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雑穢 #1028

 引っ越しに際しては荷物を厳選した。
 家電製品も持ち込まず、大物はマットレスだけ。一階にはコンビニがテナントで入っているので、冷蔵庫も不要。コインランドリーへも歩いて数分なので、洗濯機も不要だ。
 着替えやノートPC、スマートフォンの充電器、生活雑貨など全て入れても、荷物はトランクに詰めてお釣りがくる。このような生き方は、ミニマリストと言われている。自分程度がミニマルとは思わないが、余白のある生き方の方が気持ちが落ち着くのは確かだ。
 今回の引っ越しは何度目になるだろう。荷物が少ないと、引越しも楽だ。何なら次はホテル暮らしにしてみようかとも思っていたのだが、やはり住所があるのも大事かと思って新築のワンルームマンションに決めた。
 だが、この部屋に引っ越した時から、何でこんなに居心地が悪いのだろうと、気持ち悪く感じている。内見時には感じなかった感覚だ。新築なのだから、何もない空っぽの状態であって欲しいと思っているのだが、その思いに反して、何かがぎゅうぎゅうに詰まっているような感覚がある。
 よくない。
 気圧なのだろうか。時々ひどく苦しくなる。
 一週間、二週間。我慢できたのはそこまでだった。
「——結局お前何を見たの」
 友人の部屋に泊まらせて欲しいと連絡をして、快諾してもらったはいいが、会った途端に酷い顔をしていると驚かれた。それも窶れているだけではなく、妙にキョロキョロとして、何かを恐れているような挙動が気になると指摘された。
「その部屋で、何か怖いものを見たんだろ。教えてくれよ」
 友人が興味本位なのか心配しているのかは、よくわからなかった。きっと両方だろう。
「歯磨きしてるんだ」
 何かがキッチンに立って一日中歯磨きをしている。それだけだ。ただそれだけで、こちらを向いたり、何か話しかけたりしてくる訳でもない。そもそもそれには顔もない。ただ気配だけがある。聞こえてくるのは、微かなブラッシングの音だ。
 歯磨きを続ける理由もわからない。意味もわからない。
 その夜は、半ば呆れたような友人の部屋に転がり込んで、久しぶりに。ゆっくりと寝ることができた。
 しかし、その友人とは今はもう連絡が取れなくなっている。
「歯を磨いてる」
 最後にメッセージに書かれたそれが、どういう意味かは考えないようにしている。


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