自分が偽物に感じる


のは、いつからだろう。

上手く言葉に出来ないが、自分の人生を歩んでいる感覚があまりない。喜びや悲しみは勿論感じられることは出来る。だけれどどこか他人事に感じる。人に優しくなりたいのに、人に対して興味が持てないから心の底から思いやることが出来ない。こんな人生に正解不正解はないことは重々承知している。泣きたいときも理由を無理やり付けて泣いている気がする。泣くことに理由なんて必要ないはずなのに。この偽物に感じる感覚を言葉にしようとすればするほど私の頭の中から言葉が抜け落ちていく。誰かのようになりたいから、誰かのように演じようとする、昔からその癖が抜けないからなのか。本当に私がこの世界を謳歌して、泣いて、笑って、生きていく。この感覚が私は欲しい。私は卑下する癖も治らないし、自己否定ばかりしている。辞めればいい話、そんな事も分かっているのに脊髄反射で自己否定している。だけれどもう家庭環境のせいにするのは辞めた。だから、私は偽物に感じたまま生きることを選ぶ。辛いけれど。優しい言葉を投げかけられても、私の中には響かない。私が性格が悪いからなのか、興味がないからか、偽物だからか、言葉を大切にしすぎたからか、どんなに言葉を貰っても飲み込めない。

私はいつ、本当の私になれるのだろう。

「全てを終えて、力なく、気持ちの中に何も残らない空白。その空白の場所に立った時、僕は本当の僕になるのかもしれない。自分の犯した罪とは無関係に、泥水の中に埋まりながら、遠くで遊ぶ小さい子供の笑顔を、頬を泥につけながら微笑んで眺める。その時、僕は生きている、と思えるだろうか。その時、僕は全てから解放され、本当の自分になっているだろうか。」( 何もかも憂鬱な夜に / 中村文則 - 集英社 108ページ)


この真下の言葉を思い出す。その空白の中に私も行きたい。

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