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『コープスブライド』『香水』『人類遺産』『黒い美術館』『ダゲール街の人々』

 
 今年はなにかあたらしいことを継続してみたいと思い、読書日記をつけることにした。ぜんぶ書くと疲れるので、感想を書きたいと思った作品のみ。映画も含みます。ゆるゆると続けていきたい。

1月1日~1月10日

『ティム・バートンのコープスブライド』 ティム・バートン

 全編ストップモーションで撮られた映画。青灰色の陰鬱とした此岸と、いろあざやかな絵の具で塗りたくられた彼岸。ワヤン・クリと呼ばれるインドネシアの影絵芝居を思い出した。白い幕の向こう側でランプに照らされた人形はその影によって白黒の世界を構築するが、実は人形はみな極彩色の装飾に彩られている。舞台の幕はすなわち生死の境界線で、此岸である客席からは決して目にすることのできない豪奢で煌びやかな光景が、彼岸である舞台裏に拡がっているということらしい。人形のざらついた表皮やなめらかすぎていっそぎこちない動きを目で追うのが楽しかった。
 鑑賞後、屋敷のセットにスタッフらしい男性がしゃがみ込み、ちいさな人形たちの青い食卓を調えている画像をみつけた。『KUBO/クボ』と同じスタジオが製作したとあとで知って納得。


『香水―香りの秘密と調香師の技―』 ジャン・クロード・エレナ

 錯覚は、嘘ではない。欲望に応えるためのひとつの方法だ。

 エルメスの初代専属調香師である著者が記した、香水についての小さな本。『地中海の庭』『ナイルの庭』『屋根の上の庭』など、庭シリーズと呼ばれる名前だけは知っていた。知識はほとんどなく、手元にも数本しかもっていないが、香水の説明文に散見される独特の語彙には以前から惹かれていた。香りというエフェメラルな衣裳の裳裾をなんとかとらえようともがく人びと。かれらが香りの表現に費やす語は、うつくしい詩群にも似る。さわることのできない、目にも見えない香りは嗅覚以外の感覚に代替されることが多い。

「固い、すべすべした、冷たい、温かい、ビロードのような、乾いた、平らな、鋭い、絹のよあな、刺すような、柔らかい、細かい、重い、軽い、ざらざらした、もろい、油のような、ねっとりとした」……。

 アフリカには、色彩の名を語彙にもたない文化があると著者はいう。色の違いではなく、色の濃淡によって世界を認識しているのだと。「乾いた」色、「湿った」色、あるいは「葉の」色、「日暮れどきで雨が降る前の空の」色。
 言葉はいつだってものそのものにはとどかない。浮遊する詩群は、しかしときには香りに代わってひとびとの指先を誘惑し、未知の小瓶に秘められた世界へと導く。


『人類遺産』 ニコラウス・ゲイハルター

 世界各国の廃墟を固定カメラで映した短い映像が、つぎつぎと流れてくる。音楽も解説もない。冒頭しばらくは日本の東北の街。本屋には、おそらく震災の際に書架から落ちた無数の本が白い血液のように床にひろがっている。ほかにもさまざまな国のスタジアム、クラブ、商業施設、プラント、学校、病院、なにかの巨大施設、集合住宅などが、淡々と映されてゆく。
 実は先月の半ばに鑑賞を開始していた。私生活でいろんなことが重なって、気持ちがどうしようもなくなっていた頃だった。深夜、毛布にくるまったまま窓を覗くように、たくさんの廃墟をながめた。がらんどうの広大なスタジアムで、破れた屋根の隙間から雨滴と光がまざって烟のように降りそそく光景をみていると、頭の芯がぼうっとしてきて、いつのまにかねむっていた。
 あのときのつらさがよみがえってきてしまう気がして続きの鑑賞を避けていたが、いざ開始するとすべての想念がふきとんだ。錆びた鉄塔の墓場。白く粉っぽい海辺の景色。巨大アパートの断面。かつてそこにたしかにあった、けれど今はもうないもの。画面のむこうにひろがる静けさで全身をひたひたにして、まどろみながら観た。ものすごく素敵な夢をみたような気分だった。


『黒い美術館 マンディアルグ短編集』 アンドレ・ピエール・ド マンディアルグ

マルスリーヌ・カイン。いうなれば灰と、砂と、血を混ぜあわせたような女だった。艶のない、三角形の、強情そうな小さな顔をして。

「仔羊の血」

 タイトルに惹かれて手に取ったが、珠玉の短編集だった。浴槽でみずからの血の管をやぶいた少女の足取りを、ビデオを逆再生するように追ってゆく「サビーヌ」。真夏の海岸、いとこ同士の少年と少女の遊戯と呼ぶにはあまりにむごい行為が、眩い泡沫のなかでいとなまれる様を描いた「満潮」。
 もっとも好みだった「仔羊の血」は、いつくしんでいたうさぎが両親によって料られ、さらにその肉を知らぬうちに食べさせられた少女が、さらに悪夢のような経験を経たのち、一晩で復讐を遂げる物語。うさぎは金盞花(スウシー)と名づけられていて、飛浩隆『グラン・ヴァカンス』に出てきたうさぎもたしか同じ名だったなと思い到る。飼い主の知らない間に屠られ、知らない間に食卓に供されるという展開も同じだったはず。残酷で官能的な舌ざわりの描写にほとんど見とれる。
 深海にも似た小路地に迷いこむ「ポムレー路地」と、異形の男女が蝸牛の家で繰り広げるけばけばしい祝祭と地獄を詰め込んだ「ビアズレーの墓」もとてもよかった。こういう小説をもっと読みたい。


『ダゲール街の人々』 アニエス・ヴァルダ

 監督自身が長年過ごした街の様相を映しとった作品。パン屋、肉屋、香水店、美容院、楽器屋、乳製品店、アパートの管理人、金物屋、自動車教習所の教師。ひとびとは互いの店で買い物をし、日夜収縮するひとつの器官にも似た小ぢんまりと美しい街で暮らしている。
 街の日常と並行して映されるのは、街にやってきた手品師の興行だ。真夜中におこなわれる非日常の光景。手品師は火をのみこみ、米を二倍に増やし、水をワインに替え、なにもないところから紙幣を取り出す。多重露光のように画面に流れてくるのは、町民のなにげない日々。火はパンを焼く道具にすぎず、米は秤で正確に量られ、ワインのボトルは店先に並び、金はやりとりの分のみ増減する。堅実に、正確に、淡々と生きているひとびとが、無邪気に手品に見入る様が延々と映される。
 後半で、香水店を営む老婦人が夕方になると外に出たがり、店のカウンターのむこうから夫が引き止めるシーンがむしょうに記憶に残った。「夕方になると、だれもがどこかにいってしまいたくなるものです」という旨の言葉を人びとは口にする。ラストで響く「カット!」の声。夕まぐれ、日常と非日常のあいだ、虚構と現実、境界線をいったりきたりしながら、ひとびとは夢みるように、地に足つけて、街を生きている。

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