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雑穢#1032

 ポイント制のコンドミニアムを契約しているので、年に何度か色々な施設を別荘として使っている。文筆業をしているが、筆が進まない時には、気分転換と称してポイントの安い平日を狙って滞在するのだ。
 パートナー氏はフルタイムで仕事をしている。だから誰もいないがらんとした自宅で執筆や作業をすればいいだけなのだが、自分の悪い癖として、筆が進まない時には、ちょっと気分転換をと、積み本を読んでしまったり、本棚の整理を始めてしまったり、気がついたら地崩れのようにゲームに手を出してしまったりする。
 一方で何もないコンドミニアムは仕事が捗る。そもそも車がなければ不便な場所が多く、それゆえにタクシーで乗り付けると、もう仕事以外にやることはない。自主的な缶詰だ。食事はケータリングが頼めるのがありがたい。

 その週もあまり仕事は進まなかった。気持ちが乗りさえすれば一晩で書き上がるであろう原稿が、二晩三晩掛けても全く埋まらず、気持ちだけがくさくさしたものになっていく。
「これはダメだ」
 そう小さく呟いてベッドに転がると、まだ起きていたパートナー氏が「一週間ぐらい気分転換してくれば」と言ってくれた。そうだね。行ってこようかな。それならどこがいいかな。
「うん。そうする。ありがとう」
 締め切りまではまだ数日ある。それを過ぎたとしても、頭を下げればあと数日は伸びるだろう。信用が落ちるからと、最初の締め切りに間に合わせようと頑張ってはいるけれど、ダメな時はダメなのだと、最近ようやくわかってきた。

 惣菜パンとパックごはん、インスタントのスープと缶詰。日持ちする調味料を少し買って、施設に到着したのはもう日が暮れる頃だった。フロントで鍵を受け取り、部屋に向かう。ドアを開けて中に入る。机も広いし、ベッドも広い。嬉しい。本来なら四人用の部屋を一人で使うのは贅沢だとは思うけれども、それでも一人で羽根を伸ばして自分を取り戻す時間は持ったほうがいい。ただ、今回は仕事なのだけれど。
 まずはお風呂にたっぷりお湯を溜めて、ゆっくりと浸かる。自宅のお風呂はバスタブも狭くて足を伸ばすこともできないから、さっとシャワーを浴びるだけになってしまう。パートナー氏を置いてスーパー銭湯に一人で行くのはちょっと罪悪感があるし、わざわざバスを乗り継いでいくのも面倒だし。

 ただ、湯船で体を伸ばしていると、ちょっとした違和感を覚えた。部屋の中からスリッパを履いた足音が聞こえてきたのだ。もちろん扉はオートロックで、自分が部屋に入った時に誰かがいたということもないだろう。だからこの足音は、上か隣の部屋から聞こえてくる音に違いない。安普請ということはないだろうが、ある周波数だけが響くというこは、あり得るのかもしれない。そんなことを思いながら再び聞き耳を立てた。ぱたぱたぱたという足音は、脱衣所のすぐ外の廊下から聞こえてきている。近い。次第に不安が心を満たしていく。
 湯船から一度上がって、脱衣所に出る。また耳を澄ます。ぱたぱたぱたぱたという足音。意を決して脱衣所のドアを開ける。誰もいなかった。ほっとして風呂場に戻る。戻るとまたぱたぱたと足音が聞こえ始めた。やはりどこかの部屋の音が響いているのだろう。そう思ったら安心した。長湯をして風呂から上がる。

 夕飯を軽く食べてから仕事。やはり気分転換は大事だ。少し進んだ。気がついたら午前二時になっている。そろそろ寝ようと思ってトイレへと向かう。手探りで廊下のライトを点ける。その廊下は玄関からまっすぐ伸びているので、足元を見ているのでもなければ、自然とそちらの方に視線を向けることになる。
 その玄関の三和土に老人が立っていた。
 二度見して息を呑む。老人はただぼうっと立っている。もしかしたら、ドアのオートロックが壊れていて、隣室の人が間違えて入ってきているのではないか。しかし、ここを離れていいものだろうか。フロントに連絡をしようと離れた隙に、老人がこちらにまでやってくるかもしれない。いや、絶対にやってくるだろう。睨み合いになった。こちらは動けないし、あちらは動かない。
 自分は緊張すると、数を数え始める癖がある。だいたい一秒に一カウント。何秒でこの危機が去るのかと、無意識に思うのだろう。
 二十三、二十四。
 思ったよりも時間はゆっくりと過ぎていく。老人の姿が掻き消えるように見えなくなったのは、数え始めて五十五秒後だった。
 確認すると、ドアには鍵が掛かっていた。見間違いとも思えないので、たぶんあれは幽霊というものなのだろう。トイレに入って廊下に戻っても、老人が再度現れることはなかった。眠気も去ってしまったので仕事の続きをすることにした。
 ぱたぱたぱたぱた。
 仕事を再開して三十分と経たずに、廊下をまたスリッパで走り回る音が始まった。午前二時半に部屋の中を走り回るような人はたぶんいない。
 警戒し過ぎてお腹が空いてしまったので、明るくなる頃に惣菜パンを食べた。

「仕事は捗ったかい」
 パートナー氏は、予定よりもだいぶ早く戻ったことに驚いていた。旅先で起きたことを伝えると、同情するような発言と共に、それで仕事が早く済んだならよかったじゃないと、慰めの言葉を伝えてきた。
 さらに、どうしてもその老人のお化けのことが見たいと繰り返す。仕方がない人ですね。

 以後、その部屋を指定して何度か訪れた。しかし、あれ以来同じ経験はしたことがない。
 そしてとても残念なことに、契約期間が終わってしまったのか、それとも何か別の理由があったのか、今は施設のリストから消えて、もう二度と泊まれなくなってしまった。

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