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植松聖被告の死刑に私が反対する理由

 2020年3月16日、「津久井やまゆり園」での障害者殺傷事件の加害者、植松聖被告を死刑に処する地裁判決が言い渡された。

 19人に対する殺人事件として、現在の日本で死刑判決が下ることは、当然といえば当然であろう。現在のところ、「永山基準」によって、「3人殺せば死刑(状況によっては1人または2人でも)」というのが通り相場となっている。それに照らせば、少なくとも死刑6.3回分の罪であるが、死刑は1回実行したら次がない。

 でも、誰もが避けて通っているように見える問いがある。殺された19人は、すべて知的障害や発達障害などを伴う重度障害者だった。重度障害者19人は、健常者19人に相当するのだろうか?

 私自身は、「相当する」と考えている。生命1人分は、誰の生命でも1人分。そう仮定して、その仮定を現実にすることを考えるべきだと思っている。日本人約1億2000万人の生命の価値は、”生産性”と無関係に、1人分の生命の1億2000万倍。それを前提に、すべての生命を守る方策はないのだろうか。少なくとも、「打てる手は打ち尽くしたけれど、しかたない」と言える状態ではないだろう。

 しかしこれまで、法廷において、障害者の生命の価値、特に精神障害者や知的障害者の生命の価値は、「健常者1人分」からは程遠いものだった。障害者殺しの罪は、健常者殺しの罪より軽い。それどころか、罪に問われなかったり起訴されなかったりすることもある。民事の損害賠償でも、10代や20代の障害者の死亡事件に対して、高くても2000万円台だ。健常者なら、10倍になってもおかしくないだろう。それでも「高すぎる」という抗議が起きる。昔の話ではない。少なくとも2018年ごろまでは現実がそうだった。

 2019年に入って、若干の変化があった。精神障害のある子どもに困らされた果てに中年の子どもを殺した高齢の親に対し、実刑判決が課される判決”も”現れはじめた。

 障害者の生命の価値は、健常者の何分の一なのか。あるいは健常者に等しいのか。
 どのような場合に、障害者殺しが正当化されたり情状酌量の対象になるのか。「親として30年困らされた」という事実を、懲役の数年分の減刑に相当させてよいのか。植松被告の場合、本人は正当化しているが、それを「身勝手」と片付けてよいのか。日本社会に、そう断言する資格があるのか。
 今回の判決で私が全く納得ゆかないのは、その点だ。

 そして、もしも植松被告が死刑に処せられてしまったら、彼自身の「日本と世界のために正しいことをしたヒーローなのに、不条理にも死刑に処せられる」という「身勝手」なストーリーを完成させることになる。植松被告の「身勝手」を、日本社会が手助けしてよいのか?

 というわけで、植松被告の控訴を、私は心から待ち望んでいる。

 


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