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中学生の頃、人の脚しか見ていなかった話


まあタイトルの通りなんですが。

中学生の頃、(もっと言えば小4から高2くらいにかけて、)今思い返せば人の顔より人の脚ばかりを見ていた気がする。
中学生の頃は特に、同じ小学校出身で見慣れた人が多かったからか、男女問わず学年の人の過半数を脚だけで見分けられたほどだ。

一応言っておくが別に脚フェチではない。
そんなに簡単な話をするためにわざわざ長文記事を書き始めたわけではない。



当時の私が人の脚しか見ていなかった理由は2つあると推測している。


1つめは、羨ましかったからである。

中学生女子ともなると体型を気にするお年頃。
私は太っている部類だったため(何なら今もそうだけど)(各所で言っているが「そんなことないよ」を要求しているわけではないので絶対に言うな)、痩せている子の脚を見ては羨ましいなあ、あの子みたいな脚になりたいなあと思っていた。

そして、稀に私よりも太っている人を見ると、まだ私の方が細い、と安心してもいた。
こういう思考回路が中学までの私には強く根を張っていた。
こいつが高校に上がって中学時代を振り返った時に私を苦しめることになるのだが……。


2つめは、顔を見られなかったからである。

今でもそうだが、私は人と話す時に顔を見て話せない節がある。
そこのお前、典型的なコミュ障陰キャだな、と思っただろう。ああそうだよ悪いか。

顔を見られないとなると、必然的にどこか別のところを見ることになる。
当時の私は今よりもコミュ障陰キャだったので──というより今のほうがコミュ障であることを隠す能力が多少向上したと言ったほうが正しいか──、人と話す時には目線が下がりがちだった。
相手の人の顔から目線を下げていくとどこに辿り着くか。そう、脚である。

特に、あまり話したことのない人と短い話をする際にこの傾向は強く表れた。
親しい相手であれば多少は顔を見て話せるようになるのだが、そうでない相手の場合は顔が見られない。
長い話、つまり自分の趣味や考えや価値観に関する少々立ち入った話をするときは、あまり人の顔を見続けなくてもおかしくはないので、大抵何もない虚空を見ながら話す。
一方、自己紹介や世間話のようなちょっとした話の際に虚空を見ているのはおかしい。かといって顔も見られない。そして結局、うつむいて脚を見ることになるのである。

(ちなみに、今は上のような状況でもある程度相手の顔を見られるようにはなったと思う。まだまだ普通の人の挙動には程遠いけれど。)

通っていた中学校の制度も多少は影響した。
うちの中学では、登下校時のみ制服を着用し、校内にいる間は体操服かジャージで過ごすというルールがある(今は夏のジャージ登校が認められているようだが、私の在学当時は基本的に台風のような悪天候時しか認められていなかった)。
つまり、冬場を除けば校内の多くの人が体操服のハーフパンツを履いており、膝下が見える状態だったのである。
結果として、私は「脚を見て人を当てられる」能力を手にしてしまったのだ。
実際に試したことはないが、自信はあるつもりだ。中学の同級生がインスタに顔を隠して友達(私の知らない人)と写った写真を投稿したときに「あ、こっちが〇〇ちゃんだ」って判別できるもんね。


以上の理由・経緯から、私は人の脚ばかり見ている人間になっていったのであった。

そういう状態から脱却できた話も書こうかと思ったが、書こうにも「高校で良い友人やクラスメイトに恵まれたから」としか言えないので、とりあえずは特に触れないでおくことにする。
そもそも、主題となる成功体験の土台としてしかマイナスな経験を扱わないタイプのブログを私は好かないので。
「こんなに辛い経験を自分はしてきたけど、こうしたら上手くいって今人生超ハッピー! みんなもやってみてね☆」みたいな。上から目線も大概にしろよってなる。
(過去の自分と同じような状況にある人が幸せになる手助けをしたいっていう考えが合理的で素晴らしいのはわかるんだけど。ひねくれ者でごめん。)

今後はもっと普通の挙動ができるようになりたいです。
頑張るぞ……