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実話怪談の周辺#7 現在進行形の怪談をどう扱うか

昔々のことを思い出す。

当時実話怪談は「完了した話」しか書いてはいけないという派閥があったと思う。現在進行形の話はいけない、という派閥だ。厳密にそれが怪異であったことを確認してからでないと叙述してはならない、という訳だが、それを証明するのは実のところ大変難しい。

「怖かった」は主観的体験であるが、「怪異」は客観的でなくてはならない、という非常にストロングスタイルな立ち位置ということもできる。実話怪談は、実際に起きた怪異現象の報告書であり、オカルト現象や心霊、死後の世界の証明でなければならない、ということなのだろう。

しかし、これには穴がある。怪異でなかった(ただの偶然だった)としても、体験者が怪異だったという認識を持ち続けた場合は、それは怪異として扱われることになる。そのような場合、これは正しいのか、ということになる。極端な話、それが10年後20年後に怪異ではなかったと明らかになった場合はどうするのか。怪異ではありませんでしたと公表し、詐欺であったと謝罪するべきなのだろうか?

おそらく誰もそれはしないだろう。

ある意味実話怪談という文芸は、体験者の時間軸の切り取り作業でもあり、その後のことは考えていないのだ(そこはちゃんと考えろ、検証しろ、事後報告しろという強硬派もいるだろうが、まぁ、現実には難しいだろう)。

では「体験者が実は怪異じゃなかったと知った上で語られる、怪異と考えていた過去の時点のこと」(ややこしいね)は実話怪談としてどうなのか、という議論が成立することになるだろう。つまりは過去の出来事を「現在進行形の怪異」として書くことが可能なのではないか、という話なのだが、これはアンフェアであろうか?

なお、小生においてはこれは「あり」という立場だが、それが実話怪談という形の文法を逸脱しているという意見も理解できる。なぜならば、実話怪談とは怪異の実在というロマンを前提とした文芸であるからだ。

だからこそ、現在進行形の怪談は、未来永劫現在進行形でなければならない。長年連絡の取れない友も、訃報がなければどこかで元気でやっているのだ。

振り返って今の状態を見るに、現在進行形の実話怪談は、現在では受け入れられているように思える。

ただ、注意しなくてはならない。安易にその怪談の未来を明かすことは避けるべきことだからだ。検証不可能性がそれを怪談として成立させているということに自覚的である必要があるからだ。手品はタネを明かしてしまえば、そこに不思議はなくなってしまう。命が失われてしまう。

現在進行形の怪談とは、そのようなものであるという自覚が必要な怪談だ。

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