ない店舗は、ありがたいものです。しかし、ここ数ヶ月で、「そういう店舗ほど早めに閉店に追い込まれる」という残念な事実が見られます。

 最寄りの西荻窪駅には、駅の南側と北側にドトールがあります。南側の店舗は狭く、しかもレジ前が特に狭くなっており、レジの反対側に客席があります。緊急事態宣言が解除されて以来、そこに行くと、支払いを済ませて飲食物を受け取って離れるまでの間に、レジの反対側の客席の誰かから咳やくしゃみをぶっかけられます。相手は概ね中高年男性、マスクをもともと着けていない場合も、着けていたマスクをわざわざ外してそういう行為に及ぶ場合もあります。北側の店舗は比較的広く、この手の問題が起こりにくい配置だったので、そちらを主に利用するようになりました。しかし、このコロナ禍の影響で、北側の店舗が閉店することになりました。私が交通機関を利用せずにアクセスできて利用できるドトールは、事実上消滅します。

 安価なコーヒーショップ、コンビニのイートインといった「かりそめの居場所」は、経済原理にまかせておけば、より狭く、より人口密度が高く、より落ち着かない場所になるしかありません。それで成り立つビジネスなのですから。しかし、個々の店舗や企業の選択は、結果として私のような障害者が選ぶことのできる「かりそめの居場所」を減らしたりなくしたりすることになります。

 このことは、国連障害者権利条約に違反しています。日本政府は2014年に締結していますから、違反しない義務があります。日本政府には、各企業が結果として違反する選択をせずに済むように対策し、違反させないよう行政上の措置を取る義務があります。しかし、現在の菅政権にそんなことを期待できますか? 無理ですよね。

私も含む「みんな」のために、どこから何が言えるのか

 結局、あらゆる人が「自分にも他の人たちと同様に居場所がある」と実感できる地域と社会を作るためには、マイノリティや声をあげにくい立場の人々ほど、出ていって意見を言って形にしてもらう必要があるのです。特に、営利のために活動しているわけではない公共にこそ、自分自身の声を伝え、反映させる必要があるのです。しかし、そんなことは現実の問題として概ね不可能です。自分たちがマイノリティであり、声をあげにくい立場にあるから。

 突破口は、私にも見えません。図書館に育てられたも同然の子どもだった私は、半ば自分の社会的責務として、何らかの形で図書館と関係する活動や仕事も細々と続けています。ときに怯え、ときに不当な攻撃を受け、ときに不審者や情報泥棒扱いされながら。そして、「図書館(仮称) リ・デザイン会議」にも参加しています。

 皆さん、活発に楽しそうに参加していらっしゃいます。何かに秀でており、人間力に優れ、パワフルです。私は、他の皆さんと違う自分に何らかの価値があると実感できないまま、参加しています。皆さんもご活動も、掛け値なく素晴らしいと思っています。タイトル画像は、会議のメンバーのお一人である三浦なつみさんがお描きになった「リ・アマビエ」です。この素敵な画像だけで、皆さんのパワーと楽しさが伝わるのではないかと思います。

 正直なところ、私自身はあまり「楽しい」と感じていません。それでもそこにいるのは、「愛され力にも人間力にもあれにもこれにも欠けたマイノリティである自分が発言したり参加したりできる突破口を見つけたい」という思いがあるからです。私が何らかの取っ掛かりを発見でき、実際に何かを言ったりしたり出来た実績ができれば、それを参考にして、他の障害者の方々やマイノリティの方々がご自分に適した方法を工夫されることでしょう。

 一連の会議、今回のイベントの一連の(さまざまなパワーと資源をボランティアで投入しての)準備を見ていて思うのは、まだまだ「図書館をはじめとする社会教育施設の中の人による中の人のための中の人の活動」という段階にあるということです。その方々の素晴らしいリーダーシップを拝見しつつ、まず、どのようなフォロワーシップが考えられるのか。マイノリティ当事者が何らかのリーダーシップを発揮することがあるとすれば、「愛される良い子ちゃんマイノリティ」路線以外に、何がありうるのか。

 「図書館(仮称) リ・デザイン会議」に参加するのは、それなりに大変です。出来ることが限られている中で「参加している」という状態を維持するだけで、相当の神経を使います。しかし今回のイベント「2020年から2050年へ。『図書館』(仮称)をリ・デザインする!」は、どなたにも開かれたイベントです。

 別途、図書館総合展サイトのフォーラムページをご確認の上でのお申し込みが必要であることにご注意のうえ、明日11月3日の午後、聞くともなく耳を傾けていただくと、少なくとも損はしないと思います。

 今とこれからの図書館を、誰がどのように、考えたり変えたりしようとしているのか。お住まいの地域での大小さまざまな動きと考え合わせながら耳を傾けていただけば、その地域での行政と文化の動きは、いくらか、突然降ってこないものに変わってくるのではないでしょうか。

 すべての人にとって、文化施設計画が天から突然降ってこないものになれば。
 言い換えれば「雨雲が近づいてきているから雨が降りそうだ」ということと同程度に予測可能で、「傘をさす」「外出をやめて屋内での楽しみを探す」といった選択肢を自ら持てるようになれば。
 おのずと、マイノリティも声を上げにくい人も、自らの声をどのように反映させ、どのように「自分を含む、みんなの幸福」をより大きくできるようになるか。その取っ掛かりや突破口くらい見つけられるようになるのではないかと期待しています。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。