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ノラを愛する同志になりたかった

世の中には2種類の人間がいる。共同幻想に入れる者と入れない者だ。

というわけで、ミュージカル『ヴェラキッカ』の話をさせてください。
ちなみに私は共同幻想に入れない側の人間でした。
現地と円盤どちらで見ても共同幻想に入れなかった。どうやら私にはノラ・ヴェラキッカを愛する資格がないようです。
現地でも友人達との鑑賞会でも感想が二分されている大変面白い現象が起きていたので、感想を残しておきたい。

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事の経緯

現地にて

今年1月に観劇オタクの敵、東京建物Brillia HALLにてミュージカル『ヴェラキッカ』を観劇しました。音響と謎の柵以外は大変よかった。話はめちゃくちゃ好み。ヴェラキッカの一族とWelcome to the Verachiccas!が楽しすぎてライブやってほしいって思いました。
行った回はバルコニーのところでキャンディの髪がノラの服にひっかかったのをノラがそっと解こうとしてたのがかっこよすぎた。大変良かった。本当だよ。

ただ、私の初見感想は「なんだこの救いのない話は!!」だったんです。カテコが終わって退場してるときに周りの人たちが「いい話だったね」とか「ハッピーエンドだったね」とか言ってるの聞きながら怖……正気か??って思ってました。暴言がすぎる。
帰りながら、あ、これ私が共同幻想に入るの失敗したやつだ……ってなりました。

鑑賞会にて

というわけで、完全に共同幻想に入るのに失敗した私は、円盤が届いたタイミングで地元の友人達とノラを愛する鉄板焼き大会@我が家を開催しました。お好み焼きが美味しかったです。

参加者は
・私を繭期に突き落とした張本人、友人A
・同じ日に劇場で観劇し、私同様に共同幻想に入れなかった友人B
・友人A,Bと私に繭期に突き落とされた哀れな被害者友人C
・何も知らないけどお好み焼きと焼きそばを食べに来た友人D
の4人。
ヴェラキッカ家の一員になろうとしていたのは友人A~Cの3人。無事、共同幻想に入れたのは友人Cのみでした。なんで???

シオンには幸せになってほしい

共同幻想に入れないかった、つまりあの話をハッピーエンドだと思えなかった私の話を聞いてほしい。
ハッピーエンドだと思えない。でもハッピーエンドだと思いたい。なぜならシオン・ヴェラキッカが好きだから。好きな人には幸せになってほしいじゃないですか。でもあの結末を私は“幸せ”だと思えなかった。寧ろカイがシオンを噛んだ瞬間に「超特大ライネスここじゃねえか!!!!!」と思いました。

友人Cの証言

友人Cは最後、シオンとノラが会うところで号泣していました。それどころか本編終了後は「めちゃくちゃいい話じゃない??」「幻想であっても好きな人と一緒になれてよかった~!!って感じ」とか言っていた。こいつ正気か?と思いました。
もう本当にこのヴェラキッカを見た人の感想がこうも二分されるのまじでなんでなの??これは本当にちゃんと言語化して消化したい。

考察

冷静に考えてみた

そもそも何故私は幸せな結末ではないと思ったのか。
たぶんハッピーエンド派の意見は友人Cの証言と一緒なのだと思います。
屋敷は燃えないし村も燃えないし、例え幻想であろうとも愛し合った2人が一緒になれた。キャンディが遠い未来でもノラとシオンがあの屋敷で幸せに暮らしていることを確認しているし、疑いようもなくハッピーじゃない?ってことでしょ??言わんとしていることは分からんでもない。でもそれを幸せと呼ぶのはあまりにもだめでは?と思ってしまうのである。

腑に落ちないポイントその1

私の主張を語る前に、ちょっと思い出してほしい。大人になったノラ・ヴェラキッカの姿を誰も知らないということを。
シオンが知っているのは扉越しに話していた声だけ。埋葬したロビンは容姿を知っているかもしれないけど、誰にも知られないように庭に埋葬したのなら夜埋めている可能性、つまりしっかりと容姿を確認できていない可能性が高い。他のみんなは姿や声どころか性別や年齢すら知らないまま、それぞれの思い浮かべるノラ・ヴェラキッカを愛している。そうするとノラの姿をちゃんと見たことがある人はいない
それを踏まえて考えると、シオンが最後に会って愛すると決めたノラ・ヴェラキッカって何なんだ。それどころか根本的に何をもってソレをノラ・ヴェラキッカと定義すればいいんだ?誰も本当のノラを知らないのに。
「幻想だとしてもノラと会えてよかった」??姿も知らないのに勝手に想像した姿をノラだと定義して1人幸せを感じてもいいのだろうか。それを私は“幸せ”と呼んでいいのだろうかと思うわけです。

腑に落ちないポイントその2

そもそも本物のノラ・ヴェラキッカどころか幻想のノラ・ヴェラキッカにも救いがない。シオンがイニシアチブを解くときに「イニシアチブを解いて共同幻想から解放されるのがノラの望み」みたいなこと言ってるじゃないですか。それを言った数分後に再びノラを幻想の中に閉じ込めるのが手のひらクルックルすぎる。ノラを愛していると言いながら彼女の望みを無下にしている一族の皆さん、本当に言っていることとやっていることが違いすぎませんか??情緒大丈夫??
「ノラに会いに行こう」と言っているけど、死んでしまった本当のノラ・ヴェラキッカは死して尚孤独のまま。墓標なんてないだろうし、唯一場所を知っているであろうロビンが共同幻想の中にいるので墓参り的なこともしていないだろうし。
生前から完全に一族の犠牲にさせられているだけのノラと巻き込まれているシオン。その状況で、二人は幻想の中で幸せになったからこの先もずっと幸せでいてねって離れていく一族の皆さん。やっぱりノラが一族のための犠牲でしかないし、シオンは仲間外れのままじゃない??

腑に落ちないポイントその3

さっきカイがシオンを噛んだ場面が超特大ライネスって書いたけど、本編でライネスが流れる場面=その物語における過ちはシオンがカイや屋敷のみんなを噛んで共同幻想を始めるところなんですよね。
場面的にライネスが流れるのはまあ分かるんだけど、個人的に一番罪深いのはカイの感情に付け込む形で共同幻想を始めたシオンではなくて、全てを知っていながら共同幻想に逃げたロビンなのではないかと思っています。まじで許されなくないですか?
幻想のノラ・ヴェラキッカを生み出したのはカイのどうしようもない罪悪感とシオンの優しさと後悔だと思っているんだけど、種明かしされて全部知っておきながら最後にみんなでシオンを屋敷に残していなくなるのがちょっとよく分からない……誰も何も学んでいない……
あの流れでシオンを1人にするのは、かつてのノラ・ヴェラキッカの孤独をシオンにも味わわせたいとしか思えないし、カイが「愛するかどうかは自分で決めろ」って言ってるけど、シオンは初めからノラを愛していたので例えどのような姿であろうともその幻想がノラ・ヴェラキッカを名乗る時点で愛さないという選択肢はないでしょう。それってシオンが自分で幻想のノラ・ヴェラキッカを愛すると決めたと言えるのかしら。

望む結末

まだまだ腑に落ちないポイントは色々あるけれど、じゃああの流れでどのような結末だったら“ハッピーエンド”だと受け入れられたか。批判をするなら代替案を考えなければあまりにも無責任だと思うので、私の考える最高に(私が)ハッピーなヴェラキッカの結末の話をします。配慮はないです。

個人的にミュージカル『ヴェラキッカ』における一番報われてほしい問題はノラとシオンの約束が果たされる=二人が再会できるところなので、そこに重点を置いて最高のハッピーエンドを考えました。
その結果、「一族みんなでノラの亡骸を掘り返すエンド」が一番(私が)ハッピーになれる結末なのではないかという結論に至りました。
だって考えてみてくださいよ。この結末だったら、
・みんなが本当のノラ・ヴェラキッカに会うことができる
・シオンとノラは再会できる
・共同幻想の中でノラ・ヴェラキッカを愛した記憶は残ったまま
・誰かを幻想に閉じ込める必要はない(=幻想のノラの望みは果たされる)
全ての問題が一気に解決するじゃないですか。
そもそも本編の段階で「愛されてみたい」というノラの望みは幻想のノラ・ヴェラキッカが叶えているし、幻想のノラ・ヴェラキッカが共同幻想の中で愛されることで抱いた「誰かを愛してみたい」という感情はキャンディが屋敷に来たことで叶えることができているし、そもそもシオンはノラを愛しているのでノラの望みは叶っているし、ノラも(その感情の名前は知らずとも)シオンのことを愛していると思っているのでその辺に関しては解決していますよね。そして幻想のノラ・ヴェラキッカが最後に望んだ共同幻想からの解放も叶います。ほら、みんな幸せ。
まあこの問題の一番の問題点はシオンの後悔への救いがないことなんですけど、でも衰弱死ならシオンがいてもいなくてもノラは死んでいたと思うし、彼の後悔が晴れないのは生きていようが死んでいようがノラ・ヴェラキッカの姿を見ることができなかったことにあると思っているので、シオンが屋敷にいてロビンと一緒に埋葬することができていたらもう少しマシだったのではないかと思うわけです。現実を直視して受け止めることで消化できるものってあるじゃないですか。

まとめ

まとめたいけど着地点を見失ったので適当に書きます。言ってることよくわかんないので後で消したり書き直したりするかもしれない。

ノラを愛する同志になりたかった

私はノラを愛する同志にはなれなかった。なぜならシオンと本物のノラ・ヴェラキッカに救われてほしかったから。ただ、ここまで長々と書いてみたけれど、何をもってノラ・ヴェラキッカをノラ・ヴェラキッカだと定義するかが幸せな幻想の中にいられるかどうかの決定的な差だったのかなと思いました。

あとはまあ、後日談も込みで考えると、幻想のノラ・ヴェラキッカと過ごすシオンが彼と出会うことで、ノラとシオンが愛し合っていたことは彼の記憶の中で永遠になったわけです。つまり誰も知らなかったノラ・ヴェラキッカは、姿は見えずとも誰かの記憶の中で永遠の存在となることとなりました。それを幸せと呼ぶかどうかはさておき、憂鬱な痛みを伴う彼らの愛は世界のどこかにずっと残っているのかもしれませんね、って感じでしょうか。

共同幻想に入れたか入れなかったか、どちらであろうとも、共同幻想の中でヴェラキッカのみんながノラを愛した記憶は、ヴェラキッカの一族だったみんなとそれを見ていた私たちの中に残っています。
ここまで色々考えたけど、出口のない共同幻想を救いがないと捉えるか愛で満ちていと捉えるかは正直どうでもいいのかもしれないなあとも思いました。大切なのはたぶん、“みんながノラを愛しているか否か”なので。そしてそれを観測した私は愛せなかったということなので。

それはそれとして、私だってノラを愛する同志になりたかったし、今回は珍しくいい話だったね!って言いたかったな!!って話でした。おしまい。

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