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「東大卒マスク拒否おじさん」の経歴から読み取れること

 国内線旅客機内でマスク装着を拒んで飛行機を緊急着陸させた「マスク拒否おじさん」が、2021年1月19日に逮捕され、経歴が話題になりました。

「侮辱罪だ! 謝罪させろ!」逮捕された“マスク拒否おじさん”は東大出身の研究者だった《捜査員相手に大暴れ》

 私は21歳のときから、概ねずっと研究の世界とのつながりを持っています。時期により、付き合い方は「片足だけ」「足の指1本だけ」という場合もありますが、研究業界とつながりがあると、「東大出身の研究者」は別に珍しくもなんともない存在ですし、知り合いに簡単に数えられないほどいます。とはいえ、飛行機を緊急着陸させて逮捕された「東大出身の研究者」の知り合いはいません。おそらく、「東大」や「研究者」は、マスク装着拒否の原因や背景とは言えないでしょう。

しかしながら、研究業界と濃く薄くつながっている立場から見ると、逮捕された男性の経歴は「なんだか臭うぞ」のオンパレードです。1980年代に大学院修士課程に進学し、現在は2つ目の大学院博士課程(1つ目は単位取得退学)に在学中の者として、「これは説明するのが社会的責務かも」と思いました。

 なお、私は「現在の大学と研究業界のフツーに照らすと、どう理解することが可能か」という立場から説明します。その「フツー」の是非については、本記事では判断しません。

逮捕された男性の経歴

 報道内容を総合すると、逮捕された男性・O氏は灘中高から東大に進み、東大の大学院で政治学を専攻。博士後期課程(修士課程と博士課程が分かれている場合の博士課程に相当)では日本学術振興会の特別研究員でした。

 日本学術振興会、略して「ガクシン」の特別研究員(大学院生ならDC1またはDC2)に選ばれると、月額20万円の生活費、加えて研究費が支給されます。それは、日本の博士課程大学院生から選ばれた1000人未満に与えられる特別な立場です。日本の学術界が「将来を期待できる研究者」と認めたというお墨付きでもあります。ガクシン特別研究員なら無条件に学費を免除する大学院もありますから、経済的メリットに限定してもメリットは多大です。

 しかし博士論文は執筆しなかったようです。研究実績、探せば出てくるんでしょうけど、簡単には見つかりません。逮捕された時点では、明治学院大学の特別ティーチング・アシスタントの職にありましたが、逮捕を受けて解雇されました。

「日本学術振興会の特別研究員」になるためには

 日本学術振興会の特別研究員は、かなり狭き門です。全国の大学院から応募がありますが、その前に学内での実質的な選考や競争があります。院生間の「ライバルになりそうな院生に嫌がらせをして応募する気をなくさせる」といったものも含めて、まあ、いろいろあります。

 このこと自体には、「そういうグログロドロドロを含めて総合的な能力が評価される」ということで、研究業界で一応の合意のようなものがあると見ています。学内政治を生き延びられず、したがって研究者として生き延びられないのであれば、他にどのような能力があっても、研究者としての未来はないわけですから。

 日本学術振興会の特別研究員になるにあたって必要なのは、「この院生を特別研究員にしたい」と考える指導教員です。指導教員が熱心であれば特別研究員になれるとは限りませんが、指導教員が乗り気ではない場合には、まず特別研究員になることは無理でしょう。場合によっては、自分の指導教員による自分の悪口が、審査を行う同じ研究分野の大家たちに回覧される可能性もあります。生涯にわたって「あのとき応募しなきゃよかった」と悔いるようなことにもなりかねません。

 O氏は特別研究員の「DC1」でした。博士後期課程に進学する前年の春に応募し、博士後期課程進学と同時に特別研究員になるというものです。おそらく博士前期課程の指導教員が、O氏を特別研究員にしたかったのでしょう。相当の確率で、その指導教員は博士後期課程の指導教員でもあるはずです。

謎の言動はいつから?

 私が気になるのは、「O氏の独特の主張内容や主張のスタイル、そして逮捕理由となった航空機内での暴力的な言動などが、いつごろから表面化していたのか」という点です。

 むろん、どんなに問題のある言動があっても、どんなにセーカク悪くても、「研究の能力とは関係ない」と言える場合もあります(分野による)。人格が円満で研究の能力が低い人と、人格に問題があって研究の能力が高い人を比較したとき、「研究者」として能力が高くて将来性があるといえるのは後者です。

 2020年9月の機内での出来事に見られたO氏の特徴は、O氏が博士前期課程にいて日本学術振興会の特別研究員に応募した2010年度、あるいは博士後期課程在学中の2011年度~2013年度に、既に現れていたのでしょうか? 経歴から見る限り、「わからない」としか言えません。もしも同様の言動が繰り返されていたとしても、大学院での研究活動や特別研究員での採用に関しては、ほぼ支障がないからです。もし支障があるとすれば、自分の指導教員を含む教員をターゲットとして攻撃性を向けた場合に概ね限られます。

 ここで「支障がない」というのは、あくまでもO氏本人やO氏の指導教員にとっての話です。極端なウラオモテがある人の場合、指導教員は問題の面を本当に知らないままでいることもあります。

大学の「特別ティーチング・アシスタント」から見えるもの

 逮捕された時点のO氏は、東京都内の私立大学の「特別ティーチング・アシスタント」という身分でした。報道によっては「大学職員」としています。身分としては、研究者ではないけれども研究に関連した技術を持ち研究の現場で働くテクニシャンと同様とみてよいでしょう。O氏は博士号を取得していなかったため、大学や研究機関で、若手教員や研究員のポストにつくことが困難です。現在、研究キャリアの一歩を踏み出すためには、「研究者の免許」である博士号が必要です。

 もっとも、分野の成り立ちからいって「誰も博士号を持ってないのが当たり前」という場合もあり、大学教員になるにあたって博士号が必須というわけではありません。京都精華大学マンガ学部のような例もあります。博士号の位置づけは、時期によっても分野によっても変わります。誤解しないためには、「その時期のその分野での相場」に照らし、安易な決めつけを避ける必要があります。

 それにしても、「特別ティーチング・アシスタント」とは、あまり耳にしない職名です。

 通常、大学の「ティーチング・アシスタント」は、教員の教育活動のアシストを行う非常勤職員です。といっても多くの場合は、お金に困っているけれど研究のためにはバイトを増やせない大学院生、それも博士前期課程の大学院生が就く学内バイトです。大学院によっては、博士後期課程の大学院生が就く場合もありますけれども、博士後期課程なら通常は「リサーチ・アシスタント」になるのではないかと思われます。研究者の卵だから研究アシストの職務につくのは不自然ではありません。

 逮捕時点でO氏が勤務していた大学は、学部学生のサポートのために「特別ティーチング・アシスタント」という業務を用意し、博士後期課程の大学院生が就いているようです(同大学Webページ)。なぜ「特別」がつくのかは分かりません。「特別」のつかないティーチング・アシスタントもいるのかもしれませんが、よくわかりません。通例から見れば、博士前期課程の大学院生のための「ティーチング・アシスタント」業務が既にあるから、博士後期課程は「特別」をつけているのかもしれません。

 最大の謎は、なぜその学内バイトのポストにO氏が就いていたのかということです。このようなポストは通常、他大学の卒業生や大学院生からの応募を受け付けることはありません。何があったのでしょうか。O氏の指導教員がその大学に異動したのでしょうか。それとも、政治力をもってO氏をそこに押し込んだのでしょうか。とにもかくにも、O氏の東大での指導教員をはじめ、バックにいる学術界の有力者が鍵を握っていそうです。

「高学歴(ほぼ)ニートの生きる道」という観点から

 O氏が、なぜ博士号を取得していないのかは分かりません。しかし、研究を通じて獲得した職業能力は、いろいろと保有しているはずです。研究にこだわらずに職業生活を送る方向性も考えられるでしょう。逮捕時点では34歳でしたが、34歳は十分に若いです。適切なアドバイスや機会があれば、幸せな職業人になれる可能性はあるのではないかと思います。というより、おそらく、ご本人なりに模索はしていたのではないかと思います。その結果が今回の逮捕であるとすれば、まことに救いのない話です。

 しかし、高学歴ワーキングプア問題やポスドク問題について、何らかの有効な手立てがあれば、既に取られているでしょう。問題を認知しつつも、ほぼ何もできずに20年以上経過しているのが、現在の研究業界でもあります。そう考えると、ご本人や家庭や、ご本人周辺の研究コミュニティの問題とも言えなくなります。

結論:大学院や研究業界の「そもそものありよう」と「今」を知ってください

 なんだか歯切れ悪くなりましたが、とにかく私には、大学院や研究業界の「そもそも」と「今」を知ってほしいという思いがあります。背景がわかれば、より正確に事実に即した理解ができるでしょう。そこに現れているのは、一人の「変な人」「イタい人」の問題であるのと同時に、日本社会や研究業界全体に通じる課題であるのかもしれません。

 正確な理解ができれば、有効な対策ができる可能性もあります。O氏の経歴には、報道をざっとたどった限りでも、日本の研究業界の体質や構造の影が色濃く落とされています。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。