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含羞と遠慮ぶかさ/質量のある水平線/惑星みたいなシャンデリア/『ラッカは静かに虐殺されている』

 2月25日。7時半ごろ洗濯機の音で目が覚めたが、二度寝する。体を起こしたのは9時過ぎ。台所に降りて鍋で玄米を炊き、具沢山の味噌汁をつくる。納豆と辛子明太子、はちみつ梅干し。松本で暮らしはじめてから、これらを毎朝かならずたべている。実家にいたころ、朝はありものや冷凍食品などで適当に済ませていた。食に興味がないと自分では思っていたけれど、あたらしい生活が始まったとたん、衣食住を善くしてゆきたいという欲求が湧いてきて驚いている。
 隣室の住人が起きてきて、ぎごちなくあいさつを交わす。この家の空気感は、シェアハウスという単語のもつ華やかさや胡乱さから遠くかけ離れている。いま暮らしているのは3人で、28歳の私がいちばん年下だ。含羞と遠慮ぶかさ、過剰なまでのこころくばり、無難な天気の話などで成り立っているこの微妙な関係性は意外に快い。
 松本にやってきて一ヶ月半。いろんなものを見た。住宅街の川辺で水をのむ鹿。氷彫フェスティバル。まつもと古市。そしてなにより寒さだ。マイナス5度でも、ひとびとは平然と街を歩いている。寒いというか、痛い。部屋のなかでも息が白い。とんでもないところにきてしまったと思った。iPhoneの天気アプリをひらくと、滋賀は8度。二年前まで暮らしていた埼玉の気温を見てみると、12度。なぜか無性に腹が立つ。
 だけど、景色は圧巻だった。近所の弘法山古墳にのぼると、市街地が一望できる。こまごまと白くひかる町並みの奥に、巨きな山脈がぬったりとよこたわっている。北アルプスはいつもまっしろで、ひかりがあたると薔薇色にかがやく。曇りや雨の日は山脈の先端に霧がかかり、中腹から麓までが青い帯のようにながく横に伸びてみえる。質量のある水平線というか、とにかくおぞましいほどおおきくて、怪物めいて、そして途方もなく美しい。人間のつくったものではない景色。こんな風景を視界の端につねにみとめながらいとなむ生活はいったいどんなものか、と暮らしている今も思う。
 今日はアルバイトが休みなので、家でエッセイの仕事をする。滋賀にいた頃は湖畔のホテルでバーテンダーをしていたが、今の職種は全くちがう。大型商業施設のなかの、大手の生活雑貨店だ。引っ越してきたばかりのころ、市内のホテルのアルバイトも試した。けれどなんだか、ちがうと思った。惑星みたいなシャンデリアがいくつも浮かぶ広大な宴会場。ワンピースの丈がなぜかひどく短い女性用制服。重たい皿。たっぷりと廃棄される食べ残し。高価そうなスーツに身を包んだ男たち。酒気を帯びた笑い声。
 ここは閉じたハレの場だ、と思った。とくべつなひとびとで構成された、とくべつな空間。休日の世界。だけど私はいま、生活に興味がある。淡々と営まれる平日の静けさに。ほどなくホテルの仕事を辞めて、市街地のまんなかにあるモールに向かった。衣類から食品まで幅広く扱う小売店の面接を受け、採用してもらった。制服はなく、ピアスも外さなくていい。好きな色、好きな素材の服を着てよいということで、紳士用のゆったりした黒いニットを買った。
 ひろびろとあかるい店内には、いろんなひとがやってくる。みんなスーパーの袋を抱えていたり、通勤バッグをもっていたりする。トイレットペーパー、レトルトカレー、かみそりの替え刃、除光液。購入されてゆくものもすべて生活に沿った身近なものだ。棚に並んだなじみ深い商品を見ていると、なんだか安心した。
 いっしょに働くひとびとはとても親切だ。マニュアルもしっかり用意されていて、今なにをすればいいのか、迷うこともない。これまでの職場でいちばん働きやすいとさえ思う。中庸、という言葉が浮かぶ。
 エッセイを書いたあと、『アホウドリの迷信』を読んだ。どの話も湿度が高く、すばらしかった。アスパラガスと豚肉を塩とバターで炒め、朝に用意した玄米と味噌汁をあたためて夕食にした。湯舟をため、ミルクの入浴剤をいれて浸かる。ドラム式洗濯機から取り出したばかりの毛布はいい匂いがする。生活の、ひとつひとつに手間がかかる。でも今は、そのすべてがとても娯しい。
 布団にくるまり、『ラッカは静かに虐殺されている』を観る。途中で涙が出た。報道活動のことを、かれらは「仕事」と呼ぶ。これほどかなしく、つらい仕事があるだろうか。ひたすらに追われつづけ、国を点々とするかれらの生活のむごさを思い、目をとじる。
 就寝前、iPhoneをみると不動産屋の担当者から事務連絡がきていた。3月からあたらしく住む部屋が決まったばかりだ。旧い温泉街の高台に位置する建物。これまで借りたなかでもっともちいさく、そしてもっとも眺めの良い部屋だ。シェアハウスの6畳間でしばらく暮らしてみて、それほどおおきな空間やたくさんの物は、もう自分には必要ないと判断した。
 あたらしい部屋では、なるべく静かに暮らしたい。きっといろいろあるだろうけれど――この一ヶ月半がそうであったように――、今回は趣味で移住してきたのだ。苦しみにきたわけでも、頑張りにきたわけでもない。おだやかに、なだらかに、暮らしの時間それ自体をしみじみと味わっていきたい。いつのまにか雪が雨に変わっている。午前1時ごろ就寝。

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