昨年と比べて時間を持てあまし気味の夏、オリンピック中継を夢中で見ている。そんな中でも、活字に目を向けさせたのが次の2冊。「アルプス席の母」(早見和真)と「笑う森」(萩原浩)。 スポーツの魅力も凄いが、エンタメとしての本の力もまだまだ捨てたものではないと思う。幸せな寝不足だー。
佐々涼子さんの『夜明けを待つ』を読む。 作中のある言葉を引用し、「同感!」。心が揺さぶられるエッセイ集だったと呟こうとしていたところ、後書きを読んでひっくり返った。 こんなに優れた書き手に今、命の危機が迫っていようとは。 とにかく伝えたいのは、読んで良かった。心から、ありがとう。
くる、こない、くる、こない、くる、こなーい……。 いつだって、待っているのは仕事の依頼だ。 時間を持てあまし気味のフリーランスの心境は、ときに花びらをつまむ乙女のように女々しい。 一方で、仕事が重なって嬉しい悲鳴を上げることもたまにあり、それがまさに昨年6月のことだった。 青学大の原晋駅伝監督の本の執筆を引き受けたのとほぼ同時期に、今度は文藝春秋さんから書籍の企画が舞い込んだ。 箱根駅伝を毎年生中継している日本テレビさんが、名物企画の一つである箱根駅伝「今昔物語
そうか、人に薦めたい本はここに書けば良いのか。 『まいまいつぶろ』(幻冬舎) すでにして話題作だが、本当に面白い。 これほど清々しい涙を流したのは久しぶりだった。 作中の言葉を用いて「さすがは、嵐」、と作者に感謝の気持ちを伝えたくなる。 人が皆こうであれば諍いもなくなるだろうに。
つづきから。 SNSをしていない私のもとに、どうして見ず知らずの編集者からメールが届いたのか。不思議に思う方もいるだろう。 じつは出版業界にはこのような慣例がある。 ある記事を読んで、その記事を書いたライターに連絡が取りたいと思った編集者は、まずその記事が掲載されている媒体(出版社)にコンタクトを取る。そして、担当編集者に連絡先を聞き、メールが送られてくるというわけだ。 もちろん今の時代、本人の意向を確認せずに連絡先を教えることはできないから、担当編集者からは事
会社を辞めてから、書く習慣を身につけようと始めた日記はもう20年以上になる。 ためしに昨年の今ごろを読み返すと、ちょうど思案に暮れていた時期だった。 書籍の企画書を書き上げ、文藝春秋さんに持ち込んだものの、あえなく撃沈。他社さんの意向も伺ってみては、と勧められたものの、知り合いは皆無……。さて、どうしよう、というのが前回の話である。 残された道は2つだ。諦めるか、否か。 当然、諦めたくない私は後者を選んだ。 普段、ネット上でスポーツものが読みたくなったときはNu
3年ほど前に書いた記事がこうしてまた読まれるのは嬉しい。瀬古昴さんのことを思い出していただければ幸いです。 https://number.bunshun.jp/articles/-/861294
アイヤー!(©「八月の御所グラウンド」万城目学・著) この現状を見て、中国人留学生のシャオさんなら間違いなくそう嘆くだろう。 野球でいえば、試合放棄と見なされても仕方がない。前回の投稿から間が空くこと1年以上……。どうしてこうなったのか……。 理由を挙げれば、いくつかある。 犬を飼いだしたこと。世話が大変なこと。その犬がかわいくて仕方ないこと……。 それ以上の要因は、本の執筆依頼をいただいたことだった。しかも、同時に2冊! 昨年の5月以降はその仕事にかかりきりに
あわわわわわわっ。 気づけばもう年の瀬じゃないか。 noteに書こうと思ったことはまったく綴れず、あたふたしているうちに季節がさっさと移ろいゆく。 歳を取ると時間が過ぎるのが早く感じられると言うけど、ほんとだね。 というわけで、今回も閑話休題。 現在発売中のNumber(1065号)で駒澤大の駅伝記事を、そして週刊文春(12月29日号)では相撲界のニューヒロインたちについて記事を書いています。 どちらも手間ひまをふんだんにかけておりますので、機会があればぜひご笑
箱根駅伝を取材するようになってもう十数年が経つ。この時期になるとわちゃわちゃと身辺が忙しくなり、過去の自分(note)と向き合う余裕がなくなってしまう。 だからどうでもいいことを書きまーす、というふうにもならなくて、noteは綴られないままの状態が続いてしまう。 犬を散歩させたり、犬の足を踏んで獣医さんに診てもらったり、そこでレントゲンを撮られて一万円以上の請求が来てあたふたしたり、毎日は本当にどうでもいいようなことの繰り返しだ。 でも、毎日を一生懸命生きないと、愛犬
昔書いた原稿が、改めて公開されている。(https://number.bunshun.jp/articles/-/854891) ノリックと聞いて、反応が返ってくるのはある程度歳を重ねた読者だろう。 90年代、モータースポーツは今とは比べ物にならないくらい人気があり、鈴鹿(サーキットがあるのです、念のため)市の隣町で育った私は、その熱狂をより身近で感じてきた。 今はもう時効だからいうけれど(時効だよね)、私が津西高に通っていた頃、鈴鹿サーキットには秘密の抜け穴が
ずいぶん久しぶりのnoteになってしまった……。 つくづく自分というやつは、〆切りがないと原稿が書けないんだなと思う。書くことが嫌いではないが、書くことに執着がないのだ。困ったことに。 まあ、とにもかくにも続きを書きたい。 (この間、目に留めていただき、読んでいただいた皆さまへ。どうもありがとう!) (現在発売中の週刊文春10月6日号に、シニアYouTuberのグラビア記事を書いています。機会があればご拝読ください) さて、ひょんな理由から挑むことになった、人生初の
転職をする人と、一つの会社で添い遂げる人、今はどちらの方が主流なのだろう。昔と今とでは、転職に対する心の持ちようも微妙に変わってきているのだろうか。 僕が会社を辞めたのは平成10年の年末だった。 年齢で言えば28歳のとき。すでにセカンドキャリアを歩むにはギリギリという認識だった。 就職時は買い手市場だったこともあり、せっかく入れた会社を手放して良いのかという不安も抱いていたはずだ。しかも自分の場合は転職ではなく、とりあえずの退社である。親に相談したとき、絶句し、猛烈
noteを綴って3回目。 なんとなく書く方向性が見えてきた。 エッセイではなく、体験談。この媒体と相性が良いのはおそらく後者の方だろう。 自分に置き換えてもそうだ。他人の人生ほど気になるものはない! ということで、ここからは時系列に沿って自身の来た道を振り返ってみたい。 なぜサラリーマンを辞めて、ライターを志したのか。 その理由はわりとシンプルだ。 僕が会社を辞めたのは1998年の年末だが、もちろんその直前になって決断したわけではない。2,3年前からなんとな
甲子園が始まる。 夏の甲子園。とりわけ思い出深い試合がある。 横浜対PL、延長17回の名勝負……野球に詳しい方なら、ああ、あの試合ね、とピンとくるのではないか。18歳の松坂大輔が250球を投げきり、横浜を決勝戦に導いた伝説の一戦だ。 僕はあの日、ライト側の外野席に座り、1人の高校球児がスターに駆け上がっていく瞬間を目撃した。伝説の試合を観戦できた、幸せな観客のひとりだった。 1998年の夏といえば、まだサラリーマンをしていた頃だ。 なぜ有給休暇を取ってまで甲子園
現状打破の思いを込めて、これからnoteを綴ってみたい。 仕事があるときはあり、ないときはないのがフリーランスの宿命で、現状打破などと言っている時点でもはやヒマなことは明白なのだが、そこはもう恥も外聞も投げ捨てて、率直に今の心境を綴ってみたい。(TwitterやFacebookすら未経験のSNS初心者なのに、noteがどのようなものなのかよくわからないままいきなり始めて大丈夫なのだろうか……) まずは簡単な自己紹介から。 ライターのジャンルで言えば、私はいわゆるノン